←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

おいこらウィズコロナ想定してないマンション買ってたやんけ!!

掲題の通り、はてな民みんな大好き持家vs賃貸問題、賃貸派にめちゃめちゃ馬鹿にされる記事です。

あのー、言うてる間にコロナ元年も終わりですけどもね。2020年も色々あったねーとみんなが思ってるけどもその色々を思い出す写真が全然ねえっていう。なぜならどこも行ってねえから。家で楽しく餃子パーティーやってる写真を撮ってるやつとかもたくさんいるんだろうけど、Instagramハッシュタグ餃子パーティーで検索したらなんぼでも出てくるんだろうけど、そういう、大変な時にも私は楽しむ心を忘れてないんだよみたいなやつも、そういうの俺興味ねえから!絶対そういうのやりたくねえから!!来年はみんなで一緒に来ようねみたいなコメントつきで夕暮れの浜辺で一人でコロナビール飲んでるっぽい画像をあげるとか、絶対ぇ俺はやりたくねえから、写真がねえ!!色々あったけど写真だけがねえコロナ元年があと1ヶ月で終わろうとしているわけなんですけども。

あの、話変わるんですけどね、僕去年マンション買ったったんすわ。持ち家。夢のマイホームですわ。いや、夢のマイホーム言うてもそんな大層なもんじゃなくて、なんか夜中に一人でたまに公園でストロングゼロ飲んでる時に俺に近づいてくるジジイがいて、そいつがテトラー渡してきよるんすよ。お前の腕を見せてみろって。いや、最近の若い人ってテトラーって言われてもわからんか、あのね、テトリスっていう名作ゲームがあるじゃないですか、いやわからんか、最近の若い人はテトリスわからんか、Switch持ってたら遊べたりするんだっけテトリス、あのーテトリスっていうのは簡単に言うと穴を作ってそこに棒を刺すゲームなんですけど、いや淫魔か!自分で穴も作れるし、自分で棒も刺せるってそれお前淫魔か!言うてね。第二次性徴期の淫魔か!いうて、淫魔はね、男の淫魔はインキュバスで女の淫魔はサキュバスなんですけど、第二次性徴期までは男でも女でもない存在で、初めて好きになった相手が男ならサキュバスに、女ならインキュバスになるらしいんですよ、まあ地獄先生ぬ〜べ〜で聞いた話なんでそれがぬ〜べ〜独自の設定なのか一般的な設定なのかわからないんですけど、いや、最近の若い子は知らないか地獄先生ぬ〜べ〜なんて。地獄先生ぬ〜べ〜ってのはですね、

いや進まねえってーー!!全然進まねえって話が。ちょっとなんか言ったら説明に次ぐ説明になっちゃって、家買った話に全然辿り着けねえじゃん。だってこれこのまま続けたらグランダー武蔵の話になるじゃん、ぬ〜べ〜の連載終わった後、作者の原作作画コンビはグランダー武蔵バス釣りブームに対抗するべく、ルアーが喋るよくわからない釣り漫画を連載させられるんだよグランダー武蔵っていうのはね、てなっちゃうじゃん!そんなブログ読みたいやついる!?グランダー武蔵なんであんな流行ってたの!?当時ブラックバスなんて外来種が都会から田舎までそんな満遍なく違法に放流されてたわけないじゃん!?なんでそんなバス釣りがジターリングより流行ったの!?それはわかるだろ!!ジターリングなんかやって何が面白いんだよ!!ジターリングよりバス釣りが流行ったのはわかるよ!!

そんなわけでですね、本記事はここまでの文章がなんの話をしていたのかはだいたいわかる、ちょうど持家か賃貸かで悩むくらいの僕と同年代の方向けの文章です。本当かよ!!

で、まあ、家買った話に戻るんですけど、公園で酒飲んでたらジジイがテトラー渡してきてね、これで俺のハイスコア超えたら普通なら3000万以上する家を1000万で売ってやるよって言われて、で、俺は見事ジジイの記録を更新して、そのうえ一発でおやじっちに進化させたので800万まで値引いたんですよ。最初に言おうと思ってた話はこれだけだったんですけど、この話もボケっていうか嘘なんですけど、ここまでの話、まじで何??

でさ、家買ったったんですわ、3LDK。で、これが去年ね。いや、いい家買うたわ〜言うて。嫁と息子と家族3人、ここでやってこなー言うて。で、言うてる間にコロナが来て、ですよ。緊急事態宣言ですわ。リモートワークが始まるわけですな。

世の中には家ではできない仕事で生計を立ててる方々もたくさんいらっしゃって、本当にみんな大変だったろうな思うし、大変な状況は今も何も変わってない今なのでなんだか申し訳ない気持ちにすらなるんですけど、僕は幸いにも会社にいようが家にいようがパソコンさえあればできちゃう仕事なもんですから。あの、ロボットかどうかチェックするための信号機とかバスが入ってるパネルを選ぶやつ、みなさんが日々入力してるアレがほんまに間違ってないかどうかを一個一個チェックするバイトですよね。

「え?アレって人がやってるの?」ってのはよく言われますけどね、僕がやってます。人間がやってます。「え、え〜!?」て思うでしょ?でもよく考えてください。アレ、ロボット避けなんですよ?ロボット避けのチェックをロボットにできるわけないじゃないですか?全部人間がやってます。僕もその一部です。50万くらい払うと資格が取れるんです。

それでさ、いやー本当によかったねとか嫁と話してたんですよ。保育園にも行けないもんだから毎日家に家族3人、僕は仕事もあってさ。前の小さな2DKだったらたぶんもっときつかったよね、今の家に引っ越した後にコロナが来て本当によかったよねー、なんつって。それは本当にそうだもんね、ついてたねーなんつってね。

で、その後さ、コロナと、リモートが、全然終わらねえのな。もうぼちぼちコロナ元年も終わりですよほんと。まだやってる。この調子じゃ来年も続きやがるぞコロナって感じなんですけどね。

最近、体がしんどかったんですわ。夜にソーシャルディスタンス意識しながら散歩したり、運動不足は避けるようやってたんですけど、まあ身体がしんどい。なんでかなーなんでかなー、怖いなー、なんでかなー海に漂ってる昆布から出汁が出ないのなんでかなーってずーっと考えてたんですけど、その答えに最近ぶち当たりまして。

単純に俺の仕事環境が悪いっていう。いや、さっき3LDKって言ったじゃないですかー。言ったんですけどー、部屋の構成がね。まず南向きにリビング、LDKが20畳くらいでズドーンとありまして、で、そことつながる10畳くらいの中洋室がありまして、あとは東向きの8畳くらいの洋室がありますわな。で、あと北向きの4畳くらいの小部屋があるんですわ。

で、俺、この中のさー、北向きの、しかも窓の向こうは廊下だからカーテンも開けられない4畳くらいの部屋でこの一年近く仕事してたんすよー。そりゃ調子悪くなるわ、てこの前くらいに気づいて。言われてみれば座敷牢かよ!みたいな。いや、効率厨の各位におかれましては「馬鹿じゃないの」と思われると思うんですけど、厄介だったのがさ、リビングと隣接してる中洋室ね。ここの部屋がさ、最近流行りの壁ぶち抜き型の中洋室なんですよ。壁があってドアがあってみたいなんじゃなくて、全面引き戸みたいな。最近よくあるじゃん、そういうの。リビング学習とか流行ってるしさ、部屋としては分かれてるんだけどすごくシームレスで、ゆくゆくは子供がここで勉強するんだろうなみたいなそういう家設計になってたんだよね。そうすると、そんなオープンで仕事するのはな、てなるじゃん。そこはリモートワークする場所ではない設計で、そういうコンセプトでやってるんだから。そうするとあとは8畳の部屋と4畳の部屋だけで、8畳の部屋の方は寝室だからさ、残るのは北向きのカーテンも開けられない4畳の部屋しかなかったんだよね。

ちなみにこの部屋はもともと、将来的にはリビング学習するから自室に一人で籠るのは夜だけだしいいよねみたいな想定の一人息子の部屋、今は物置、みたいな感じで考えてたからさ。俺はだって仕事がパネルに信号機が入ってるかどうかを見てるだけで、プライベートではパソコンなんて全然触る機会がないタイプだったから、書斎もいらないし、パソコン部屋もその一角でいいよー(スマホあるし)ってスタンスだったから、一番小さな座敷牢みたいな部屋にとりあえず会社仕事もできるパソコンを置いてたんだけど、気づいたら俺そこに一年くらい勝手に自分の意思で閉じ込められてたんだよねー。

いや、この話の怖いのってさ、さっき言ってたリビング学習前提のぶち抜きモデル。リビングと隣接するでかい部屋の壁ぶち抜いて開放的な空間を作るっていうコンセプト。これ、リモートワークで毎日おうちで働く人がいることを全く想定してないコンセプトなんよな。俺もそれに気づいたのつい先週くらいでさ。このコンセプトを受け入れて買った家ゆえに、緊急事態のコロナ禍で、余ってる座敷牢みたいな部屋で1日8時間を過ごしてたんよな。あれはもう、巣篭もりする熊にとっては夢のような環境かもしれないけど、人間にとってはなかなかキツい環境だったんじゃないかな。

つまり、我が家はそれに気づくやいなやアズスーンアズで、中洋室に俺の仕事場としての役割も兼ねられるような役割を与えるべく、本棚から何やかやをひっくり返して、座敷牢の4畳を本当の倉庫兼何かに押しやってでもそうする決断をしていい感じに今は自然光を浴びながら仕事できるようになったからいいんだが、じゃあでも俺が座敷牢みたいに使ってたその部屋は息子が大きくなった時にどうするの?みたいな問題は先送りにしてるわけで。

いや、これはねー、賃貸派には笑われるだろうけども、リモートワークを前提としない設計の家を買った人たちみんなどうしてんのこれ、みたいな。とりあえず俺は大規模な模様替えでお茶を濁してるけど。みんな俺みたいな座敷牢リモートしないでもうとっくに対応してるの?いや、そんなことないでしょう、一時的なものだし家の一番すみっこで働いてるやつそれなりいるでしょ。あ、そうだ、みんな家の写真撮ろう!で、模様替えしよ!で、来年くらいにあの時こんなインテリアにしてたねー!て。それを今年の思い出の写真にしよ!よっしゃ、それでいこ。めちゃめちゃ伏線回収してるバリバリ最強ナンバーワンじゃん!よっしゃ!

以上です、

もうさっさと婚姻制度廃止してパートナー制度に一本化しようぜ

また札幌で同性婚についての裁判がどうのとか、サイボウズの社長がやってる選択的夫婦別姓がどうのとか、なんか色々やってるけど、めんどくさいな解散解散〜〜って感じで眺めている。

同性婚の話題って婚姻制度を拡張する話だと思ってるんですけど、そして選択的夫婦別姓の話題もまた婚姻制度を拡張する話だと思って眺めてるんですけど。

そもそも婚姻制度って、要る!?その大部分、要る!?

多様化を是とするなら、解釈まで最小単位にしちゃうのが一番手っ取り早いじゃんと思うんよね。最小単位ってなんだろう?

 

この人と一緒に生きていきたいです。

 

その程度じゃんと思うんだよねー。その届出を受理してくれよー。だからそれでいいじゃん。相手が同性でも異性でも、そう思ったからそうします、一緒に生きていってお互い助け合いますので、それをしやすい特権下さい、それでいいじゃんか。

なんらかのパートナーであることを届け出られて、それが「あーそうなんだ、あんたらこれから身を寄せ合って生きていくんですね」って受理されたら、それが最低限の最高じゃんか。

たまたまそう思えたパートナーが異性で、世の中の結婚とは違うかもしれないけどーって思って結婚してるひとたちも、まあそれなりいるんでしょうな。いるんでしょういるんでしょう。

だからみんなもそうすりゃいいのにじゃなくて、全部解体しちゃいましょうよ。

婚姻なんてものはめんどくせぇ、めんどくせぇ。

俺がいつも疑問に思うのは、同性婚にしても選択的夫婦別姓論にしても、「婚姻」についてはなんだかんだ固執してんのかなってところです。

婚姻って何なんですか?愛の証明なんですか?その愛が、情愛なのか性愛なのか恋愛なのか、知らないですけど、そんなノリを感じるところがありまさぁな。

国の認可を得ないと、二人の関係は本物にならないんですか?

そんなんどうでも良くない?と常々思ってるんだよな。本当に、二人が満足に身を寄せ合ったり寄せ合わなかったりしながら生きていこうと決めて、そのための必要を求めるならば、婚姻制度の拡張なんて甚だ馬鹿馬鹿しくて、ただの腐れ縁を当たり前に受け入れる法の在り方こそが今一番必要なんじゃねえのと思うんだよねー。

みんな自分の愛をさ、疑いすぎじゃね?とかも思うわけです。

婚姻という枠組みの中で、あなたとパートナーの関係がストレスなく許容されることを、愛の証明だと思ってないかとも思ってしまうわけです。

かつて甲本ヒロトリンダリンダという歌の中で言いました。

 

『愛じゃなくても、恋じゃなくても、君を離しはしない。』

 

要するにそういうことだと思ってる。

一緒にいたいと思う相手との関係性が、愛なのか恋なのかというのは、実に些細な問題で、自分の中でもよくわからないし、ましてや誰かに決められるものでもない。

俺がハッキリと確信しているのは、同性愛婚賛成派にしても選択的夫婦別姓賛成派にしても、馬鹿ほど婚姻制度に夢を抱いている。婚姻によって得られる金銭的なあるいはその他のインセンティブはあるにせよ、そんなことは些細な問題で、みんな何かしらの称号を得たがっているように見える。婚姻に囚われているように見える。

パートナー制度でいいじゃねえか。それで何の不満があるんだ。お前らが愛し合ってるのか、利害の一致なのか、あるいは何らかの搾取関係なのか、そんなもん全部みんな勝手にやれ。それが今らしい今だろう。

婚姻制度の拡張みたいなクソしょうもない土俵で、みんながピーチクパーチクやってるのは非常に滑稽で如何にも小鳥らしい。

俺が希求するのは、ただのパートナー制度だなぁ。そのパートナーをどう呼ぶかはてめえの勝手だ、妻でも嫁でも旦那でも主人でも相方でも、全部ぶっ壊そうぜと思うばかりだ。

以上です。

殊に「言語化」が持て囃される時代で忘れたくない大事なこと

インターネットが一部の好事家たちのためのものであったところから社会インフラとして拓かれ世に生きる万人に広く開かれていく過程で、また現実の社会が多様な生き方を志向して指向される形に変化していくなかで、いわゆる「言語化」する力というやつは多くの人々に歓迎され、また希求されるものとなった。

もちろんこれまでも生活レベルにおいては言語化能力などあるに越したことはない生きていくうえでのお役立ちスキルであったことには違いないのだが、今や言語化能力というやつは一人の人間のキャラクターを構成する一要素に留まらずそれ自体が価値として認められる評価軸の一つとなっており、言語化さえうまくできりゃ多くの人々の羨望と賛意を集められて誰しもの飯の種となる可能性すらをも秘めたとてもお手軽で甘美でスマホ一つありゃ誰でもチャレンジできる真っことにドリーミーなスキルとなったのである。

言語化能力がこのように持て囃され褒めそやされるに至った経緯としては先述したとおりまず何よりも多様性を指向する世の中の空気の変化が挙げられるだろう。多様性の指向とはすなわち、手垢がついて形骸化した言葉によって当たり前のように存在している規範に抗おうとする意志である。しかし、まことに残念ながら意志は意志だけでは力とはなりえない。言葉を持たない意志は、たとえそれが古びれた空虚なものであったとしても言葉を持つ意志には如何とも抗いがたいものである。この空虚な言葉により形作られる意志こそが旧時代的な規範であり、人々はまずその規範を打ち壊すためにその規範を規範たらしめる言葉をまさに打ち砕かんとする新しい生きた言葉を必要としたのである。

そして、その時代の要請と需要を感じ取った、あるいは自身のためにそれを必要とした「言語化」が得意な人間たちはインターネットという開かれた世界に向けてペンを取った。画一的な個の在り方を迫る旧時代的な規範を前にして自らが感じた違和感や不信感やを言語化しテキストに起こし、そしてそれは同じモヤモヤを抱えていた人々に「我が意を得たり」と拡散され広く読まれることとなりエンパワメントの契機として歓迎されることとなった。言語化する力によって、人々は規範による束縛を拒もうとする自身のその動機を知り、今まで抗うに抗えなかった理由を知り、抗っても良いというその根拠を知り、そのような自分であるべきだという確信を獲得するに至り、そしてそれが明日からの行動を変える一助となり、その各人の行動が意志として提示されらことで社会のゆるやかな変容を促した結果としての今日が今なのである。みなさん、どうもこんにちわ、ズイショです。よろしくお願いします。

そして今日も人々は自らの違和感を、自分の大切にしたいものを、自分が自分らしく生きるために必要な何かを、より多くの人に共感されて賛同される形で言語化するべく、血眼になって心血を注いでいるわけで、まさにたけしのインターネット・ばんざい!の様相である。

しかし、当然ながら、この皆が言語化を是とし皆がより卓越的に言語化された言葉を求め生み出そうとする流れの弊害は少なからず多分に散見され、些か諍いの種としての側面が大きく見えてきたようにも思われる。そこには「言語化」するという営為についての傲慢と欺瞞、先鋭化された羨望による「言語化」への信仰が見受けられる。
そもそも「言語化」とは何か。それは、真実の喝破ではなく、解釈である。言語化とは、ある事象について「私はこのように解釈した」という表明に過ぎない。間違っても言語化とは、ある事象の在り様を一義的に定義する営為ではない。言語化とは、決して事象に先立たず、事象の存在の後に生まれる営為であるはずだろう。それが逆転した場合、人はそれを言語化ではなく規範と呼ぶべきだろう。

言語化とは、素朴を因数分解する営為である。規範をただそのままに受け入れる素朴を打ち払い、規範に抗う人のその人の声のその抗う素朴さを、素朴なままで存在できるようにする助け舟こそが言語化だとズイショさんは思うわけなのね。

この場合においても、言語化は常に素朴に先立たない。まずそこに、良かれ悪かれの素朴が存在して、その素朴を肯定するためか、あるいは一方の素朴に抗う素朴を肯定するためか、いずれかの場合に限り「言語化」は「言語化」としての存在意義を発揮しうる。ある素朴の存在を否定するために振るわれる言語化は、それは一見言語化のように見えてその癖言語化ではなく、実のところ言語化を羨望する人々の最も憎む規範に過ぎないのだ。私はこれからも言語化を大事に大事に抱きしめて生きる。それは規範に抗うためだ。規範の側に回るためではない。

言語化は誰のためのものか、万人の己のためのものだ。誰かの規範に抗い、自分らしく生きるための術だ。それは決して、誰かを私の規範に押し込めるためのものであってはならない。

しかし些か言語化は、今の世の中において、諍いを吹っかけて、諍いを有利に進めるために振るわれ過ぎているようにも感じるのだ。言語化は、あなたがあなたを肯定する一助にはなるが、あなたをあなたたらしめるあなたを正当化する手段にはなりえない。万人には万人の素朴があり、あなたが言語化して正当化したつもりになったあなたも所詮あなたの素朴に過ぎない。

多様性とは素朴を素朴のままに留めることなのだろうと思う。その人の素朴を他人の素朴によって否定されないようにすることなのだと思う。そして、ある人の素朴がまた別の誰かの素朴に侵害されないように抗う術が言語化なのだと思う。言語化が、まるで聖人のように誰かしこの素朴を許すために振るわれるべきものだとは思わないが、言語化が誰かの素朴をまるで規範のように否定する様を見るのはなかなかに心苦しい。言語化という営為は、常に規範より素朴の側にあってほしいと思う。

言語化とは、補助線を引く営為だと思う。ある事象を表す難解な図に、スッと一本、線を引くだけで、私とあなたとの違いが見えてきて、私は私で、あなたはあなたで、これからも私は私らしく、あなたはあなたらしく生きていく、そんな1秒後が想像できる、そんな補助線が引けたらいいなと思う。僕が引きたい線は、分断のその境目を規定する線ではなくて、そんな補助線だ。

あとアレだ、真実を喝破って書いた時に「あとでドルチェ&喝破ーなって絶対どっかど書こう」と思ったの忘れてたわ。

以上です。