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あなたは言葉で、他人をどう変えたいか、自分をどう変えたいか

相変わらず平時どおり騒がしく世の中は続いており、やはり僕においてはインターネット特にはSNSを通して世界を見ている時間が長く、インターネットを通して世界に今どのような運動力学が働いているのかを考えることが多いのだが、やっぱり昔に比べて「なんだか今の僕のスマホの中に表示されるテキストたちは少し前よりずいぶん極端だな」と思うことが増えた。それはつまりどういうことなんだとうだうだにゃんにゃんと考えていたのだが、なんかそれについての現段階での暫定的に思っていることをしたたたためておくこととする。なんか、た多いな。えーと、たぬき!たぬき!しめておくこととする。締めちゃった!締めちゃった!あ、えーと、締めちゃっ!

ある物事や考え方、価値観についての態度とはいったいどのように分類できるだろうか。僕が最近考えていたのは以下のようなグラデーションだ。

 

積極的否定

消極的否定

消極的受容

積極的受容

消極的肯定

積極的肯定

 

人によっては「消極的受容と積極的受容のあいだに中立があるぞ!」とかあるかもしれないが、すべてはグラデーションで例えば僕の中にも「◯◯について僕の立場は、消極的否定と消極的受容のあいだで、限りなく消極的受容に近いのだが否定したい部分が残るので、完全な消極的受容とは言えないな」とかがあったりする。まあ、世の中の何かしらに対する態度については、ほかの評価軸というものももちろん色々あるだろうが、このグラデーションの中で一旦言い表すことができる気がする。

さて、問題は世の中に蔓延るさまざまな問題に対して、私は、あなたは、どのような態度をとっていたいか、どのような態度で臨むことが世の中をマシにするかということだ。

もちろんいずれもの立場の人が必要であることは間違いないが、要はバランスの問題であったりもする。理想を言えば少なくとも均等に分布していればいいなぁと思う。全くの均等を望むのは無理があるし、あるいは本当にこれが全くの均等だと世界はフェアネスが程遠いかなとはもちろん思う。フェアネスはマジョリティによって保たれた均衡がマイノリティの活動によって破られた時に前進するものなのだろうと思うし、そのためにも一定の偏りは常に求められて然るべきだろう。しかしそれもまた、危うくシビアな均衡がまずそこにあって、「この均衡を崩さなくてはならない」というマイノリティとマイノリティに共感するマジョリティの不断の意思によって初めて成されるものなのだろうと考える。

つまり、「世の中をマシにするために私はどのような態度を取るべきか」を考えたところで、「私」は「世界」のごくごく一部であるに過ぎないのだから「世の中」全体のバランスを見て、飛び込むべきところに飛び込むべきが個々人が考えるべきが本来なのだろうと考えたりもする。これ自体に異論がある人もいるだろうが、差し当たって僕はそのように考えている。

というように考えた時に僕が現状のインターネットを中心とした万人に開かれた言論の場において気になるのは、中間層の不在あるいは矮小化である。これはもう、思想のドーナツ化現象と呼んじゃってもいい。

消極的許容、積極的許容に位置する言論の立場が今、極めて弱いな、と思う。もちろん、その場で踏みとどまっている人もたくさん見かけるのだが、それは踏みとどまっているに過ぎず、いまいち求心力にはなってはおらず、自分を、あるいは同じ許容の立場に留まる同胞を引き留めようとしているに過ぎないのが現状だと考える。

その外側にはある物事に消極的賛成の立場を取る人間と、消極的否定の立場を取る人間がいて、彼らは踏みとどまることができない嵐の只中にいる。自分と反対の立場の否定派だか肯定派だかの言葉に目移りするか、より強固に今の肯定否定の立場を自覚して実践するかのどちらかを迫られているように見える。

更にその外側の積極的肯定派、積極的否定派は言わずもがな、彼らは自分の内側の同心円にいる同胞にこっちの水は甘いぞと手招きしている。

これが、今の僕に見える世の中の運動力学だ。

この構造がどのように成り立ってしまっているのかと考えると、タイトルに戻る。今、巷に溢れる言葉や、思想や、主張は、いったいどこの層に向けられていて、どの層への転換を促そうとしているのだろうか。

あなたは言葉で、他人をどう変えたいか、自分をどう変えたいか。

20年と少し前から、インターネットには数多の「誰かを変えるための言葉」が放流されてきたしそれはしばしばあるいは概ね「自分を変えるための言葉」であったと思う。おれがこれまで綴ってきた言葉だって全部そうさ。それらの言葉が望む、促そうとする変化は、きっと最初は些細なものであったと思う。

「こんな俺でも、別にいいよな」「こんな俺に共感するあんただって、いてもいいんだ」

それらの言葉は、積極的自己否定あるいは消極的自己否定を、消極的自己受容に促す旨が多かったんじゃないかと思う。あるいはそれは、書き手の謙虚さに寄るものではなくとも、インターネットに放流される言葉の力は、実に実にささやかであったことに起因するのかもしれない。世の中も他人も変えられないし、それでも自分と自分と同じ奴くらいなら変えられるような、それくらいのものなら書けるかもしれないなんてムードがそこにはあったように思う(もちろん、どうせ世界の片隅だし、って調子の暴論もあったし、それは先日の深夜ラジオの炎上に通じるものがある)。

それからいつの間にか時は流れて、インターネットというものは随分と大衆化して、誰もが自分と近しい立場の人間を数として意識できるようになっていった。その過程からどっかが変わっていったように思っている。

端的に言えば、積極的なら消極的なりの自己否定を、許容のあいだをすっ飛ばして、積極的なり消極的なりの自己肯定に促すような言葉こそが力を持つようになっていった。

インターネットを介して放たれた言葉が世界に届く可能性が見えたのをきっかけに、「私がダメだと思ってたけど、世界の方がダメなんじゃないか」みたいな言葉が大きな支持を得るようになっていった。これは、他者否定を伴う自己肯定だ。プロセスを踏まずに自己否定から自己肯定まで飛び越えるには、必然他者否定が伴うこととなる。もちろんこれ自体は悪いことでは全然ないんだと思う。インターネットの前進だろうとは思う。しかしその変化の過程はあまりに拙速で、結果として、真ん中の「許容」のあり方を考えようとするエリアにはぽっかりと穴が空いてしまった。

きっと今本当に世の中に必要な言葉は消極否定や消極的肯定を、消極的受容に近づける言葉なんだろうと思う。自らを肯定するために他者を否定することに躊躇いがない言葉が多すぎる。溢れかえっている。

真ん中が本当に空洞になってしまったら、遠心分離のように、あるいはベイブレードのように、最後は全てが外側に押し出されて、分断が加速するのだろうと思う。

だから、なんだろうな。最近はさ、「そんなあなたを否定しなくていいよ、こっちにおいでよ」って言葉がすごく多いじゃん。それ自体は悪いことじゃないはずなんだけどさ、それで「あ、それでいいんだ」って思った人たちがさ、どんどん先鋭化していくじゃん。その外側にもっとえげつない「こっちにおいでよ」があるからさ。たくさん見てきた。

それでいいのかって思うんだよな。グラデーションの中で遊びたいじゃんか、みんな黒いとか白いとかにこだわり過ぎてて、なんか、最近、つまんねーんだよなー。

以上です。