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はじめての再現性

間も無く一歳を迎えようというタイミングで、また息子が入院をしていた。2ヶ月ぶり2回目。

入院理由が命に影響がないものであったことももちろんあるが、我々夫婦はたぶんやや呑気であった。入院ももう2回目だからである。前回と同じ、勝手知ったる病院だ。だから付添い入院の準備も前回に比べりゃお手の物だし、退院までの夫婦での役割分担もお手の物だ。今回は、暗中模索ではないので、大変は大変なものの、前回に比べりゃ幾らかは、どうってことないもんだった。とは言え、結婚してしばらく漸く授かった我が子だ。手放して堪るものかと思うのは、しばらくも漸くもなく自然なことであろうし、「またいつものことだろう」という楽観と「もし何かあったら」という危機感とを、我々はこれからも何度も何度も往復してゆくことだろう。

さて、その入院中の息子はというと、2ヶ月ぶり2度目の入院で、私たちに随分な成長を見せつけた。1畳ほどの柵つきのベッドにおける彼の振る舞いには目に余るものがあった。前回の入院時は掴まり立ちでナースコールのボタンをむんずと掴み押してのけたのも一つの成長だと微笑ましく思えたものだが、今回の彼にはどうしたって手が届く範囲にナースコールを置いてやってはいけない。カーテンも点滴器具もなるだけ遠ざけてやらなくてはならない。そうしなければ要らん迷惑を看護師さんにかけてしまう。

たった2ヶ月のあいだに彼の機動力はトントン紙相撲からベイブレードくらいまでレベルアップしていた。

そのなかで取り分け私たち夫婦が驚いたのは、前回の入院時にはお気に入りのおもちゃを四六時中握りしめて入院生活のストレスに立ち向かっていた彼が、今回の入院生活では自分の手の中にあるものを手放し、床に落として喜ぶ遊びに興じていたことだった。

何をしなくてはならないでもなく四方を落下防止の柵に囲まれたベッドの中で療養を迫られる彼は、所在なさげにベッドの中に転がっている絵本をむんずと掴むと、柵の隙間から絵本ごと手を突き出し徐にパッと手を離して絵本を床に落としては微笑むのであった。

その仕草を、落とすものがある限りに、何度も何度も繰り返す。何度も何度も微笑む彼なのだ。

そうか、彼は、重力を知った。いつだって上から下に物が落ちていく、永遠普遍の重力を、知ったのだ。

自分の思った通りに事が運ぶのは、さぞ面白かろう。

彼はその面白さを今ここで、初めて知ったのだろう。

我々両親はそんな我が子の新たな発見と成長を喜びながら、息子の2回目の入院を、今回も大丈夫だろうと思いながら、今回も大丈夫でありますようにと思いながら、彼の横にいるのである。

彼が何を何度とも手放そうとも、彼の手から離れたそれは、下に落ちる。彼はそれを面白がり、はにかむ。

私たちはそれを見てはにかみ、明日も彼の成長を見守りたいと願う。

彼の初めての再現性を、明日も見守りたいと思う。

何度繰り返しても何度も同じ事が起こる。

再現性は、永遠であり、奇跡だ。

物理法則は、永遠であり、奇跡だが、私たち人間は、そうではない。

私はそれを知っている。彼はそれを知らない。

初めてに再現性と出会った彼ははにかみ、何度も何度も柵の隙間から何かを落とす。私はそれが永遠には続かないと知っている。いつだって物は上から下に落ちるが、彼がいつまでも物を落とし続けないことを知っている。入院した人が必ず元気に退院できるわけではないことを知っている。昨日笑っていた人が、明日動かなくなっているかもしれないことを知っている。彼はまだそれを知らない。知らないから笑っていられる彼を見て、僕はただ一緒に笑うばかりだった。

彼ははじめて再現性と出会った。僕は再現性なんてものがほとんど人生の希望にならないことを知っている。いつも人生に起こることは、少し前に起こったこととは、いつも大抵似つかない。彼はそれを知らない。僕はそれを知っている。それでも僕は、再現性を知った彼を面白く思うし、また明日に対して身構えるより仕方がないのであった。