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コロナ禍日記に

息子の髪を切る用のちっちぇえ梳きバサミが家にあったのでテキトーに髪をめちゃめちゃに切った。なんの計画性もなくざくざくと切りまくってやった。右の方が長いなと思えば左側に更にハサミを入れて左が短くなりすぎたと思ったら右に再びハサミを入れるなんてことを無軌道に繰り返しやっているとだいぶサッパリはしたものの全体的に短いところと側頭部は左右ともに長いところ短いところがまだらで完全にカラスの大切にしてるとてもピカピカ光る何かを奪おうとして失敗した人みたいになってしまった。髪を切るのに失敗した結果の比喩に失敗した人を登場させる必要ってあるのか。しかし正面から見ればなんとなくイケてる感じではあるのでどうせZOOMでしか人と会う予定はないし、まぁいっか。俺の頭を叩けばきっと文明開化の音がする。3オクターブは出る。

2年くらい前からもういい歳のおっさんだし美容院じゃなくて床屋でいいだろとなって、とぼけたマスターが切ってくれる同じ店にずっと月一のペースで通っていた。初めて行って髪を切り終えた時に「なんか(ワックスとか)つける?」って聞いてきたので「じゃあ、なんかつけてください」と答えると、「犬用のリボンでええかな?」と言ってくるので「じゃあ三つ編みにしてください」と乗っかりボケをしてやったらそれがマスター的に大層愉快だったらしく、その後このやりとりが恒例になってしまった。たとえば12月ならマスターが「そういやクリスマスツリーの電飾余ってたと思うわ」と言うので僕が「ほんならちっちゃい靴下のイヤリングも頼みますわ」と返す。そんなやりとりを月一で繰り返していた。

最後にその店に行ったのは3月の最初の土曜日で髪を切ってもらっている最中も新型コロナの情勢について言葉通りの床屋談義を世間話に、切り終わった時には「なんかつける?」に対してもはや俺が食い気味で「じゃあ五人囃子乗せてください」と返答していたが、会計を終わらせた後にマスターは「ほなら、また1ヶ月後にお互い生きて会おうや」と言って僕を送り出してくれた。

4月を前に志村けんが死に緊急事態宣言が発動して自粛ムードが加速して俺の仕事も完全リモートワークに移行した。別に新型コロナにかかってしまったって死にゃあしないだろうと高を括っていることには今でも変わりはないが、必要最低限の外出しかしてないならまだしも心当たりがあってはなんとなく間抜けで後悔が残るような気がして、むしろ床屋に行った後に感染が発覚してしまってはわからんけど保健所やらなんやらがその床屋にやってきて逆に迷惑をかけてしまうのではないかとも思い、まあ、とどのつまり、マスターの1ヶ月後にまた会おうと言ってくれた約束を俺はぶっちしたのであった。自分で髪を切っている最中もそんなマスターとの最後のやりとりを思い出しては、なんだか申し訳ない気持ちになった。月にたったカットのみ2500円を落とすしょぼい客でしかないのだが、そんな俺みたいな客どもの集積がマスターの生活を支えていたのだろうと考えると、この疫病は人の命を奪う以上に世界にとって大きな爪痕を残すのだろうと改めて実感が湧く。できることならば自分で切り散らかしたぼさぼさの頭で再びお店に行って「なんやこれめちゃめちゃやん」とマスターに悪態を突かれながら整髪してもらい、「なんかつける?」と言われるのに「大きなリボンが似合うポニーテールに結んでください」と返し、「じゃあまた来月も」と挨拶をして別れたいものだが、それがいつになるのかその頃あの店はまだ店として存在しているのか、それはもう誰にもわからない。

義理の父は30年来長らくずっと個人タクシーをやっているのだがこのご時世では商売はもうさっぱり上がったりらしく、早々に営業を畳んでこのコロナ禍を人生の遅れてやってきた夏休みと割り切って毎日を謳歌しているそうだ。「わしはチャンスには弱いがピンチには強いから大丈夫や」と語っていたそうで、いつもはのらりくらりごまかしながらぼんやり生きておいて攻め時になると途端に突然生き生きし始める俺みたいなタイプの人間には到底思いつかないフレーズだなと思い、小心者でセッカチで協調性にやや欠けるが植物や動物や日々のルーチンやを愛でながらマイペースに毎日を生きる義父が言う、だからこその説得力に感心した。

義父はハゲを割り切ってスキンヘッドとして生きる道を選んでおり、いつもシェーバーで頭を整えている。俺が感傷に浸りながら髪を切っている一方で、義父は一切合切がいつもどおりのまま今日も頭にシェーバーを当てているのだろうと思う。

人の多様性とは人類という種があらゆる環境であっても誰かは生き残るようにするための遺伝子の生存戦略なのだろうとは平時からまことしやかに語られていたが、今この状況においてはまんざらなかなか馬鹿にできない論であるよなとしみじみ思う。

それでも誰も彼もまるっとみんな生き残ってはくれまいかと俺に思わせる俺の遺伝子が、今この世界において淘汰されるべき遺伝子かそうでないかは、それもやはりもう誰にもわからない。