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借り物の言葉でありのままの自分にはなれない

「まあ、良い時代になってるんだなと思いますよ。バナナの皮を剥きながら滔々と語り出す。このバナナの皮のように古い価値観が捲り剥がされ、このバナナの果肉が今あなたの目の前に顕れたように人間の本質が今まさに剥き出しに肯定される実に好ましい時代が到来している。人間の本質、それは人間の多様性です。目覚ましい技術革新によって現代では多くの日本人にスマホが行き渡り、手のひらの中で価値観のアップデートを図ることが可能となり、個人の価値観を、社会の価値観を変容する可能性をポケットに入れて持ち歩きながら日々の生活の24時間を過ごしている。私が生まれた頃には到底考えられなかった世界が、今、私たちが生きている世界なのです。

多くの人々が自由に個人として内心に秘めた思想を、価値観を、リアルの世界ではなかなか表明しにくいアレコレを、己の言葉で、インターネットやSNSを介して人々に訴えかける機会を得ました。そして、その言葉たちは届くべき人たちや、届ける必要のなかった人々のもとへと届き、更なる唸りを生み出すのです。その言葉たちに救われ、目を開いた気持ちに至る人もいます。また、その言葉たちに絶望し、自分の生を苦しめる敵の正体を喝破した気持ちになる人もいます。そしてまた、そんな言葉たちに突き動かされた彼らも、自らを突き動かすその言葉が真に価値と意味のある言葉であることを証明するために、己の言葉を発さなくてはという衝動を発露するのです。

己を肯定してくれた言葉たちを肯定するために、それらの言葉を肯定する言葉を紡ぐ者たち。己を否定した言葉を否定するために、それらの言葉を否定する言葉を紡ぐ者たち。どのように言葉を紡ごうとも、投げかけられた言葉たちに呼応するように声をあげる人々はそのいずれかに分類されてしまうのかもしれません。

ある者は言います、ここにある言葉たちは自分そのものだったと。

ある者は言います、ここにある言葉たちは自分を苦しめてきた人間どもの姿そのものだったと。

インターネットを奔放に飛び交う言葉たちと、それに奔放に心を動かす人間たちがそこにあり、そしてまた言葉に突き動かされるように人間たちが己の言葉を吐き出し、その言葉たちがまたインターネットを飛び交う。マトリョーシカのように合わせ鏡のように、誰かをなにかをとある言葉を肯定する言葉と、誰かをなにかをとある言葉を否定する言葉とが、くんずほぐれつに交錯し続けたその先には一体何が待っていたのか?

これは、先程、皮を剥いたバナナの果肉です。……なんだか、先ほどより黒ずんで見える。当然です、皮を剥いたきりそのまま、今の今まで放置されていたんですから。本当ならそのまま、すぐにでも口から腹に入れてしまい、うんこにするべきものだったんです、この、バナナは。でも僕はそうはしなかった。皮を剥いたバナナを目の前にしながら、それをどうしようともせず、皮が捲れるということとは、言葉によって己の価値観が変わるということとは、それを今この瞬間まで滔々と語り続けてきました。その間に、このバナナはこんなにも傷み黒ずんでしまいました。僕は泣いています。このバナナが、せっかく不要な皮を剥かれ、一番食べやすい形に、私が腹落ちしやすい形になったというのに、私はそのバナナを私の胃袋に収めることもなく、滔々とあなたに語り続けたのです。私がここまでに語ってきた言葉たちは、果たして本当に私の言葉だったのでしょうか。私にはもうそれがわかりません。

確かに、確かに誰かの言葉は時に人の視界を拓きます。それまでに見えていた世界が一変し、自分が愛すべきものと憎むべきものがクリアに理解され、ありのままの自分の形が見えてくる。そんな体験をもたらす誰かの言葉というものがこの現代に溢れかえっています。それは良いことなんでしょう、素晴らしいことなんでしょう。このバナナの皮を誰も剥くことができなければ、このバナナはきっと誰の口に入るともなかったのだから。

このバナナ。このバナナ、今、私の手の中で、私の手の温かみによって刻一刻とより黒ずんでいくこのバナナ、私の口に入ることなく黒ずんでいくこのバナナ。このバナナをここまで黒ずませてしまったのは、誰か?

それはもちろん、他でもない私です。誰かの言葉に出来ることは、私のバナナの皮を剥くところまで。それを口にして、腹に入れ、血肉にして、うんこにして、そして食べたバナナをうまかったと己の言葉にして吐き出し、皮を剥きたての真っ白いバナナはこんなにおいしかったと語るその役目は、他でもない私の役目だったはずなのです。しかし私は、私の前に遂に顕れたそのバナナを口にすることもなく、ただ私のバナナの皮を剥いてくれた言葉たちをただ繰り返してそのままに口にするばかりに終始した。だから、私のバナナは黒く、傷み続け、やっと巡り会えた望むべく望んだ形を失っていく。せっかく見つけた本当のありのままの私が、せっかくありのままの私の形を見つけたのに、他人の借り物の言葉に頼ってしまったせいで失われてしまう。私はそのことが堪らなくて、こうしてあなたの前にやってきた。私はもう間に合わない。この、私の手の中ですっかりどす黒くなってしまったバナナのように。あなたは私のようにはならないで。あなたには見つけてほしい、私の言葉でなくてもいい、きっと誰かの言葉が、あなたのありのままのあなたを思い出させてくれる。アプリオリなあなたの形をあなたはきっと思い出す。その時、あなたはそんなあなたを手放さないで。それは大事に大事に抱きしめることではない。このバナナをすぐにそうするべきだったように、食べることだけがアプリオリなあなたを手放さないということ。あなたのバナナの皮を剥いてくれた誰かの言葉に感謝してもいい、ただそんな借り物の言葉であなたのバナナを抱きしめてはいけない。食べるんだ。食べてうんこにして、うまかったとあなたの言葉で叫ぶんだ。それをあなたに伝えたくて、私はここにやってきた。」

 

さっき俺が家に帰ってきたら鉢合わせした、俺んちのベランダのガラスぶち破って侵入して勝手に俺ん家のリビングでくつろいでいたゴリラは俺にそんなことを滔々と語り終えると涙を流しながら握りしめてぐちゃぐちゃになった黒ずんだバナナを己の口の中に放り込んだ。俺はすぐさまズボンとパンツをずり降ろし肛門からひり出したうんこを後ろ手に構えた右手で受け取ると、受け取るやいなやサイドスローでそれをゴリラにぶつけ、そのまま戸惑ったゴリラを家から追い払い、ゴリラの帰る森の最寄駅までの切符代を玄関先で渡して帰れと言った。

それは俺にとっては「目には目を、歯には歯を」のゴリラ版だった。うんこにはうんこしかなかったのだ。追い払った後、ふとリビングのテレビに目を見やると、俺が帰るまでのあいだゴリラはアマプラのドキュメンタルを見ていたらしかった。ソファの上でけたけたと笑う松本人志の一時停止状態を見ながら俺は、ゴリラはバナナくらい皮ごといくんじゃないかな、と思った。あと、最後のアプリオリの発音がめちゃめちゃRだったのであのゴリラはバイリンガルだったのかもしれないなとも思った。二度とあのゴリラと会うことはないのだろうので、詮なき推察だった。

以上です。

悪い芝居vol.27『今日もしんでるあいしてる』配信用特別撮影版・感想文

あのー大学生の時かな、銀杏ボーイズっていうバンドのボーカルのなんか俺あんま詳しくないんだけど、山みたいな名前の人?尾瀬?はるかな尾瀬遠い空?尾瀬田かな?たぶん尾瀬田みたいな名前の人が主演してる『アイデン&ティティ』ってタイトルの映画を家で見ててさ、それがめちゃめちゃ面白くて、酒をがばがば飲みながら泣きながら見てたんだけど、それがあまりに面白いもんだから終盤で酒をガバガバに飲んでたからおしっこ行きたくなったんだけど、「これを一時停止してトイレなんか行ってしまったらそれはもうこの映画に失礼や!俺はこのまま最後まで見る!!」てなって、飲み干して空になった「白岳のしろ」っていう米焼酎の瓶にパソコンの前のデスクチェアに座ったままズボン脱いで、パソコンでDVDを再生してたから、パソコンの前のデスクチェアに座ったままズボン脱いで泣きながら「白岳のしろ」の瓶におしっこしながらエンディングを見届けたことがあって。で、それくらい、途中でトイレ行くのが躊躇われるから空き瓶におしっこするくらい面白い映画だったんだよって女友達に話してたら「瓶の口に入るの?」て言われて。お前待てよこの野郎!つって、別にちんぽ入れなくても尿道の出口の穴だけ瓶の口にちゃんと向いてたらおしっこできるんだよ!!あの、インデペンデンス・デイのUFOのちゅどーんって撃つビームみたいにさ、ちんぽのない女にはわからんかもしれんけど、尿道の出口、略して尿道口さえ瓶の口にちゃんと当たってたら、あの、インデペンデンス・デイのUFOのちゅどーんって撃つビームみたいな感じで、男は瓶におしっこできるんだよ!!て激昂してさ。もうそれを言うかその場でぽろんとちんぽ見せて「これが瓶に入ると思うか?」って言うかの二択だから、俺は言葉で説明することを選んだ。俺偉い。イエス尿道口一郎。新宝島

で、そんな尿道の話をしていたのと同じような頃に出会ったのが「悪い芝居」っていう京都の劇団。俺もその頃は学生劇団なんだけど芝居を作る側を一応ほんの一応はやっててさ、でもまーなんかうまくいかなくて。お客さんに来てもらうのも大変だし、来てくれたお客さんに届けたいものを届けるのも大変だし、まー屈託無い言い方でいうと絶望してた。面白いもん作ってるのに来てくれないお客さんにも腹を立ててたし、面白いもん作ってるのに来てくれたお客さんが僕の思ってることをちゃんと受け取って持って帰ってくれないことにも苛立ってて、もうダメになってた。つまりはどうしようもなくガキだったんだね。そんな俺を見兼ねた今の嫁さん当時は彼女が、「この劇団のチラシ見るたび面白そうって君は言ってたじゃない?せっかくだし一回観に行ってみない?」て誘ってくれて、当時の俺はまぁ馬鹿ほど金はなかったし、人に教わることなんかねえよって考えるくらいにはガキだったから、他の人が作る芝居を観に行くことにあまり消極的だったんだけど、今の嫁さんに連れ立たれてさ、観に行ったんだ、「悪い芝居」を。これがさ、馬鹿ほど面白くて、自由で、俺は本当にそうしてしまうと後ろのお客さんに迷惑がかかってしまうので、心の中でパイプ椅子からずってんころりんとひっくり返ってしまったんだ。表現はこんなに自由になれるんだ、表現はこんなに自由でいいんだ、って。心底救われたんだよね、

これがだいたい13年くらい前の話なんだけど、びっくりすることにこの「悪い芝居」という劇団、なんと2021年もまだやってる。まだやってんの?じゃあもう、ずっとやるんじゃない?ずっと舞台の上に在り続けるんじゃない?他人行儀にそう思うどころか願って希求する。俺は、「悪い芝居」がいない未来を望まない。

この文章は、そんな「悪い芝居」の最新公演、悪い芝居vol.27『今日もしんでるあいしてる』の感想文です。

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東京の劇場に足を運ぶことは残念ながらできなかったんだけど、こんな世の中なもんでして配信なんかもやっていて、しかもそれがWOWWOWでたまにやってるやつあるじゃん、実際のお客さんが入ってるなかでカメラ回しててみたいな、ああいうやつじゃなくて、休演日わざわざ一日作って、ドキュメンタリーみたいなカメラワークでシーンとシーンと物語をつないでつないで、遠くてもリアルじゃなくてもちゃんと届くように全力で作ってて、そんな配信用特別撮影番を、自宅で酒飲みながら観劇したんです。

今もチケット発売中、2021年3月末まで配信中。今からでも観れる。何回でも観れる。みんな観ろ。俺も観る。何回も観る。お前も観ろ。こんな素晴らしいものを観ないなんて、そんな馬鹿な話があるか。それくらい本当に面白かったんだからお前ら全員観ろ、こんな今しか観れないものが、配信されていて誰でもいつでもパソコンでもスマホでも観れるのやばいだろ、観ろ、全員観ろという話を今からします。

ザ・クロマニヨンズ甲本ヒロトのインタビューがほぼ日で連載されていて読んでたんだけど、そのなかに膝を打った言葉があって、ヒロトが「ライブと映像配信って何が違いますか?」みたいなことを聞かれて、それに対する答えが「家のテレビで体長50mのキングコングが暴れる映画を観るのと、家の部屋に体長2mのゴリラがいるの、どっちが怖いと思います?」だったんだよね。それはもう本当にそのとおり、どう考えても家帰って鍵開けて中に入ったら2mのゴリラがソファに座ってピリ辛キュウリつまみながら俺が録画してた千鳥の相席食堂見てる方が怖いし、ソファの前のちっちゃいテーブルに置いてある氷結の空き缶の本数が多ければ多いほど怖い。体長50mのキングコングが画面の向こうでストロングゼロを何十本を飲むよりもそっちの方がよっぽど怖い。ライブってそういうことなんだよ。演劇もそういうことだし、ZOOM飲み会も面白いけどやっぱり人と会って鳥貴族で二人で酒を飲みたいなって思うのは、完全にそういうことなんだよね。

それで言うと、今回の悪い芝居・配信用特別撮影番は完全に、画面の向こうで2mのゴリラたちがバンバンに暴れていて、生で見たかった、こいつらがどんなに恐ろしいかを、本当は目の前で見たかったという感情が沸き起こって、向こうも本当は俺の目の前で暴れたかったと思ってることが見るからに見てとれるから、会えないことが悲しくて悲しくて、でも、一年前なら想像もしなかったような形で、俺というゴリラとあなたというゴリラが確実に出会っている、つながっている、そう思わないことになんの意味があるんだと思わせてくれる、そんな芝居だったのだった。画面越しの50mのキングコングよりも、目の前にいる2mのゴリラの方が怖いけど、それ以上に画面越しに「会えなかった会いたかった」と叫ぶたった2mのゴリラは、ほとほとに愛おしかった。

でもやっぱ、最初に「悪い芝居」を見てから13年経って、年を取ったなーって思ったのは『アイデン&ティティ』の時と比べて、途中でちゃんとトイレ行ったもんね。配信だから自由に一時停止ができるから、途中2回くらいおしっこ行ったもんね。時の流れを感じた。やっぱ子供がいるからさ、家族が寝静まった後にオンライン配信を見始めてたんだけど、万が一子供が起きて見られるかもしれないじゃん。3歳の息子がいるからさ。万が一見られようもんなら、それくらいの子供って絶対大人のマネをするからさ。そしたらさ、入るじゃん。子どものちんぽは入るじゃん。「白岳のしろ」の瓶の口に子どものちんぽは余裕で入るから。で、一度、瓶の口に入ったちんぽは瓶の口に入るちんぽとして成長していくことになるから、それもまた良くないじゃん?ちんぽは大きく育つにこしたことはないじゃん?せごどんでもそんな話してなかったっけ?今のは完全にせごどんは西郷隆盛がでっかい男になる物語としか思ってないから出てきた言葉ですけど。

そういうふうに、目が離せない、本当に劇場で観ていたならそんなトイレに行ったりタバコを吸いに行ったりみたいな一時停止なんか問答無用の目の前で生きた人間が暴れまわってる芝居とはちょっと違って、ZOOM飲みの最中に対面の飲み会以上にフランクに「ちょっとトイレ行ってきまーす」ってビデオとマイクをミュートにするように、一時停止なんかもしながらも、最後まで最後まで見届けて素直に感動しているのであった。

この芝居、『今日もしんでるあいしてる』は、あからさまに新型コロナをモチーフにした設定のなかで繰り広げられる物語です。生きる人がいて、死ぬ人がいて、しなないために人々の行動は制限されて、会いたい人にも会えなくて、最後に会った「あの時のあなた」という最後の記憶が誰の頭のなかにも星の数ほどあって、その記憶を頼りに今の僕も昨日と同じようにあって、僕のそばにいるかけがえのない「あなた」は瓶の口におしっこしようがするまいがずっとずっと隣にいて、間違いなく隣にいるかけがえのないあなたは俺の独りよがりの何かかもしれない。そんな関係の虚しさを、やりきれなさを、心細さを、この1年半ほどのあいだ誰しもがずっとずっと感じていた。

けど、13年の付き合いの「悪い芝居」を見た俺は、そんなこと一切合切にどうでもよくなってしまったのだ。

年に一度にあるかないかの、劇場でつながる時間を共有するだけの、それ以外の364日はお互い好き勝手に生きる私達の関係は、つながる1日を除いては364日のあいだじゅうお互いの心配なんかしない私達の関係は、つながらない時間があまりに当たり前になってしまったこの世界において、誰よりあなたというゴリラと俺というゴリラになって、等身大の会えないゴリラになったのだ。

会えなかったことがどうしようもなく寂しいし、お互い灯台の下で「おーい」と叫び合うゴリラのように画面越しで出会えたことを堪らなく思う。

ひたすらに「もう逢えない」をテーマに描いた芝居だ。それはフィクションだけど、逢えない時間が「私」の輪郭をガリガリと明確にするし、逢えない時間がこんな気持ち悪い感想文を作る。逢えない時間は、逢えてた瞬間のその果てにあっての今だし、そんな時間がなかったら、こんな気持ち悪い感想文は生まれていない。

俺だけだったら何もできなかったんだよ、俺だけじゃなかったから、今の俺があるんだよ。

普遍的な感情だと思う。これは俺のためのものではない、みんなのためのものだから、この芝居、本当にたくさんの人に見てほしい。みんな大好きだよって、言いたくて叫びたくて囁きたい。そんなことを思う、思わない、すべての人に届いてほしい、悪い芝居vol.27『今日もしんでるあいしてる』、#dieloveyou

配信は2021年3月末まで観れるらしい。

 

 

以上です。

 

 

松井優征の作劇のクセを知ってると『逃げ上手の若君』怖いよー

あのー、松井優征のやり方ってすごくシンプルで、根っこは死ぬほどシンプルにテーゼvsアンチテーゼなんですよ。

もちろんその後にはジンテーゼで締め括る。これが松井優征が見つけた勝ちパターン。

 

魔神探偵脳噛ネウロは、「欲vs悪意」の物語でした。謎を食べたい魔神・ネウロと食欲旺盛な女子高生・弥子がタッグを組んで様々な殺人事件に立ち向かう作品で、中途に出てくる犯罪者たちはお前どうなのよという奴らもたくさんいましたけどネウロはその全てを「その人間がどうしても成し遂げたいと願って成し遂げる欲が一番うまい」と歓迎して、弥子はそれにわかんねーけどわかる部分もある、と悩む。最終的にはそういう弥子にとってもわかることはひとつもなくて、ネウロにとっても超つまんねぇ純然たる悪意・シックスと戦うことになって終幕を迎える。自分のことしか考えてなかったはずのネウロが、数多の人間の欲望に触れて、守るべき欲望と単なる悪意としか言えない欲望とを区別して、戦う相手を決めて、「人間の可能性」を守るために悪意相手に立ち塞がる。結果、「人間の可能性」は守られる。良くも悪くも欲望とは可能性だというジンテーゼのもとにフィナーレが訪れる。

 

暗殺教室も構図は同じなんだよね。「殺すぞ」という強い欲望、強い意欲、それ自体を否定しないところからスタートする。「殺す」という意欲自体はそんなことでは殺されない超生物からすると、意欲を引き出しているに過ぎない。その意欲を何に使うかはその人次第だし教える側次第殺される側次第。まず「意欲」がなければ何も始まらない。それが「殺す」であろうとなんだろうと、まず「意欲」を引き出すことで「可能性」は生まれる。

ネウロ暗殺教室って全く同じ構造から生まれてるんだろうなーと思う。

ジンテーゼとしての「教育」「殺意も受け止める」から逆出発したのが、暗殺教室だったんでしょうね。

「ここからが本当の暗殺教室です」と松井先生が巻末コメントに残したのはカエデが「死んで」と言った回だったでしょうか。それまでは「殺意」を「やる気」に矮小化する話ばかりで押し倒していたので、「本当に死んで欲しい」を持ち出して、「本当に死んで欲しい」と「殺したいほどやる気にさせてくれてありがおう」を対比にして、「本当に死んで欲しい」を「教育の失敗」に落とし込んで殺先生に反省までちゃんとさせるんですよね。作劇うまい。

まとめてみると、暗殺教室においても構図は馬鹿ほどわかりやすくて「殺す殺されの関係でも、可能性を開ける関係性であればよし」vs「殺すことに取り憑かれて人生を棒にしてもかまわない」の2択になってて、ネウロの時から何も変わらないんですよね。

ほんで、先日始まった『逃げ上手の若君』なんですけど、ここでも「殺す英雄vs逃げる英雄」というわかりやすすぎる提示を1話からぶちかましてて、これからどうするんだろうなーこれからどうするんだろうと、すんごく楽しみになってるわけです。

南北朝時代自体がすごく扱いにくい題材で、天皇制がアレだからアンタッチャブルみたいなところがあるんですけど、

繰り返すにテーゼとアンチテーゼをぶつけてカタルシスを産み出すのが芸風の松井先生ですから。すごく大変なんじゃないかなー、今まで以上に変なことやるんじゃないかなーと心配しちゃうんですけどめちゃめちゃ楽しみ。

楽しみー。

以上です。