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殊に「言語化」が持て囃される時代で忘れたくない大事なこと

インターネットが一部の好事家たちのためのものであったところから社会インフラとして拓かれ世に生きる万人に広く開かれていく過程で、また現実の社会が多様な生き方を志向して指向される形に変化していくなかで、いわゆる「言語化」する力というやつは多くの人々に歓迎され、また希求されるものとなった。

もちろんこれまでも生活レベルにおいては言語化能力などあるに越したことはない生きていくうえでのお役立ちスキルであったことには違いないのだが、今や言語化能力というやつは一人の人間のキャラクターを構成する一要素に留まらずそれ自体が価値として認められる評価軸の一つとなっており、言語化さえうまくできりゃ多くの人々の羨望と賛意を集められて誰しもの飯の種となる可能性すらをも秘めたとてもお手軽で甘美でスマホ一つありゃ誰でもチャレンジできる真っことにドリーミーなスキルとなったのである。

言語化能力がこのように持て囃され褒めそやされるに至った経緯としては先述したとおりまず何よりも多様性を指向する世の中の空気の変化が挙げられるだろう。多様性の指向とはすなわち、手垢がついて形骸化した言葉によって当たり前のように存在している規範に抗おうとする意志である。しかし、まことに残念ながら意志は意志だけでは力とはなりえない。言葉を持たない意志は、たとえそれが古びれた空虚なものであったとしても言葉を持つ意志には如何とも抗いがたいものである。この空虚な言葉により形作られる意志こそが旧時代的な規範であり、人々はまずその規範を打ち壊すためにその規範を規範たらしめる言葉をまさに打ち砕かんとする新しい生きた言葉を必要としたのである。

そして、その時代の要請と需要を感じ取った、あるいは自身のためにそれを必要とした「言語化」が得意な人間たちはインターネットという開かれた世界に向けてペンを取った。画一的な個の在り方を迫る旧時代的な規範を前にして自らが感じた違和感や不信感やを言語化しテキストに起こし、そしてそれは同じモヤモヤを抱えていた人々に「我が意を得たり」と拡散され広く読まれることとなりエンパワメントの契機として歓迎されることとなった。言語化する力によって、人々は規範による束縛を拒もうとする自身のその動機を知り、今まで抗うに抗えなかった理由を知り、抗っても良いというその根拠を知り、そのような自分であるべきだという確信を獲得するに至り、そしてそれが明日からの行動を変える一助となり、その各人の行動が意志として提示されらことで社会のゆるやかな変容を促した結果としての今日が今なのである。みなさん、どうもこんにちわ、ズイショです。よろしくお願いします。

そして今日も人々は自らの違和感を、自分の大切にしたいものを、自分が自分らしく生きるために必要な何かを、より多くの人に共感されて賛同される形で言語化するべく、血眼になって心血を注いでいるわけで、まさにたけしのインターネット・ばんざい!の様相である。

しかし、当然ながら、この皆が言語化を是とし皆がより卓越的に言語化された言葉を求め生み出そうとする流れの弊害は少なからず多分に散見され、些か諍いの種としての側面が大きく見えてきたようにも思われる。そこには「言語化」するという営為についての傲慢と欺瞞、先鋭化された羨望による「言語化」への信仰が見受けられる。
そもそも「言語化」とは何か。それは、真実の喝破ではなく、解釈である。言語化とは、ある事象について「私はこのように解釈した」という表明に過ぎない。間違っても言語化とは、ある事象の在り様を一義的に定義する営為ではない。言語化とは、決して事象に先立たず、事象の存在の後に生まれる営為であるはずだろう。それが逆転した場合、人はそれを言語化ではなく規範と呼ぶべきだろう。

言語化とは、素朴を因数分解する営為である。規範をただそのままに受け入れる素朴を打ち払い、規範に抗う人のその人の声のその抗う素朴さを、素朴なままで存在できるようにする助け舟こそが言語化だとズイショさんは思うわけなのね。

この場合においても、言語化は常に素朴に先立たない。まずそこに、良かれ悪かれの素朴が存在して、その素朴を肯定するためか、あるいは一方の素朴に抗う素朴を肯定するためか、いずれかの場合に限り「言語化」は「言語化」としての存在意義を発揮しうる。ある素朴の存在を否定するために振るわれる言語化は、それは一見言語化のように見えてその癖言語化ではなく、実のところ言語化を羨望する人々の最も憎む規範に過ぎないのだ。私はこれからも言語化を大事に大事に抱きしめて生きる。それは規範に抗うためだ。規範の側に回るためではない。

言語化は誰のためのものか、万人の己のためのものだ。誰かの規範に抗い、自分らしく生きるための術だ。それは決して、誰かを私の規範に押し込めるためのものであってはならない。

しかし些か言語化は、今の世の中において、諍いを吹っかけて、諍いを有利に進めるために振るわれ過ぎているようにも感じるのだ。言語化は、あなたがあなたを肯定する一助にはなるが、あなたをあなたたらしめるあなたを正当化する手段にはなりえない。万人には万人の素朴があり、あなたが言語化して正当化したつもりになったあなたも所詮あなたの素朴に過ぎない。

多様性とは素朴を素朴のままに留めることなのだろうと思う。その人の素朴を他人の素朴によって否定されないようにすることなのだと思う。そして、ある人の素朴がまた別の誰かの素朴に侵害されないように抗う術が言語化なのだと思う。言語化が、まるで聖人のように誰かしこの素朴を許すために振るわれるべきものだとは思わないが、言語化が誰かの素朴をまるで規範のように否定する様を見るのはなかなかに心苦しい。言語化という営為は、常に規範より素朴の側にあってほしいと思う。

言語化とは、補助線を引く営為だと思う。ある事象を表す難解な図に、スッと一本、線を引くだけで、私とあなたとの違いが見えてきて、私は私で、あなたはあなたで、これからも私は私らしく、あなたはあなたらしく生きていく、そんな1秒後が想像できる、そんな補助線が引けたらいいなと思う。僕が引きたい線は、分断のその境目を規定する線ではなくて、そんな補助線だ。

あとアレだ、真実を喝破って書いた時に「あとでドルチェ&喝破ーなって絶対どっかど書こう」と思ったの忘れてたわ。

以上です。

男性が善意で声をかけると「声かけ事案」にされてしまう問題雑感

ネットでたびたび話題になるよね、男の人がなんか良かれと思って困ってそうな女性とか子供になんか手伝えることありますか的な感じで話しかけたら全力で善意を拒否されて、挙句には「事案」として通報されましたみたいなやつね。16時半頃、どこどこ区で黄色いマントを羽織ったシャアの元嫁みたいな声の男が女子小学生に自分の顔の一部を引きちぎって食べさせようとしました、みたいな。ダメだよお前、カバ以外に話しかけちゃ、みたいなのあるじゃないですか。

ネットの都市伝説というか真偽不明のツイートとかで見かけることもあれば、実際にネットに公開されてる防犯を呼びかける通報事案の紹介なんかでも「そ、それは普通に話しかけただけの、不審者ではない人では?」と思える内容があってそれがスクショでリツイートされてるのを見かけたりもする。

で、二項対立大好きインターネットではたびたびこの話題が議論になって、「善意をこんな風に足蹴にしやがって」派vs「だってもしかしたら本当に良からぬことを考える人かもしれないんだから当然の自衛でしょう」派が喧々諤々ピーチクパーチクとやってるのを見かけるわけですね。

かくいう僕はというと、もう20年以上前かな、札幌の住宅街を友達の家まで歩こうとめちゃめちゃ吹雪の向かい風の中歩いてるとキャリーバッグが雪に捕まっちゃってろくに引き摺ることもできないまま立ち往生してるおばあちゃんに出くわしてさ、純粋な善意の気持ちで「歩く方向同じなら持ちましょうか?」て声をかけたんですけどめちゃめちゃ警戒されて口も開かずホウキみたいなスカスカの身体で威嚇されたもんだからまあいいやと思って「失礼しました」とその場を後にして、まあ見ず知らずの若い男からそんなん言われたらおばあちゃん怖かっただろうな半分あのバッグの中身は銀行に預けられない現金かめちゃめちゃ仲の悪い息子嫁の愛犬のパピヨンの死骸かどっちかだな半分くらいの気持ちで、50%の確率で俺が怖かった、25%の確率で5000万円(猪瀬のカバンよりは大きかったので)、25%の確率でパピヨンの亡骸ということで俺の中では終わった話なんでいいんですけど、まあ、そういうことはあるよねと学んだもんです。

この二項対立について思うのは、この二項対立が存在する世の中を作ったのは双方というか全員だよねというのがまずあって、近隣住民を本当の善人か疑ってかかって悪い人じゃないにしても面倒くさい人かもしれないので避けようってのを当たり前に考えるのは防犯意識と関係なくこの30年だか40年だかで育まれてきた流れだとは思うんだ。子供を勝手に叱ってくれるカミナリジジイみたいなの、藤子不二雄作品の原作なんかではたびたび見かけたものだけど、俺が北海道の片田舎出身の34歳だけどギリであのようなものを見たことがあるかなどうかなくらいのライン、いや見たわ、中学生の頃に公園で夜の21時にロケット花火をお互いにぶつけ合う遊びを仲の良い友達同士でしてたら近所のおっさんが怒りに来てたわ、立ち漕ぎで逃げたわ。一方で大阪に一人で引っ越して大学生になって近所の公園でドラゴン花火をおでこの上で着火するみたいなことをして遊んでた時にやってきてたのは近所のおっさんではなく警察官だったな、これが時代の差なのか地域の差なのかはよくわからんのだけど。

誰が悪いのか誰かが悪いのかもわからないけど、俺がオギャーって生まれてから向こう、いわゆるご近所同士みたいなコミュニティというものは退廃の一途を辿ってきたように感じる。むしろウーバーイーツのような、サザエさんでいう居酒屋のサブちゃんに相当する隣人は増えているにも関わらず、他人あるいは運んでくれるロボットとしての付き合い方しかしないのが現状だよね。俺は毎週、たまごとかバナナとか届けてくれるコープの宅配の兄ちゃんと「髪切った?」とか「髪染め直した?」とか普通に話すんだけど、こういうのはあんまり主流じゃない世の中になってるんだろうなとは思うんだよな。俺は先日3歳の息子とでかい公園に遊びに行って、でかい滑り台があったんだけど、それが滑り台が螺旋型に回る滑り台で、ぐるっと捻れる構造なので前の子が滑り終わったかどうかが、次に滑ろうとしてる子供からは見えないようになってる作りなのね。だから俺は、自分の息子が前に滑った子に突撃どっしーんみたいにはならないように気を配っていたらついでに他の子にも「まだダメだよ!滑っちゃダメだよ!ほら、君は避けて、滑り終わったら横にずれて!いいよー!上の君、もう滑っていいよー!」とかやる羽目になってさ、この滑り台、大人がこういうオペレーションする前提で設計されてるじゃんてむかつきながらやっててさ、で、他所のガキの子供の親がさ、その俺をニヤニヤ見てんの!お前らもやれよ!手伝えよ!て思うんだけどさ、まあ、いいけどさ、ガキのオペなんざできるから、いいんだけど。あれ俺、ただの特定のお子さんの親だとちゃんと認識されてたのかな。いざとなれば集団でとっ捕まえればいい変なおじさんだと思われてたのかは気になるんだけど。俺は、ママ友、パパ友が欲しかったんだよ本当は〜!!

ま、極端な例ではあるけども、そんな感じでさ、「希薄な社会」はみんなが望んで作っているよね、とかは思うんだよね本当。で、希薄な社会の方にみんなが舵を切る中で何せ「知らない人」は何を考えてるかわからなくって怖いからそりゃあ俺だって自分の子供には「知らない人にはついていっちゃいけないよ」って教えるだろうしそれが「当たり前」なんだろうなということはわかる。

ここで少し話は変わるんだが、子供を車に乗せるときにはチャイルドシートに固定してやりたいし電動チャリの後ろに乗せる時にはヘルメットを被せてやりたい。これは「当たり前」のことですが、いったいなぜ「当たり前」なのでしょうか。「何かあった時危ないから」、うんうんまあそうなんですけどこれは答えとしては半分くらいで、俺がいつも思うのは何かあったときに「あー◯◯していてよかった〜」て思いたいからだなと思ってて、それはもっと言えば何かあったときに「ああ、あの時ちゃんと◯◯さえしていれば」と思いたくないからだと思うんだよね。

つまり、万が一のときに「後悔したくない」という気持ちが人を不安にさせるし、その不安を払拭して「安心」でいたいからこそ人は事前策に腐心するし、その結果としてより「安全」を求める。

これらの「後悔したくない」と「安心」と「安全」は同じように見えて実はそれぞれ独立していて必ずしも常に相関するわけではない、ということをまずは確認したい。

たとえばそれこそ自転車に乗るときにヘルメットを被せるとかチャイルドシートにちゃんと固定するとか。「後悔したくない」については10段階評価で10でしょう。何かあったときに「ちゃんとやっていればこんなひどい怪我にはならなかったのに」と思わなくて済みますので。「安心」についてはどうでしょう、ヘルメットやチャイルドシートをちゃんとしてるから事故になんか遭わない、事故に遭っても大した怪我をするわけがない、と考える人はまあいないのではないかと思います。「安心」についてはせいぜい2点くらいじゃないでしょうか。「安全」については、まあちょっとした事故なら準備をしてなかったときに比べれば相対的にそんな酷い目になる確率は下がるので5点くらいでしょうか。「安心」や「安全」をもっと確実に獲得したいなら、たとえば車通りの少ない道を選ぶとかそもそも電車を選択するとかが必要かもしれません。もちろん電車は電車で人がたくさんいますので嫌な思いをすることはあるかもしれないし、思わぬ危険が潜んでいないとも限らないわけですが。

じゃあそれらヘルメットやチャイルドシートをちゃんと準備したうえで、交通ルールをしっかり守るというのはどうでしょう。これも「後悔したくない」的には10点ですね。赤信号を無視して事故に遭ったら悔やんでも悔みきれないでしょうから。「安心」の面ではどうでしょう、これはかなり人それぞれだとは思います。安全運転を心がけることで、不安なく目的地に向かえる人もいれば、他の乱暴な運転車を警戒してどこまで安全運転を心がけても心休まらない人もいるでしょう、あいだを取って5としましょうか。「安全」の観点から見ると、うーん7くらいかな?できることはやってますし、実際に交通ルールをしっかり守っていれば、守らないよりも危ない目に遭う確率はぐっと減ります。0にはならないけども。

ではまたシチュエーションを変えて、「夜道を歩くのを避ける」の場合はどうでしょう。「後悔したくない」は10かもしれませんね。もし万が一何かがあった時には「そんな時間に歩いてさえいなければ」と思うかもしれません。「安心」は文句なく10でしょう、夜道を歩いて不安を感じるならば夜道を歩かなければ不安は0です。誰であろうと夜道でも不安を感じず歩ければそれが一番ですが、なかなかそうはならない現実は歯痒いものです。「安全」の面から考えると大変難しいです。昼歩いててどんな酷い目に遭わないとも限らないとしても、実際夜の方が危ないのは統計的には間違いないのかもしれない、統計をここで探してくるのはものすごくめんどくさいしそれは本旨ではないのでここでは「わからない」としておきましょう。

ほかに例えばを持ち出そうと思えばいくらでも持ち出せるのですがそれをやってるといつまで経っても次の話に進めませんので次の話に行きますが、僕がここで言いたいのは我々の取る自衛行動というのは基本的には常に「後悔したくない」が10で、それでどれくらい「安心」できるかどうかはケースバイケース人それぞれで「安全」に至ってはもっとその他の行動によって人それぞれのケースバイケースで、あらゆる自衛っていうのは結局まず何よりも「後悔したくない」からやっているんだろうなということです。何かトラブルに巻き込まれる確率というのは全体から見ると極めて小さく、軽微です。しかし軽微だからこそ、そのババを自分だけは引きたくないから人は自衛するわけなんだなと思うのです。

ここまで事件事故を引き合いに語って来ましたが、病気とかになるともっともっとそんなもんですよね。酒タバコ飽食好きに飲み散らかして天寿を全うする人もいれば、常に健康を大事に生きてきたのに若くして大病を患い亡くなられる方もいる。酒タバコ飽食をして病気する人は「だから注意したのに」と周りから言われて自分でも後悔するし病気をしなければ「大丈夫大丈夫、医者のいうことなんて真に受けるな」と言うし、酒タバコ飽食をやらずに病気する人は「どうしてほかにもっと健康を考えない人がいるのに」と嘆くでしょうし健康に長生きできれば「そりゃあ俺が長生きできないわけがないだろうと誇らしげに語るでしょう。全ては残念ながらそんな感じで、傾向や相関は当然ありつつもそれは全てではなく、人は自分が何かトラブルの当事者になった時にどんな言い訳をしたいかどんな後悔をしたいかしたくないかを軸に意思決定しながら生きているところが大部分ではないかと思うのです。

 

翻って、掲題の「知らない人に声をかけられた」に戻りましょう。

 

まずは、声をかけられた側から考えます。ここで「一見善意っぽい何かを拒否する」という行動を取った時に得られるものはどうでしょうか。「後悔したくない」は100点ですね、これで迂闊についていって殺されでもしたら後悔しかないですから。「安心」についてはどうでしょう、拒否するを選ぶ人からすると100点でしょう、だって迂闊についていったら「この人本当に大丈夫かなぁ」ってずっと不安に思うわけですから、それなら拒否する方がいいですね。「安全」の観点で言うとどうでしょう、これはわからないですね、その人が本当に善意で助けてくれる人なら、まあその人の善意の施し方がキモい可能性も踏まえて70から100、その人が最初からそういう目的の悪人だったら0かな?

いやあれ、評価値がこんがらがってる。「拒否する」ことで得られる「安全」の話だったっけか、そう考えると悪人なら100で善人なら0から30かな?いや、これは声をかけられた側がどういう風に困ってるかの状況によるな。いやいや、ややこしいぞ、その困ってる状況の危険度が0から100なのか誰が判断するべきなのだろう?それによって差し伸べられた善意に乗るか乗らないかも変わってくるだろうけど、どんな状況であれ相手が悪人だったら危険度は100で確定なのでややこしい、ここらへんでこれまでのこの評価軸での考え方は一旦詰みます。

摘んだので一回とりあえず端に置いて、善意によって声を掛けた側から、冷静に声を掛けられた側から見た自分の評価値を考えてみましょう。「自分の善意を断る」ことで相手が何を得ているのかを考えてみましょう。まず「後悔したくない」で言うと100点です、相手からすると自分なんかわけのわからん存在なのでこの後どうなるかわからないんだから、断るのは当然でしょう。「俺の善意を断ったら大変な目に遭うかもしれないのに」とあなたは思うかもしれませんが、本人が選んだんだから仕方がない。俺の善意を断ったあのババアはとりあえず凍死のニュースが翌日の新聞になかったので生きてたんでしょうが、もしかしたら「あの人に手伝ってもらえばよかった」と思いながらパピヨンの死骸を公園の便所に捨てに行ってたかもしれません。しかしそれは僕には預かり知らぬところです。「安心」の観点で見ても、まあ100点かはわからないけども、あのババアは善意かわからない俺と行動を共にするよりも一人で不安や苦痛を抱えながら行動することを選んだんかなと思います。「安全」の観点でいうと、0点ですね。俺は俺が安全なことを知っているけど、ババアからすると俺が安全なことは判断できなかったので危険な道を選んだ、ただそれだけです。

何が言いたいかと言うとですね、人はなによりも心の安定のために生きている、自分の善意を拒否されたとしてもそれは自分が特別に危険者認定されたわけではなく、単に「危険か安全か」以上に「心が穏やかでいたい」の方が優先順位がその人にとっては大事だっただけで、善意を施そうとしたあなたが「危険だ」と思われたわけではありませんよ、ということです。

そしてまた一方で、どこの馬の骨ともわからない善意を丁重に断るみなさん、断ることを推奨するみなさん、あなたがたも「安全」を確保するためにその行動を取っているとは限りませんよ、ということです。まずあなた方は「安全」よりも優先して「安心」や「後悔したくない」を確保するために見知らぬ善意かもわからない何かを拒否しているに過ぎない、ということです。「安心」や「後悔したくない」を軸に行動することは決して悪いことではありません。全然普通なことです。ただ、それを「危険かもしれない」と表現する必要はあるのでしょうか?SNSでこの件に触れる時に「危険かもしれないんだから当たり前でしょう」ではなく、「私は万が一が怖くて不安なので結構です」と言うことはそんなに難しいのでしょうか。

 

「後悔したくない」というのはそもそもなんなのかと考えると「負い目を感じたくない」「責められたくない」なのかなと思います。夜道を歩いて何かひどい目に遭ったらきっと誰かかしかに咎められます、「そんな時間に歩いてるから」とか言われるんでしょう、どうせ。そして自分自身も自身に対して思うのでしょう。繰り返しになりますが、そこらへんは誤差です。どんだけ自衛してようと、自衛してなかろうと、当事者になる時はなる。それをみんな内心は知っているからこそ、その時に少しでも胸を張っていられるように、言い訳できるように、自分に厳しく、そして他人にも厳しくしているように、俺にはそういう世の中に見えるんですよね。俺にはその方向がナイスなようにはとても思えない。どうすりゃいいんだろうなと思っている。

この話になるほどと思える人たちが中心となって、少なくとも善意の声掛け事案に関してはさ、信頼が担保できる仕組み作りができるようになればいいなーと思うんだけど、例えば、どこぞの馬の骨じゃなくて何かしらの認可を受けた個人として人に声がけする権利を獲得できるみたいな世界線とかさ、人が安心を得るために他人を疑う世の中が確立されたのはもうどうしようも揺るがないからさ、その中でどうしてこっかっていう補助線を引きたくて長々と喋っていたのであった。

もう書き飽きたので切り上げるけど、なんだろ。とりあえず、声掛ける側は、自分の善意を相手に否定されたからって、てめえの善意を否定されたみたいに怒るな。てめえの善意はてめえが担保しろ。てめえの善意はてめえが肯定しろ。他人に否定されてもお前が善意だと胸を張って言えるならそれはてめえの善意だ。胸を張れ。見返りを求めるな。お前に提供できるのは安全だけで、安心として受け取るかは向こう次第だ。安心できないから拒否されたとしても、安全を提供したかったお前の善意は嘘じゃない。お前の善意を人にジャッジされて癇癪を起こすな、お前の善意はお前が守れ。俺はそうしようと生きている。お前もそうして生きろ。

双方がそんな感じで矛を収めた後に「じゃあもっとこうしよっか」みたいな仕組み作りの話がやっとこさできるんだろうけどねぇ。

以上です。

 

鬼滅の刃最初は「俺は好きだけど……」勢に支えられてたよね

すごいなマジで、Twitterのタイムラインでもみんなマジで鬼滅の刃の話ばっかしてんぞ。俺のフォローしてる人たちがしてるというか、回ってくるリツイートの数がすげえ。つまりそれだけポピュラーってことなんだろうわな。

小学生の頃から余裕で20年以上に渡ってジャンプ毎週読んできてる俺みたいなおっさんから見てもこの鬼滅の大人気ぶりは本当に「なんだこの異常事態」って感じで、まあそれでもアニメを起爆剤に原作コミックが大ヒットみたいなんはまだわかるとしても映画もこれから先どうなるかわからんけど初速としては化け物並みとしか言いようのない興行成績を叩き出してて、俺みたいなただの一読者が「なんじゃこりゃ」て思ってるんだから作者は今何を思ってるんだろうな。まあ、特にごちゃごちゃ考えず「感謝感謝」としか思ってなさそうなキャラクターの人ではあるが。ま、しかし、作った人は感謝感謝で「なぜこんなにウケてるのか」は現金な外野が考えるって構図自体は常にそうなんだろうけどさ。

で、この「なんでこんな売れてんの?」という問題。解けてないよねーみんな、みんな色々言ってはみてるものの芯食ってないよねー。わからんのよマジで、鬼滅を連載開始から追っ掛けていたからこそわからんってみんな言ってるし、売れてから乗っかってきた人たちが自信満々に言う仮説も全然的外れだし、本当になんなのよこの現象。っていう現状をよくよく承知したうえでね、なんかこの前も実写版キャスト大予想っていうクソ記事も書いてた兼ね合いでさ、コミックス読み直してたからさ、ちょっと考えたことを書こうと思ったわけです。なんでこんな売れてるの問題。

まず、俺ね、俺に関して言うと、連載当初からだいぶしばらくのあいだは「俺は面白いなと思うよ、俺は打ち切りになって欲しくないなーと思うけど、うーんジャンプのメイン読者層にとってはどうかな?俺は応援してる、終わらないで欲しいと思うけど、もっと、もっとこうしろよと思うこともあるけど、うーん、それがワニ先生の個性だし、この作品の良さだし、うーん」みたいな感じだったんよね正直な話。ほんで、周りの奴らと話してても、同じような感じで当時を評価してた人たちめちゃめちゃ多い。で、そういう人ほど今の事態に当然困惑してるよね「俺は面白いと思ってたけど、そ、そこまで?」て困惑の仕方をしちゃうよね、俺もしてる。

で、思ったのがさ、俺は初期の鬼滅の刃を「面白い」とは思ったが「熱い」とは思ってただろうか?てところでさ。連載1話から追い掛けてたみんなはさ、鬼滅の刃を「熱いな」って認識したのはどこから?俺ぶっちゃけまさに今やってる映画の後半くらいからなんだよね。だって前半の夢に潜り込むとかの話もさ「いや、バトルせんのかい」て当時は思ったもん。お前掲載順位全然安定してないのに、またバトルせんと心象世界がどうのとかわかりにくいことやって、俺は好きだけどお前もっと、な、俺だけじゃなくみんなにちゃんと面白いと思ってもらおうと思ったら、もっと、な、な?おい目ぇ見ろ、俺はお前のためを思って言ってるんやぞ、目を見ろ、おい、目を、なんやその目は!おい!おい!みたいになってたんだけどみんなはどう?だって俺、蜘蛛山抜けて柱合会議で柱の面々が出てきたの連載で見たとき「終わった!」て思ったもん。これはもう打ち切り決まって、作者がもう次の作品にとっておくとかじゃなくてこの作品に後々は登場させようとしてたキャラを出し惜しみさずに終わる前に全部出しちゃえってなってるパターンだ、あの和月伸宏の悪い癖と同じだ、て思ってたもん完全に。それくらい、そこらへんまではまだ全然普通に打ち切りを心配してたと思うんだよね。

で、無限列車編の終盤くらいから「お、やっとちゃんと熱くなってきた」となってその次の遊郭編からは明らかにバトルが熱くなってきて掲載順位も安定してきて、つまり連載初期から読んでた少なくとも俺の中では鬼滅の刃って「ジャンプ漫画としてはエンジンかかり始めるのが抜群に遅かった漫画」だったんだよね。連載当初から読んでた人らに聞きたいんだけど「最高に熱いジャンプ漫画」って鬼滅の刃を認識し始めたのっていつからだった?て。俺に関して言うとそんな感じだったもんでな。

だから、アニメ化が決まった時も「最初のたるいところどうするんだろ」って普通に心配してた気がする。エンジンかかるまでが長いから、俺は好きよ?俺は序盤も全然好きだけど、みんな脱落しないかな?みたいな心配をしてたよね。全くの杞憂だったんだけども。わからんけど、幽遊白書の霊界探偵になるまでの、バトル漫画に切り替わるまでの序盤をどう処理するか問題が当時あったのかどうかも俺はその頃小さかったから知らないけどそれに似たような危惧があったんだよね俺の中では。

で、結論としてはアニメ版鬼滅の刃はアニメ化する時点で原作の物語がそれなり進んでてアニメ制作スタッフも「ははーん、そういう漫画ね、熱い漫画なのね」ってわかってたから、一話からめちゃめちゃ熱くしたから上手くいったんだ、てのが俺のなかで合点のいく一旦の結論。あるいは結論の一端の。アニメから入った人たちが原作に触れたら1話から激アツの展開に見えるんだと思う。俺は当時「なんか独特の雰囲気の、民族伝承を読んでるみたいな雰囲気の、全然ジャンプっぽくない漫画が始まったなー」と思って見てた。

つまりは、アニメ版鬼滅の刃は実はたぶん思ってる以上にすごく上手に換骨奪胎のやり方がうまくいったアニメ化だったと思うんだよな。

まずアニメの炭治郎、序盤から強そうに見えすぎる。鬼の方も含めて。ま、たしかに序盤で岩が切れるようになるからさ、そういう意味では超人的に強いはずなんだけどさ、やっぱ煉獄さん編くらいまでは炭治郎らの3人はそんなめちゃめちゃ人間離れをした化け物みたいな強さの連中には原作読んでて見えなかった。訓練の成果を発揮しながらちゃんと頭で考えて工夫してなんとかかんとか対応して頑張るパンピーにしか見えなくて、それで無限列車の戦いを経て、まさに超人同士の激闘激突に触れて「もっと強くならなくちゃ」ってなって、そこから本当の意味での超人バトルに身を投じていくみたいなイメージで、ましてやその超人対決の中でも人間という生き物の弱さをそれまでと同様丹念に描いて、そのうえで人間としてもっと強くならなくちゃって誓う流れだったと思ってて、つまり映画でやってるところまでが鬼滅の刃の第一章、心身ともに等身大の人間らしさの尺度で成長してきた炭治郎が、分厚い壁にぶち当たってそれでも人間らしく超人的な強さを求めようと誓うまでの第一章なのかな、てイメージなんだけど、この原作読んでるうえでのイメージをどれくらいの人と共有できるものなのかはよくわからん。少なくともアニメの演出は、かなり早い段階から(常に相手の鬼のほうが格上なので苦戦はもちろんするものの)超人対決みたいな見せ方になってたから、そこでやっぱアニメから入った人たちとはあの世界観の受け入れ方に結構なギャップがあるんだろうなーみたいなことは思ったんだよね。

というわけで、つらつらただ考えてたことを書いたんだがこれはもともとの連載当初から追い掛けてた読者とブームにハマってる人の微妙な温度差について思い当たる節を書いただけで、なんでこんなど偉いブームになってるのかはまた別の話。

とりあえず、「アニメ化で火がついた」といえば簡単だが、「教読本としての役割をアニメが果たしたから、一部の物好きな読者があんなに心配そうにひっそりと見守ってた鬼滅の刃原作序盤を、多くの人がすんなりと受け入れているんだな」ということと、アレを「俺は好きだし」「俺がアンケ出さなきゃ終わるから」と思ってた人たちが、こんなことになるなんて予想もできなかったのは自然なことではと思ったのだった。

引き続き考えよう。面白い漫画だ〜。

以上です。