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清の三円

夏目漱石の作品に『坊っちゃん』というタイトルのものがある、と書くのも馬鹿馬鹿しいくらい有名な作品なんだけど、そういう作品があって、僕はその小説が案外すごく好きなんだ、という話。

坊っちゃん』は今でいう金八先生とかGTOとかの走りも走りで、とある片田舎に赴任した若い江戸っ子教師の冒険譚を描いた痛快活劇的小説だ。

主人公で教師の「坊っちゃん」は、【親譲りの無鉄砲で子供の時からいつも損ばかりしている】。直情型の気質で怒ったら怒ったに任せ、理不尽には腹を立て、納得いかないものには絶対に納得がいかないし、媚びないし、へこたれないし、いつだってまっすぐだ。こんな古いジャンプの主人公みたいな男が100年も前に活き活きと描かれていたということを考えるだけで俺は涙が出そうだ。俺が憧れるような男というのは100年も前からみなに憧れられていた。憧れられるということは「みなそうできるわけではない」ということだ。今僕が「みなそうできるわけではない」と憧れる男が100年前も「みなそうできるわけではない」と憧れられていて、つまり今も昔も人は「本当は俺だってこうやれたらいいのにな」と思っていて、しかしなかなかそうはできなくて、それでもやっぱ憧れは憧れで、そんなことができるスターが憧れられていたっていうのは俺にとって、なんつーか希望なのだ。人間は「俺にしかわからない、他人にはわかりっこないこと」も嬉しいし「俺だけじゃなくてみんな思ってたんだ」ってことも嬉しいし、それでいうと「坊っちゃん」は後者だ。

しかし、それは枝葉の話で、僕が『坊っちゃん』という話が好きなのは坊っちゃんがどうしてそんな坊っちゃんでいられるかという理由が、坊っちゃんの家の女中であった「清」という婆さんに集約されているところにある。

坊っちゃんはなにせ気難しく人を寄せ付けずときには馬鹿にもされ、つまりはまっすぐすぎるゆえにめんどくさい人間であった。それでも坊っちゃんが変にひねくれることもなく自分を変えなくてはならないのかと自分を疑うこともなく、100年先まで人に憧れさせるまっすぐな人間でい続けられたのかというと、それはほかでもない清という女中の存在があったからだ。

清は坊っちゃんを子供のころからそれはそれは坊っちゃんのことをよく褒めた。あなたは大した人だ立派な人だと坊っちゃんのことを褒め続けた。坊っちゃんはそれを最初疑いながらもじょじょにそうなのかそうなのかもなと思うようになった。いや、少し違うな、清は俺のことをそう思ってくれているのだから、俺はこのままでいいんだな、このままでいなくてはならんのだな、清をがっかりさせてはいけないなと思うようになった。小説は坊っちゃんの一人称で語られるが、いつも思い出したように清との思い出が挿入される。そう、仰々しくは語られない。ただ、坊っちゃんがその坊っちゃんらしさゆえに面倒を引き起こして腹の立つ出来事に遭遇して坊っちゃん坊っちゃんらしさが悪い意味で生活のなかに表れたときに(そうなってしまうのはいっつもなのだが)坊っちゃんはいつも清のことを思い出す。

俺にはそれが堪らないんだ。

俺はこのままでいいんだろうか、俺はこのまま俺らしくいられるだろうか。そんなことを考えたときに清のことを真っ先に思い出す、清という人との思い出を持つ坊っちゃんのことを羨ましく思うやら、俺にも清のような人物がいるんじゃなかったかと我が身を振り返るやら、本当に堪らない気持ちになる。

坊っちゃんはなにかのときに清に三円を借りた。坊っちゃんはなにかあるたびに清に三円をいつか返さなくてはならないと思い返す。

僕は坊っちゃんがいつも坊っちゃんらしく気難しく逞しく真っ直ぐに坊っちゃんらしく生きていられた理由は結局はこの清の三円があるからなのだろうと想像する。

坊っちゃんは清に三円を返さなくてはならない。いつか坊っちゃんはまた清に会いたいと思っている。会うだろうと思っている。会わなくてはならないと思っている。清は坊っちゃんをいつも褒めてくれていた。坊っちゃんは立派な人だと褒めてくれていた。坊っちゃんはいつか再び清と会う。だから坊っちゃんはそのときも清ががっかりしない昔のままの坊っちゃんでいなくてはならないと思っていたのではないかと、俺はそんなふうに思うんだ。あのとびっきりにかっこいい坊っちゃんは、もちろん坊っちゃん自身のためでもあったのだろうが、清のためにかっこよくあらねばならなかったんじゃないかと思う。どんなにかっこいい奴だって、そういう人がいて初めて、そのままでいれるんじゃないかとも思うんだ。

夏目漱石というのは、他の作品を見ればわかるとおり、それはそれはうじうじした人間だ。あの立派な口ひげをたくわえた彼は初対面の人にあうたび「この口ひげは私が自分でとても気にしているほくろを隠すためにたくわえているわけではないんですよ」と話したという。なんと女々ったらしい人間だろう。そんな人間が『坊っちゃん』を書いて、「坊っちゃん」を描いて、坊っちゃんの心のいつもすぐ横に「清」を置いた。俺にはなんだか漱石が「俺にも清のような存在がいれば、俺だってもう少しくらいは格好良く生きられたのにな」と言っているように聞こえて、俺だってそうだよと思い、俺だってそうでなければならないと思うんだ。

坊っちゃんは清から借りた三円を思い出すたびに「俺は何も間違っていない」「俺はここで自分を曲げてしまっては清を嘘つきにしてしまう」とかそんなことを考えていたんじゃないかと俺は思う。そして俺もそういうふうに生きなくてはならないと思う。一人では思うように格好良くは生きれない。自分はそんな人間ではない。いつも人に煙たがられてばかりだ。それでも俺は思うんだ。

俺も坊っちゃんのように。坊っちゃんのように清から三円を借りることさえできれば。

だから僕の人生というのは端的に言って、清の三円を方方から借りて回る人生だ。僕がひとつ誰かを助ければ、僕はその人から清の三円を借りている。僕はその清の三円を次に会ったときに返さなくてはならない。その時その人を助けたときと同じようにあっけらかんなまま。僕が誰かを一つ慰めれば、僕はその人から清の三円を借りている。僕はいつかその人にその時と同じ優しさを持ってその清の三円を返さなくてはならない。僕が誰かのために怒った時、僕はその人から清の三円を借りている。やはりその清の三円はいつか返さなくてはならない。その時も怒るべきものに怒れる誠実さを持ったまま。

結局そういうふうにしか僕だって坊っちゃんだって、かっこよくは生きられないんじゃないかと最近は考える。かっこよく生きたいのもまた、清がそう言ってくれたからだ。自分にとっての清がなんなのかはよくわからない。親だと言い切れれば多少は歯切れがいいがどうもそう言い切れる気がしない。もう返すことができない清の三円を僕はたくさんたくさんいろいろな人から借り抱え込んでいる気がする。清は、坊っちゃんが来るのを待つから坊っちゃんの墓に入れてくれと言い残して死んでいった。僕もきっと、一緒の墓ではないにしろ、死んでから清の三円を返さなくてはならない人たちがきっとたくさんたくさんいるんだろうと想像する。そのときに清をがっかりさせないためにも、俺はなるだけ坊っちゃんのように、かっこよく生きていたいのだと思う。

しかしそんな生き方を実践するためにもやっぱり他人の助けが必要で、そういうふうに僕はまた清の三円を今日もまた誰かから借りる。誰かから信頼される。「あなたは立派な人だ」と言われる。ごめんなさい、僕はそんな人間ではありません。僕は坊っちゃんのようにはなれない。だけど、あなたを嘘つきなんかにはしたくない。だから僕はあなたから受け取った清の三円を握りしめ、いつか返すその日を思いながら、今日も強がって向こう見ずに生きていけるのだ。

以上です。