←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

最近悲しい交通事故の報道が多い件雑感

僕は「子供を持たない人間にはわからない」とか「同じ親である身だからわかる」みたいな言い回しが兼ねてから大嫌いで、自分が親になった今もそういう言い方は絶対にしたくないと思って生きているのだけれども流石に連日の交通事故うんたらで幼い子供が死んでいるだのの話を耳目にしていると親ならではの感情も湧いてくるところがあってどうしたって如何様にも割り切れない。こんなことが起こらないようにするためにはどうしたらいいんだろうと、自分がその当事者になる可能性が今も僕の横に寄り添っている現実に頭を抱えるばかりだ。

僕は車の免許を持っていない。僕は前世、車に轢かれて死んだんじゃないかと思うくらいに車が嫌いだ。車が無いと生きていけない田舎で育ち、大学から電車の路線の行き届いてる大阪で生きているので、という理由ももちろんあるのだけれど、きっと車の免許を持つことはきっと一生ないだろう。酒が好きなこともあるけれど、車を持つ維持費がかったるいのもあるけれど、どうしたって人の命を簡単に奪えるものに頼って生きるのが嫌なのだ。斧をカウボーイの投げ縄みたいに振り回しながらだったら時速60kmで走れるよ、と言われても誰もそんな危ないことしないでしょう。僕はそういう感覚で元来から車の運転というものをしようと思ったことがない。なので、過分に偏った意見をこれから喋るだろうことは別に隠しもしません。Amazonから届いた荷物を受け取りながら、必要とあらばバスやタクシーにも乗りながら、スーパーで野菜を買いながら、つまりはそれはすべての生きてる人がそうなんだけど、車を運転してる人に助けられながら生きつつ俺は車を運転したくないと言って生きているずるい人間の文章を今読んでいるのがあなたです。

車は便利です。それは間違いがない。この便利なしには最早誰も生きられません、それくらいに便利です。その便利を手放せって言ったって難しいだろうなと思う。

一方でやるせない事故が起きる。車なんて無くなっちゃえと思ってしまうような、やるせない事故が起きる。普段こんなこと言いたかねえけど、子を持つ親として、決して失いたくない伴侶を持つ身として、どうにもこうにもやるせないただただ悲しい事件が時たま立て続けに起こっているように感じられる昨今です。妻子を失った遺族の会見の動画を見れば我がごとだったことを想像し、涙も流れます。この涙には「俺じゃなくてよかった」という安心の成分もいくらか何パーセントかは含まれてるような気がしてほとほと自分が嫌にもなります。そう思わせるのはやはり、車が世の中に必要で自分自身も自分が運転しないにせよ車の恩恵を受けて生きていることなのかなとも思います。

来週あたり、田舎の実家に帰ろうかなと思っています。家族を連れて。向こうは車が無いとまさに読んで字のごとく車が無いと生きていけない世界なので、僕はもともとの家族に運転をお願いするでしょう。そうしなければ何もままならない。僕自身は車を運転しないけど、僕は車がなければ何もままならないという意味で、結局車社会に加担している。僕の家族も、僕の故郷も、勿論同然に車がなければままならない。それは本当に日本人ほぼ全員がそうなんだろうと思う。

交通事故で悲しい人死にが出ると、そりゃあみんな怒る。人が死ぬのは悲しい。本当に悲しい。どうしてこんなことになってしまったんだろう、どうすればこんなことにはならなかったんだろうとみんなそれだけで頭がいっぱいになる。考える。年寄りの免許返納を義務付けようとか、自動運転を導入しようとか、誰も死なせたいために優しく優しく唾を吐き散らしながら叫ぶ。気持ちはわかる。

一体どうすればいいんだろうな、と思う。

そんなことができれば最高だなとはおもう。いや、本当におもうかな、よくわからない。

車は要る。車は人を殺す。

車は乗れるやつが乗れ。車で人を殺すかもしれない奴は乗るな。

歪な二元論だと思う。車を運転せずに車の恩恵を受けて頼んだ翌日にAmazonからの配達を受け取る僕は、それが歪であるということを車を運転する人よりいくらかは知っていると思う。そのうえで僕は人を殺す車に何を言えばいいだろうかと考えたいなと思っている。

思いつきで喋れば、ガードレールがあったら良かったなと思った。大津の事故に関しては。

ただ勿論、あまねく歩道脇にガードレールなんてつけることは予算的にできないだろうから、本当にやばそうな場所にだけつけることはできないのかなとか思った。AIがこれだけ発達してて、グーグルはマピオンの力を借りていたらしけれどある程度の地図情報はどこかにはある。それら二つに過去の事故の情報を当ててやったら「ガードレールがあったら、、、と思えてしまう事故が起こりそうな場所」を洗い出してそこにガードレールを優先的に設置しようとすることはできないだろうか、とか。

あとは、僕が子供の頃は大人はみんな飲酒運転してました、めちゃめちゃふつうにみんなしてました。飲酒運転をしてはいけない空気はここ20年で本当に浸透したなと思います。それと同じように、もう少し人を殺すかもしれない運転を抑制できないものかなとかは思います。極端な話、田舎の車しか通らない山道とかは置いといて人がいるところでは30km以上は禁止で見つかったら厳罰なとかできないんでしょうか。飲酒運転がこんなに許されない世の中になるとは思ってなかった身としては、やってやれんことはないだろうと思ってしまいます。時間はそりゃかかるかもしれないけど。

上にあげたのは僕の思いつきのほんの一例です。しかし僕は本気で、そんなことを考えます。車を一律に禁止にはできない世の中で、車が一人でも多くの人を殺さない世界はどうなんだろうと想像します。

そう考える僕にはやっぱりインターネットは少し不思議に見えます。みんな僕のように考えているとは思えない。殺したやつを苦しめたいとか、殺すかもしれない奴は車を運転するなとか。前者はそんなことしたって死んだ人は帰ってこないし、後者は誰が運転する車だった誰かを殺し得る。

車で人が死ぬのは本当に悲しい。本当にゼロまで減って欲しいと思う。そのために必要なのは果たして本当に怒りや蔑みだろうか。僕は車を毛嫌いしているので、先に挙げたような馬鹿で極端な案しか出ない。だからもっと多くの人が、交通事故に嘆き怒り誰かを責めるよりも前に、そんなことが起こらない方法を考えてくれるようになってくれればいいのになと思う。

理不尽の前に人は無力だ。できることが少ないことに心を痛めることは誰も変わりがない。そこで無力に任せて嘆くより前に、それでもできることを探す人間でありたい。願わくばそういう人が少なくない世界に僕は生きたい。そのために僕はやはりただ嘆くより先に、人を信じて人を動かすなにかの言葉を探したい。

誰も死にたくないし死なせたくない。シンプルな価値観を本当に共有したい。できるはずだと思う。みんな悲しんでいるんだと思う。そこに嘘はないんだと思う。

以上です。