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「M-1グランプリ2020」感想文

やー、今年も最高だったね、M-1。文句は多い、文句はないことはないM-1だったんだけど、今年も、今年のM-1として最高だったよね。

僕はリアルタイムで見れなかったからTwitterは絶対見ないようにしつつ22時半くらいから録画を観始めて、見事ネタバレ被弾率ゼロで完走してこのブログを書き始めたのが25時25分なんですけど、これ2歳3歳の小さいお子さんがいらっしゃる人がリアルタイムでTwitterで色んな番組の実況してるの見るたび一体どうやってんの!?って思うんですけど。麻酔銃?叙述トリック

まぁ、そんなことを言っても仕方ないので22時半頃から、まるでリアタイ実況のようにTwitterに都度都度つぶやいてたツイートと共に振り返りたいと思います。なお、全ての僕の勝手な採点は、勝手な採点である以上、審査員の点数を知る前にツイートしてしまうという勝手な矜持のあるルールでやってました。

昼からワクワク。

そして観始めた、録画の本番。2018年は審査員の空気悪すぎて、ファイナリストと観客vs審査員みたいな感じだった。2019年はその反省を踏まえて、審査員も一丸になって超面白い笑えるエンタテイメントをお届けするテンションになってた。2020年はどうなるんだろうとハラハラして観始めたけど、おおむね2019年を踏襲するテンションでみんな臨んでるな、というのは一つホッとしたところだった。上沼恵美子は、今年なんかコロナとかで私生活大変だったらしいと聞くので、元気をもらって帰ってほしいな、と思った。

敗者復活、最初の5組6組くらいしかまだ見れてないまま、とりあえず決勝観始めたら上位3組が舞台にいてて、トップバッターの金属バット観ておいて良かったな、と思った。観ておけば「あ、絶対これ敗者復活上がれないじゃん」とわかっていたからガッカリが少なかったから良かった。敗者復活ってあれ、女性ファン掴んでりゃそれでいいんでしょ?みたいなところが和牛とかの影響で感じていたので金属バット今年は敗者復活でいけるんちゃうか思ってたけど、トップバッターのあのネタみて「全然行く気ないじゃん」と思ってそれはそれでよかったよっかた、と思うのであった。あと、ぺこぱも敗者復活戦序盤だったのでちょっと見れてたんだけど、自分らのネタを食いつぶすセルスオマージュネタみたいな感じになってて、これが決勝行かれても興ざめだなーと思ったので、結果的に行かなくてよかったなー、とは思った。やっぱり、一度爪痕を残したヤツらがもう一度まっさらな爪痕を残すのは難しいな、と思う。そういう意味では、毎回毎回笑えるけど優勝できない違った切り口の新ネタを何年も持ってきてた笑い飯ってすごかったんだなー、みたいなことは思った。

インディアンスも、敗者復活をちょっと見れてたので、厳しかったけど決勝いっちゃうんだというのが第一印象だった。ただ、屋外と屋内という環境の違いとか、その日2回目のネタ出しとかで、こんなに変わるんだなぁと舞台というものの奥深さを改めて思った。同時に、これがちゃんと決勝に上がることをわかってない自分の見る目のなさも。でもやっぱ、序盤ツッコミの人が明らかにめちゃめちゃ上がってて噛みまくってるなかでボケの胸にヒマワリ活けてる人が敗者復活のトップバッターにしかできないアドリブをちょいちょい挟んでそれでツッコミの人の緊張がほぐれて本調子になっていく過程が一本目で見れたのはすごいよかったなと思った。こういうのが見たいんだよ、俺は、M-1で。って感じがすごくした。芸風としては繰り返すにはアンタッチャブルの過剰なふざけに対してツッコミがキレながら突っ込むフォーマットだったと思うんだけど、それをどこまで高速でできるかに心血を注いだ結果、キレがないというと語弊があるんだけど、ボケとツッコミのあいだが流れてるというか、なんかクライマックスがない漫才になってしまっていたなという印象があって、それはつまりこの先があるということなので、これからもっと面白くなってほしいなと心から思った。

これは、2番手なのでこういうコメントになったんだけど、今回の大会はとにかく1つ目のボケまでのフリの時間がこんなに長いことって最近あったかなと思うくらいみんな悠長な漫才が多かった。そういう時代なのかもしれないので、そんなに東京ホテイソンも間違ったことはやってはいないのかもしれない。けど、やっぱり面白いけど物足りなさはあった。「なにかおかしなことを言い始めた、早く突っ込んでくれ突っ込んでくれ」と思うんだけど、ツッコミをグワーッとやりたいがためにボケが丁寧にどういうボケなのかを提示するっていうその時間が空虚に思えてちょっとつらかった部分もあった。去年のM-1を踏まえて見ている自分としては、それがどうも怠惰なゆるいテンポに思えてしまって、没入しにくかった。劇場で、目の前で、やられたらきっと大爆笑してるんだろうなーと思いながら。

Twitterに書いたこと以上の感想はあんまりない。二本目なにを用意してたんだろうなーとは思う。危なっかしい題材を危なげなく扱うのはそれは一つの技術だと思うし、じゃあこれを「台本」として捉えた時に、誰がやっても成立するのかというとそんなわけは当然ないし、漫才って「その二人だから笑える」みたいなやりとりなのが一番大正義なのだと思うし、じゃあ、この二人がこれをやるのは一つの芸風として成功なんだろうとは思う。ただ、まぁ、笑えるか笑えないかでいうと、なにせ題材がネットずっぷりの僕からするとあまりに身近というか普遍的すぎて突飛には感じられず、そんなに面白いことやってるようには思えなかった。

近年のM-1のなかで和牛のネタがポリコレ的な脱臭を行っていく変遷を見守っていたこともあって、今年の見取り図はどうなるんだろうという期待はすごく強かった。で、脱臭は脱臭でまぁしてた。変な難癖はつけにくい仕上がりになっていた。便宜上の「誰も傷つけない笑い」を目指しつつ、ツッコミの人の変なツッコミのパンチラインをどう残すかみたいなそういう試行錯誤は見えてて、よかったなーと思った。見取り図の、一撃変なツッコミで全然違う絵を見てる側に想起させるやり口はすごく好きなんだけど、やっぱしそれを恐る恐るやってる感じがあって、マネージャーという設定もちょっと「ガリガリに刃は研いでますけど、それはマネージャーがいる審査員にだけ本当の意味で伝わればいいです」みたいな及び腰は少し感じた。

このツイートで言ってることは、二本目も踏まえた結果としては間違ってた、と思う。いや、一本目自体についての感想としては別に間違ってないのかな。ピン同士が組んでやりました、っていう関係性のうえでこれをやるっていうギクシャク感が「関係性を客に愛してる漫才」と評していいものには仕上がっていた気はする。二本目見た印象はまた全然違ったけど。

ここまでの漫才はどれも、漫才師二人の「キャッキャウフフ」をいかに客にウフフと見てもらうか、あーこういうの好きだわーと思いながら見てもらうみたいな、そんな戦略の漫才が多かったように感じていた。俺はここまで「そうか、今はこんな漫才が潮流なのか」と思いながら見守っていたのだった。俺の好きな笑いは、たとえば脇の下を十の指でワシャワシャとまさぐるような、そんな問答無用の脳が面白いか面白くないかを判断する暇もなく問答無用で腹から声が出てしまうようなそんな笑いが好きなもんで、そういうのが今年は足りねーなーと思っていたんだけど、それもくじ運だったのかな!!俺の好きな奴らは後半に溜まってたのかな!?と思ったマヂカルラブリーの登場だったんだけど、やっぱネタのピークが前半に寄り過ぎてたのは事実だよね。最初の30秒だかのまるで冷静淡々ぼやく系のボケみたいな仕草が最初のあのクソボケのフリになってて生まれた大爆発(これは、その前のすべての演者もフリにするような大爆発だったと思う)ってのはあるので仕方ないわけだけれども、まぁ、結果から言えば「これで最終決戦残れるのか」と非常にヒヤヒヤする点数に落ち着いた。後述することにはなるだろうが、そのような「冷静淡々げやく系ボケだと思ったら馬鹿だった」というファーストインパクトも、最終決戦を見ると、これも一世一代のフリだったのではないかと考えると、考えるに恐ろしい。(もちろん野田クリスタルがすごいバカなのはずっと前から俺は知ってたんだけど)。

オズワルド、何もかも不運だったと思う。前回の反省を踏まえて、さすがに淡々とだけじゃ通じないと思って、ツッコミにアクセントないしエッセンスないしスパイスを足そうとして2019を鑑みるとそれは完全に大正解だったんだけど、2020は全然そういう大会じゃなかった。2020のM-1は、なんかコンビ間の親密度とか信頼感が点数と比例する大会になってしまっていたので完全に裏目に出てしまった。審査員のコメントもさぞ辛かったと思う。これから何をやればいいのかわからんなるやろコレ、と素直に思った。なので俺は、この段落を書き始める前にオズワルドのYouTubeチャンネルに登録した。オズワルドはどういう時が一番面白いのか考えたいなと思った。普通にめちゃめちゃおもしろいのは間違いないのだけども。

勝ってる時でも負けてる時でも、あの椅子に座ってる時の中継の受け方ってM-1の見どころのひとつだよね、と思う。

放送を見る前からすごく期待してて、期待の仕方としては2018のトム・ブラウン的なそういう暴れ方を期待していて、実際に面白かったしめちゃめちゃ笑ったんだけど、大会上の果たした役割としてトム・ブラウン的だったかというと全然そうではなくて、最年長ファイナリストのおっさんがめっちゃはしゃいだ笑いをやってるっていうところで、すごく関係性というかストーリーの中での笑いに収束されてしまっていた気がしていてもったいなかった。これは、錦鯉の二人が悪いわけでは全然なくって、くじ運の問題かもわからないくらい、「今回の大会」の傾向をもろに受けてしまっていたんだろうなぁと思う。

アキナとウエストランドは、なんで残ってるのか全然わからないネタだった。旧時代的と言い切るとポリコレ勢みたいに思われそうだが、単純に真新しさがなくて、昭和の漫才に安いメッキを貼っつけたみたいなネタだった。で、他のコンビのネタも面白いんだけど、二つの肺を根本から締め付けられるみたいな畳み掛けはなくて、笑い殺しにくるというよりかは楽しませるような漫才が多かったように思う。それ自体が悪いということは全然ないんだけど、その中になんでアキナとウエストランドのこの二組が?というのは正直残った。僕は、去年の史上最高と言われたM-1に味をしめて何かしらのストーリー・潮流を作ろうとした作為があって、決勝の大御所たちではない、準決勝までの審査員たちになんらかの狙いがあって今回のファイナリストが選出されたのではないかなと少し邪推をしてしまうくらいであった。本当にとにかくテレビの前のお茶の間のみなさんを満遍なくゲラゲラ馬鹿笑いさせようと思ったらこのメンツになる・・・?みたいな。そういうのは少し感じないではなくて、そのバランスの中にこの2組の毒というのももはや稚拙に感じられるアレがどうしても必要だったのかなぁみたいなことを思ってしまったのだった。

 

その地域を知って愛着ある人からしたら、ゲラゲラ笑える漫才なのはわかるけど、これ最終決戦のネタかー??とは正直思った。むしろ取っ組み合う下りとかも含めて、なんか自分らの売り出し方を身内にアピールしてるように見えて、今回の大会を象徴しているように見えた。優勝は優勝で大事だけど、見ている人に印象的に覚えてもらうのはそれと同じかそれ以上に大事なのだ、みたいな。そういうノリを今回のファイナリスト立ちに感じていたので、なかなか見ていて、難しい色の吐息が出る漫才だった。

で、その後のマヂカルラブリー。結局一番笑ったのはこれ。ただ、ここまで書いてきたように色々考えていることはあったので、一番笑ったのはこれだけど、一番笑えたものが一番良いものだという確信は見終わった後でも全く持てなかった。ただ、この漫才と言えるかもわからないただバカな動きを繰り広げる一辺倒がここまで違和感なく受け入れられたのは、この前の一本目の1ボケ目までの長いフリと溜めがあったからこそであり、あれがあったから開幕直後の動きボケからの「それをやめないししゃべくらない」を成立させていたのでその一点におてのみは技巧的だったんだけどその一点以外については全く何一つ擁護できないので、だからこの時点では「ありがとう」としか思えなかった。なんかお行儀の良い今大会でものすごく馬鹿なことをやってくれてありがとうという感謝の気持ちでいっぱいになった。野田クリスタルがお米農家に見えた瞬間であった。

で、その後においでやすこがであった。これをちゃんとやっている、と言っていいのかよくないのかが本当に全然わからなかった。面白いんだけど、これは漫才か??と思った。理由は書いてる通り、センターマイクを境に、お互いがお互いの得意なことをお互い勝手にやっているだけだったからである。それはもちろん成立していて面白いのだけど、ものすごく足し算の漫才に見えたのである。掛け算ではなく。すごく不思議な感覚で、「この二人じゃなきゃできなかった漫才」であるのは間違いないのだけど、一方で「この二人みたいな二人なら誰でもできた漫才」のようにも見えてすごく気に食わない気持ちもあった。誰にでもできることではないけれど、本当のこの二人の唯一無二の漫才だろうかと言われるとそうは思えなくて、ごめん、面白いんだけど素直に勝ってほしくない・・・!と思ってしまった。「俺にはつまんねえよ」じゃなくて「勝ってほしくない」と思ったのはM-1見ていて初めて思ったことかもしれない。で、特に今回は舞台を縦横無尽に駆け回るような、立ち位置がスイッチするような人たちが多かったから、特にこのおいでやすこがのセンターマイクを境にお互いがお互いの得意な芸をやってそれがシンセサイザーの組み合わせみたいなノリで組み重なって成立してるみたいな漫才がすごく異質に見えて、コロナの仕切りが一組だけセンターマイクのあたりにあるのかなって思っちゃったんだよね。なんか、この二人が優勝獲っちゃったら、なんかすげえ気持ち悪いなって思っちゃって、ネタは別に全然面白かったんだけど、マジでそういことを思ってしまってごめんね、とうい気持ちだった。

ただ、「こんなの漫才じゃない!」でいうと、一番全然漫才してなかったのが一番バカバカしてく笑えたマヂカルラブリーで、見取り図は一級品のガラスケースに入った漫才をしていて、これはある意味では、すごく高度な泥仕合だなと思って、私は結果を見守るしかないのであった。

 

そういうわけで、最高レベルの泥仕合を制したのはマヂカルラブリー。録画を見終えた直後にこのブログ書き始めてるので、その後のSNSでの評判とかは全く見てない。歓迎されてるのか、「見取り図だろ」「おいでやすこがだろ」と罵声を浴びているのかもわからない。でもまぁ、最終決戦の投票があんなに荒れてるのもたぶん初めてだっただろうし、だから俺あんな大爆笑したんだろうな、とも思う。

 

観終えてみると、本当になんだかコメントのしにくい大会だったなぁ、と思う。

面白いんだけど、すごく面白かったんだけど、俺が欲しかったものと違う、というのが率直な感想ではある。けど、それはもちろん、俺がちょっとズレてるからそんな感想になるんだろうな、とも思う。素直にそう思う。

突飛な発想、異常な人間の異常なんかじゃなくて、なんとなく私達の心を代弁してくれる、私達の胸の内を反映してくれていて、普段忘れている私達の胸の内を私の胸に去来させてくれる、そんな関係性を目の前に表出させてくれる、そんなコンビがファイナリストに多かった気がする。決勝戦の採点がどうのというよりも、やっぱり誰がファイナリストに選出されているかという部分に偏りを感じた大会ではあったかなぁ。

どいつもこいつも愛らしく、ちょっとおかしいボケる方もそれにガヤガヤするツッコむほうも、その互いの関係性を楽しんでいるやつらが選出されているんだなという傾向を、もしかしたらこのご時世による僕の感傷にすぎないのかもしれないけど、なんだかそんなことを強く感じるそんなM-1だった。物足りなく感じるのは、コンビの関係性を面白さに昇華するべく互いに向き合うベクトルがみんな強くなりすぎてるせいで、やっぱり去年以前のような客(視聴者)を笑い殺してやろうみたいな殺気がどうしても薄くて、あんまり酸素が多くて呼吸がしやすすぎたなぁという部分だ。

ま、今年はそんな一年だったしね、とも思う。いや、実際には俺がそう感じただけで息ができないくらい笑い転げながら行く末を見守った人もたくさんいるんだろうし、そんな人がたくさんいるんだろうなってくらいみんなめちゃめちゃ相手の顔を二度見しまくっておもしろい掛け合いをしていたし、人との付き合い方やら距離の取り方やら何から何までしっちゃかめっちゃかにされたこの年、「人前でたった二人ぼっちでただただしゃべくる」という競技において羨ましいと思えるくらいになんだかんだ仲の良さそうなボケツッコミという凸凹の関係をまざまざと見せつけてくれるというこのイベントは、やっぱし絶対素晴らしいものなんだろうなと今こうして書いていて、俺ちょっと文句言い過ぎだなと思いながら本当にそんなに文句をつけるような大会だったかなと振り返った時に思ったし、それで勝ち残った最終決戦は三者三様にものすごくいびつでものすごくその二人だから拝めた関係性ばかりだったし、じゃあそれでいいじゃん、来年のM-1も楽しみだなぁと思いました。

じゃ、今から柱合会議見て寝まーす。

以上です。

 

三歳の息子がタオルでワンダホーパワーを溜められるようになった

あのー、なんだっけ、あの、子どもが見る番組。「おばあちゃんじゃないおばあちゃんといっしょ」?いるよね、実のおばあちゃんじゃないのにエレベーターとかですげえ話しかけてくるおばあちゃん。スーパーの袋下げてたら普通に「何買ったの?」って聞いてくるおばあちゃんいるじゃん。それもう実質俺の子どもへの質問じゃなくて俺への質問だから、みたいな質問投げ込んでくるおばあちゃんいるじゃん。あれってさ、「大麻です」とかって返事言ったらどうなるんだろ。スーパーの袋に水菜入ってる状態で「大麻です」って言ったらおばあちゃん「家で乾燥させるの!?」って突っ込んでくれるのかなアレ。いや、まぁいいんだけどさ、実のおばあちゃんくらいのノリで子どもに話しかけてくる知らないおばあちゃんアレなんなの?なんだっけ、そうだ、あの、Eテレの、子どもはみんな大好きな番組。全然タイトルが思い出せない、「解脱直前のおばあちゃんが一番やばいっしょ」だっけ?いや、子供連れに話しかけてくるおばあちゃんも悪気はないというか、世の中のいろんなことに、にこやかに接しようみたいなスタンスの結果の「何買ったの?」だとは思うんだよね、そこはわかるんだ。ただ、そこまで仏ほどのありがたみはまだおばあちゃんにはないからさ、おばあちゃんは仏くらいのノリで絡んできてるんだなって最近は思うんだけど、そうなると一番怖いんだよね、解脱の前の何も悟れてないのにもうちょっと仏に片足突っ込んでますけどみたいな気分のババアが一番気味が悪いよね、「あ、辞書で見たけど独善ってそういうこと・・・?」みたいなのをひしひしと感じるよね、あ、ババアって言っちゃった。ババアって言っちゃったらもうおしまいなので切り上げて本題いきますけどなんだっけ、そう。「おかあさんといっしょ」!!

ですらない!!

おかあさんといっしょはもうちょっと年齢層高めで、うちの息子みたいな三歳児くらいが好きなのは「いないいないばぁ!」の方ね。これからするのは「いないいないばぁ!」の話です。いや、すっと行けよ!原稿用紙2枚分くらいババアの話しかしてないよ。

いやね、息子が好きなんですよ、「いないいないばぁ!」が。いや、でもいきなりそんなん言われても「いないいないばぁ!」って何?って感じの人の方がきっと多いですよね。簡単に説明すると幼児向けのEテレの番組で、なんか「わんわん」っていう名前の白と緑で構成されたでかいもふもふの犬がいましてね、で、相方に7歳8歳くらいの女の子がいて。で、その子の衣装がすっごい赤いの。赤すぎるんで、もう片方の白と緑で構成された犬もたぶん君が代の「苔のむすまで」ってフレーズをモチーフにデザインされた犬なんじゃないかなと思えてくるんですけど。こんなのに受信料払いたくねーなー、つって。同性婚も選択的夫婦別姓もペイペイで民事の賠償金全部払えるようにするのも全部賛成の超リベラルの僕としては、こんな国粋主義みたいなEテレどうなの?と思わないではないんですけど、まぁそういう番組がありまして、うちの息子なんかも好きでよく見てるんですよ。

で、ここからが本題で、つまり、これより上の段落は読まなくて良かったやつなんで、みんなツイートとかでコメントする時は「最初無駄なんで四段落目から読めばいいんだけど」って一言付け加えてくれよな。

五段落目ー。全然関係ないんだけど、近所のケーキ屋が、新メニューをInstagramのストーリーで紹介するの、客を舐めすぎてて好き。なんで24時間で消える形で新メニュー紹介するねん。

でさ、息子が「いないいないばぁ!」すごい好きなんですけど、録画してるのを何回でも何回でも見るってのをここ半年くらいずーっとやってるんです。で、好きに楽しみゃいいんですけどね、割とうちの息子は黙って座ってじっくりと見てる、みたいなことがすごく多かったんですよ、「いないいないばぁ!」を。テレビの前のみんなも踊って騒ごうよみたいなコンセプトで作られてる番組のはずなんですけど、うちの息子はどうもあんまりそれをしたがらない。いや、歌にもよるんですけどね。

一番際立ってたのが掲題のワンダホーパワーのやつ。なんかテレビの前のみんなも一緒にタオルを振り回したらクソでかいバルーンの人形にどんどん空気が入って大きくなるからみんなも一緒にタオルを振り回してワンダホーパワーを一緒に集めて人形を大きくしよう!みたいなコンセプトのやつ。これ、知らない人に伝わるかな?dボタンで参加しよう的なノリの、実際にはただの録画の八百長のやつ。俺らが水曜日のダウンタウンでクロちゃんの次のミッション決めてたのと同じノリで「テレビの前のみんなもタオルを振り回してワンダホーパワーを集めてね!」ってテレビの前の子どもに言うの。いや、でもこの言い方だとさ、水曜日のダウンタウンも見てないしいないいないばぁ!も見てない人には伝わらないんじゃない?俺は一体どうすればいいの?はい、めっちゃ計算しまーす、水曜日のダウンタウンもいないいないばぁ!も見てない人は人類の何%でしょうか?ちっちっちっちっちっちっ65%でした!じゃあその残る65%にはどうすれば伝えられるのでしょうか?

えーと、徹子の部屋見てる時に徹子が突然カメラ目線になって「あなたはこれから未来を選ばなければなりません」って言ってくるみたいな感じです。

よっしゃ、OK!伝わった!100%に!伝わったよな、犬!!!!???

 

犬「わん!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

よっしゃよっしゃ、よしよしよしよし、わひゃひゃひゃひゃ、ひゃひゃひゃひゃひゃひゃ、わー、犬かわい!あー、犬かわい。犬かわいいなお前は本当に生まれてきてくれてありがとう。痛い!噛むなよ!噛むのは違うぞ!そんな愛情表現は違うぞ、犬!俺はお前にそんな痛いことをするか!?しないだろ!?俺だって噛もうと思えば噛めるんだぞ!?ほら、がぶっ!!痛いだろ!?でも俺はしないだろ??それはそんな痛いほど噛むなんて愛情表現は間違ってると思ってるからなんだぞ!?わかったか、犬!!!!!!

そういうわけで話を進めますけども。

この、ワンダホーパワーのやつをね、息子が全然踊らないの。過去に何度も「一緒に踊ろうよ」って誘ったりしたんですけど、もうまじで全然踊らない。頑なに拒否する。なんだこのいけすかねえガキは、と思ってたんですけど、最近これがついに踊るようになりましてね。なんか、この、タオル振り回すと人形がどんどん大きくなるよという演出のこのコーナー、今まで見てきたパターンはずーっと「一回、みんなのワンダホーパワーが足りなくて人形が膨らみきらない」という演出がずっと挟まってたんですね。制作側の意図としては、あんまり乗り気じゃないテレビの前でぼーっとしてる子にも一緒に踊ってほしいみたいなことなんでしょうけど、人形を大きくするための踊りを踊ってたんだけど人形はなかなか大きくならならくて、それはたぶんテレビの前のみんなの頑張りが足りないからだ、もっとみんないっしょに頑張ってよ!って叫んで、その後みんなでもう一回踊ったら人形がちゃんと膨らんで大きくなって「みんな協力してくれてありがとう!」で終わるパターンをずーっとやってたんです。で、なんか息子はずーっとこのタオルの踊りを拒否し続けてたんですけど、なんか最近突然踊り始めたな、と思ったらね。最近録画した回がね、この演出をまるっとすっ飛ばしてたんですよ。いつもは、その、「苔のむすまで」モチーフの白と緑の犬が大きくなるバルーンだったんですけどね、これとは別に「うーたん」っていうキャラがいるんですけど、たぶん名前的には「ウーロンハイ(鍛高譚)」の略だと思うんですけど。いや、鍛高譚ならもう素直に水か、ソーダ水で割れば!?なんで、わざわざあのシソの風味に、烏龍茶なんて複雑な味ぶつけたの!?ってなる、変なキャラクターがいるんですけど、このキャラが膨らまされる回があってですね、この回は「一回、うまくいかない」の演出がまるまるカットされてるんですよ。

そしたら息子はもう大はしゃぎで、それまで一回もこのタオル振り回しダンスをテレビの前でやろうとしたことなんて一回もなかったのに、毎日毎日タオルを振り回したがるようになりまして。

なんでこんな変化が起きたんだろうっていうことを考えてみるにつけ辿り着いた結論としては、「あの失敗演出が嫌だったんだろうな」ってことでした。一回タオルをぶん回して回しても、テレビの中のバルーン人形は膨らまなくて、一回「あれ~?」という空気になって、で、もう一回頑張ったら膨らむ。その一度失敗を挟む過程にジョインするのが嫌だったんかなーと思ったんです。その過程をすっ飛ばして、一撃で成功する鍛高譚のウーロンハイのときは嬉々として踊るので。

で、これは正直なところ、大丈夫なんかなーと少しだけ心配にもなった。その、失敗を嫌って事に当たらない態度をまざまざと披露されたから。親のこっちとしては面白くなかったのが正直なところだった。

だってさー、世の中は世知辛いし、私という個人はいつだって脆弱だ。失敗は常につきもので、蹴躓いて転んだ回数と立ち上がった回数が同じならそれで情勢は上々で、蹴躓かず転ばない生き方なんてありえない。蹴躓かない歩き方なんて教えようもないし、俺の後ろを振り返れば俺が大の字に転がっていたところが足跡以上に目立って、それらの大の字に寝転んだ跡を結んだ今が俺の人生だと主張する。俺はシンプルに恥をかくことでしかもう少し立派になれないと思っていて、タオルを振り回す程度のことでも恥を気にする息子をものすごく心配に思ったんだよなぁ。

でさ、今回のエントリを書こうと思ったのは、一回タオルを振り回した息子は、いつのまにか他の録画してる一回失敗演出を含むタオルダンスも踊れるようになってたからなんだよね。この前までは、頑なに踊ろうとしなかった、途中に失敗を含むダンスを楽しく思ってたのに俺はちょっとびっくりしたんだ。できんのかい、て。

息子は、まぁ臆病で失敗嫌いなプライドの高い性格なんだろうけど、一回、失敗なしの成功体験を得たら、失敗演出アリの方にも飛び込めるんだ、と思って。

ま、そうだよな、順番順番、と思った。彼の先には道があり、その道のゆく先々には、傍から見て不安なところもあれば、俺の人生経験からして見て無駄に見えるところもある。しかし、まぁ俺がそうだったように、彼には彼の過程があり、彼には彼の順序があり、彼には彼なりの俺にもあるような誠実があるのだろう。その一端が見えて、タオルを振り回す彼の姿を見れたのはよかったなーと思った。

という話をエレベーターでたまたま一緒になったおばあさんに5秒で全部話したらなんかわからんけど喉笛を掻っ切られたので今から病院行きます。凶器は毛ガニの脚でした。止血用にカニカマ渡されたので傷口に当ててるけど、塩っ気がすっごいしみる。一緒に病院こい。

以上です。

cakesはどこからやってきた

はー、物書きとしてちやほやされてー。人気者になりてー。ちょっと変わった感性を持ってる人だと思われてみんなに一目置かれてー。でも自分ちょっと違う感性持ってるんでみたいな顔をするのはハードルが上がるだけなのでそれだけはごめん蒙りてー。あくまで自分はみんなと同じふつうに生活しているふつうの人でちょっと他人とは違う生い立ちだったり経験だったりもしてるかもしれないけどそれは人それぞれでみんな大なり小なりみんなそうだしだから自分は何も特別ではないと思っててふつうだと思ってるよ、ただ自分がありのままに思って感じたことをふつうに書いてるだけで本当にそれだけなんだけどそれが誰かに届いて少しでもなにか誰かの力になるのなら私にとってそんなに喜ばしいことはないです、くらいのスタンスでいてそのうえでちやほやされてー。やっぱそう考えると物書きが一番ラクだわ。絵を描くにしても音楽やるにしても映像撮って公開するにしても芝居を作るにしても踊ってみるにしてもそれはやっぱ見てくれる人ありきの表現って感じになっちゃうしそうなるとハードルも上がっちゃうし、何よりなんかその承認欲求みたいな見て見て!みたいな感じでいくのは、私にはどうしても表現したいことがあるんです!みたいな感じでいくのは、ちょっとスマートじゃないっていうか必死感があって嫌だし。そうじゃなくてあくまで私はそういうのじゃなくて、思って感じたことを、ありのままに素朴に、なんの功名心もなく書いただけなの、誰かに褒められたいとかそんなんじゃ全然なくて、いや、無人島でも私きっと同じように書いてたと思うしいやこれはマジで、の感じでいきたいわけ。そう考えるとやっぱ物書きだよね、ただ物書きと言っても小説とかは絶対だめね、それはここまで読んでてわかるでしょ。本当に人生賭けて小説書いてる人とかもいっぱいいるし、あと長いから考えるの大変だし。そういう構成とか構想とかは自分一人でがんばるのは無理。企画を出版社に持ち込むとかも無理。なんかそうじゃなくてさ、自分の経験に基づいて思ったこと感じたことをインターネットでちゃちゃっと文章書いてたらさ、それがたくさんの人に「これは素敵な文章だね」って褒められて、それがなんかあれよあれよと話題になって出版社だか編集社だかに見初められて「君、ちょっとうちで書いてみない?」みたいなそういうのがいいのよ。あくまでプロの書き手じゃなくて私はただ素朴に自分の感じたことをありのままに書いてただけなんだけどそれに共感する人たちがたくさんいたみたいで嬉しくなってちょっと頑張って更に良いものを書こうと思いました、くらいの感じでいきたいの。あくまで市井の人のままでいたいの。なぜなら私は市井の人なのでもちろん右も左もわからないのは当たり前なんですけど、右も左もわからない私は何も悪くないんですけどなぜなら私は市井の人だから、そんなただ思ったことをありのままに書くだけの右も左もわからない私を手取り足取りサポートしてくれて最後まで面倒みてくれた編集の方々、私の文章を読んで応援してくれたみなさんありがとう、お陰でいい本が出せました、くらいの感じで単著が出せたらそれがベスト。書くうえで心がけてることはありますか?って聞かれたらそれはもちろんそれなりにいい感じの答えは用意しておくけど、それもあくまで書き手としてのプロの矜持とかじゃなくて、ただ素朴に感じたままを書く私が大事にしたい手触り的な!?手触り的な!?そういう話だからね。プロじゃないの、素人のまま、素朴なまま、なんで僕に聞くんだろうくらいのスタンスでやっていきたいのよ。

そう考えてそんな一発を目指してネットで文章を書いてる人ってマジでたくさんいると思うんですけど、ここ数年でそういう需要の芯を食ったのがnote、そしてcakesって感じなのかなぁと思ってて。これ、あそこらへん界隈で売れていってる人たちとか今回の騒動の人とかはだいたいこんなこと考えてるんでしょ、っていう話ではなくて(今回の騒動の人に関して言えばもともと表現者だし)、そういう人たちに憧れて自分もそうなりたいって考えてる人たちってだいたいこんな感じで、そういう人たちがnoteの下支えでしょ、って感じ。

なので、cakesの編集の批判するべき点についてはどんどん批判すりゃいいとしても、結局こういうことをぬるく夢見ちゃってる奴がたくさんいてそういう人らがあの界隈を盛り上げてて需要があるからこそ彼らが欲している「見出す人」役を雑にやっちゃう人たちが出てくるんだよね、素朴さで共感を獲得してちやほやされたい功名心、それがあるからこそ「自分より先に見出された人」に共感して共感して共感して応援することで「次に共感されてちやほやされるのは私だ」って夢見る人たちに目をつけて、もし仮にcakesがなくなっちゃったところでさ、色々な書き手に擦り寄る第二第三のcakesみたいなのはなくならねえんだろうなぁと思ったのだった。まあ、だからこそそういう畑を耕した第一人者であるcakesちゃんとしろって話なんだろけもね。文春と力を合わせて。文春と力を合わせて!?

以上です。