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小学校がラノベを禁止しても、小学校ってそういう場所でしょとしか思わん

読んでなんか思ったことテキトーに書きます。

まず、僕たぶん学校に期待してないからなんだけど、学校が「それは学校ではしては駄目です」って言うことに実はそんなにむかつかないんすよね。「それには絶対価値がない、お前らもそう心掛けよ」みたいなとこまでいくとまぁどうかなとは思うんだけど、「学校では駄目です、学校はそういうことする場所じゃないです」くらいは多少理不尽でも別にいいんじゃないのって思ってる節がある。いや、実際そういう学校側の言い分に糞むかつくことは今でも多々あるんだけども、むかつく部分も含めて学校じゃん的な。プロレス的な話でもあるんですけど。

この話は僕が誰だかから聞いて「俺もそう思う~」って思った話なのでつまりは受け売りなんですけど、なんか子供が混乱しないようにお父さんとお母さん、あとはおじいちゃんとかおばあちゃん、みんなが同じテーマの設問に同じように答えられるように口裏合わせておきましょうね、みたいなことをどこだかの教育評論家だかが言ってたそうなんですね。で、それはおかしいだろって話を僕は誰かにされて、僕は全くもってその通り、そんな話はおかしいと思った。僕は教育なんてやつは「みんなてめえの都合で好き勝手めちゃくちゃ言ってらぁ、こいつらの言ってることは当てにならねえから自分で考えなきゃ仕方ねえな」と子供に思わせるのが良い教育だと思ってる節があります。自分以外を世界という一つの総体だと考えると世界はいかにも理不尽ですが、世界を自分と同じようないちプレイヤーに過ぎない人たちの集合体と考えれば、それは理不尽ではなくある種の必然になります。お父さんの言ってることとお母さんの言ってることが違うのは当たり前であり、それは矛盾を内在する世界ではなく、ただのお父さんとお母さんと僕です。そういう風に肌で感じさせることが子供相手では大事なんじゃないかな、とか僕は思うんですけど。

って考えた時に「読書時間にラノベ読んじゃいけません」くらいは別にいいんじゃないのとは思ったんですよね。そんなにラノベ読みたきゃ読書時間外に隠れて読めばいいし、そこまでして読みたくないならそれは読まなくて良いやつなんでしょう。僕は漫画読むなって言われても隠れて読んでたし、もっと言えば本ばっか読むなって言われても本ばっか読んでたやつだっていたしなぁ。で、じゃあ読書時間は純文学とまでは言わずとも、学校の推薦するような本を読みなさいっていうのもどうなんだって話だと思うんだけど、それもまぁ適度に難しい本を読みなさいってことなんだろうと思う。別にそれは貴賎とか高尚低俗とかいう話ではないにしたって、取っ付き易い・取っ付き難いってのはあるんだろうなとは思うんです。そこはだって、作ってる側がわかって調整してるでしょ、と思うし。せっかく学校にはある程度強制する権限があるんだから、どうせなら取っ付き難い方へ頑張ってみなさいってのは自然なのかな、とか最近は思うようになってきた。

無理に本を読ませたって本が嫌いになるだけだから学校で本を読ませようとするなんておやめなさいって人もいるようだけど、学校での読書が嫌いだろうと読みたいやつはどっかで読むようになるし、読まないやつは学校でそつなく読んでたとしても読めと言われなくなれば読まなくなるし、いわゆる学校での読書がつまらなかったみたいなトラウマの話ってどちらかというと免罪符的な話であって、どのみち読まないやつは学校が強制せずとも読まないのであってむしろ学校のせいという言い訳もできずより卑屈な本を読まない人にしかならないような気もする(それが悪いこととも全く思わないけど)。「ああ、俺って本嫌いだわ」と体験できたらそれはそれで読まされなきゃ気付けなかったことでもある。

あと、なんかすげえ覚えてるんだけど、小学校の時に友達のなんとか君の家でファミコンのマリオ3をしてたんだけど、そいつ、ステージ1をクリアしたらリセットしてステージ1をもう一回やるの。ステージ2は難しくてすぐ死ぬから、クリアできるステージ1を何回も遊びたがるの。子供ながらに「こいつ相容れねえ~」って思ったけど、朝の読書時間でラノベやめときましょうってのはそういうの防止ってのもあるんじゃないのって気はする。ステージ1だけ何回も遊ぶのは別に個人の自由だよ、俺超なんだこいつって思ったけど、それは俺が思っただけだから。別にいいんだけど、ただそういうプレイを推奨する理由はないよね、ラノベ読むのは自由だけど、今はステージ2にチャレンジする時間だから、くらいは言っていいんじゃないの。繰り返すにそれはラノベとその他の小説の貴賎とか高尚低俗とかに差があるって話ではなくって、読むのが簡単なものを強制しても強制にならないから、強制し甲斐のあるものを読んでくれって話なだけのような気もする。

小学何年生の時か忘れたけれど、夏休みの読書感想文で指定図書の一つであったエジソンの伝記みたいなのを読むことにしたんだけど、これが超つまんなくて、もういいやと思って漫画伝記シリーズのエジソンを読んでテキトーに書いたんですけど、それがまさかバレたんですよね。お前読んでないだろって先生に怒られたんですよ。小学生で「同じ人物について語っていたとしても本によって書いてる内容は違う」って生感覚で知れたのはよかったですよね。それは、ちゃんと活字の本だけでエジソンを読むだけでは辿り着けなかった真実ですよね。「本によって言ってることが違う」ってのもある意味、学ぶべき理不尽ですしね、本が嫌いな俺にも本を読めという学校はそんな理不尽を教えてくれたわけで。今でも本読むのも文章書くのも大の苦手で、学校は大嫌いだけれど、学校が理不尽がなくて俺にとって都合の良い居心地の良い場所であって欲しいみたいな願望があるかと聞かれると、別にそれはそれで全然ないんだよなぁ。

学校は簡単に何かを否定したり制限をかけたりするのはやめれともそこまで強く思わないのは、単純に学校ごときが否定したり制限をかけたりしたところでその対象の価値はもっとも損なわれないと思う程度に学校というものをナメてるからで、そりゃ言論統制とかは怖いけど、基本的に「うるせバーカ」で良い気はしている。そうやって撥ね付けるんじゃなしに学校の在り方を過剰にコントロールしようとする態度って結局学校の言うことは絶対なんだ、だからその言うことには目を光らせねばってふうに思えて、そんな大したもんじゃねえだろ学校なんか、と思うんだけど。以上です。

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