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MIU404のキャラクターネームについての一考察

ドラマ、MIU404が面白すぎる。とうとうパラビに入会してしまったのでとりあえず最終回までに全話3回づつくらい見直す気がする。兎に角このドラマ、綾野剛が格好良すぎて本当に格好いい。今まで見た実写ヒーローで一番くらいに魅了されている。まあ、そういう話はまた別の機会にするとして、眠いので今思いついたことを書く。

全部観てる人前提で書くので、観てないやつは今すぐパラビ登録して全話観ろ。損はしないから。

あのー、9話で菅田将暉演じる久住のセリフで「久住」は「クズを見捨てる」の「クズミ」やねんでーみたいなのあったじゃないですか、あれで、あーっと思って。

MIU404の主要キャラって、示唆的なネーミングではあるんですよね、みんな。

一番わかりやすいところで言えばもちろんダブル主人公の伊吹と志摩。伊吹はたとえば「生命の息吹」とかがパッと思い浮かぶし、対する相棒の志摩は特に伊吹のわかりやすさに引っ張られて「死」や「魔」などを連想させるとか当初から言われていた。その後バックボーンが明らかになった今となっては、久住の調子に合わせれば「死をまなざす」くらいが一番しっくり来るかもしれない。

そうやって考え始めると他の第4機捜メンバーにもなんらかの意味を見出せそうな気がして、パッと思いつく当てずっぽうだと桔梗は「希求」のダジャレかもしらないし、陣馬は「人馬」、九重は「心得」かもしれない。九重が一番苦しい気はしてるので他の対案は募集します。

で、「なるほど!そんな感じで各々のキャラクターネームはそれぞれのキャラを象徴しているんですね!」という話なのかというと、そうなんだけど、そうではなくて、むしろ「それだけじゃない」ことが示唆される作りになってるんじゃないかなー思って。

たとえば志摩は、たしかに相棒の死を間近でまなざしていて自分自身も投げやりなところがあって自身の死をもまなざしていたけれども伊吹のお陰で相棒の死の真相を知って伊吹と共に今生きている市井の人々のために何ができるかをもう一度追いかけ続けたいと思うように変わっていった。

理想を希求する桔梗は、現実もしっかり見据えていてしたたかだが、もちろん生まれながらに当たり前のように希求し続けられるわけではなくいつもギリギリのところで折れそうになりながら戦っている。桔梗の花言葉としては「気品」や「清楚」があるが、麻生久美子演じる桔梗はそういった一面はありつつもそれを自分のアイデンティティとは考えず、また死別した恋人の前では酒好きで洗濯物が苦手な話をしてたりとか、桔梗の花のイメージとはあまり結びつかない一面も持つ。

陣馬を「人馬」とするならば、それ自体は「一兵卒(ノンキャリ)の叩き上げ」である陣馬にぴったりのネーミングであるかもしれないが、そのように生きていた彼にも家族がいて、家族への愛情があり、キャリアである九重との友情に近い何かもあり、警察という組織の中の駒のひとつ(人馬)だけが彼の顔ではない。

九重が「心得」とするならば、それは警察のお題目みたいな綺麗事と驕った正義感によって作られた「心得」をただインストールされたエリートのお坊ちゃんとして彼は1話から登場したわけだけれども、彼もまた当然第4機捜の面々と数多もの事件に触れて違う顔を見せるようになっていく。

伊吹もまた常に人に生きる活力を与えられるわけではなく、挫けそうになる時もある。誰かの助けがなければ「生命の息吹」を意味する伊吹で在り続けることはできない。

つまり、MIU404のキャラクターのネーミングはある程度「その人を象徴する」ようにはなってはいるが、その象徴が彼らの全てではなく、それは彼らの持つ一側面にしかすぎないと物語っているように思えるのである。

第2話に登場した殺人犯の「加々見」は拉致された夫婦にとっては息子を映す鏡のように見えたし、彼の存在は夫婦の「信じたかった」という気持ちを映す鏡となったし、その上で彼は殺人犯だった。

そう考えると、これまでの縦軸の物語のキーパーソンとなった成川岳も「上に登る」「成り上がる」というイメージが連想されるものの人生のアップダウンを繰り返し、最終的には命を懸けて「他人を蹴落として他人の命をゴミのように捨ててまで成り上がりたくはない」という選択をした。

探したらこういうネーミングのレトリックはまだまだ出てきそうな気がする。

 

そして、これらのような人間が持つ多面性こそがこのMIU404という作品の主題でもある。どんな環境に生まれるか、誰と出会うか、それ次第で人の顔は、生き方は如何様にも変わる。自分が出会す他人の分岐点でその人の行先を良い方向に変えるよう介入することは決して容易いことではない、その困難さ、それを許さない世界の残酷さ醜悪さもMIU404は容赦なく描く。それでも信じ抜きたい。それでも、人は誰かを変えられると願いたい。それは他人の可能性を信じるということであり、自分の可能性を信じるということだ。

まるで運命のように、MIU404のキャラクターネームは自らサガを象徴するやうになっているが、名前がその人の全てを表すわけではない。名前が象徴するそれとは違う一面を、人は人との出逢いによって、人生の過程によって、いくらでも変わることができる。運命は変えられる。

そういう経緯がもし脚本にあるのであれば、ラスボスとなるであろう菅田将暉演じる久住が、自分の可能性も他人の可能性も何一つ信じず、名前の意味を自分で説明して、自分の生き様を一義的に規定したあのシーンがとてもしっくり来るのであった。

あと、書いてて気づいたんだけど、蒲郡さんのネーミング全然わからんと思ってたんですけど、ダジャレじゃなくて「どこにも引き返すタイミングも見当たらないまま復讐に死ぬまで取り憑かれた男」銭ゲバ蒲郡風太郎のオマージュだったら割と納得いくな。

以上です。