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気にしすぎな人に必要なのは「気にしすぎ」という言葉ではなく「気にしなくていい」という物語

閲覧注意!! このエントリにはあのドラえもんが帰ったと思ったら帰ってくるやつ、実はのび太ドラえもんを発明したとかじゃない正規版の最終回(でもそのあと復活する)やつのネタバレが含まれています!! ネタバレが嫌いな方はブラウザの更新ボタンを連打してはてなを落として。はてなからこの村を救って欲しいの。

そういうわけでほとんどネタバレはしきってますけどね。し終えてますけど。し果せてますけども。

話は掲題の通りです。例えば僕なんかけっこうな心配性で、嫁さんとかが海外旅行に行く時なんかけっこう気が気じゃなくて不安で不安で引き裂かれそうになるし、なんか酒とか飲みながら一人であのワニが虫歯触られると噛み付くオモチャあるじゃないですか。あれの上の歯に辛子をたっぷり塗って右の手の甲にカッターでちゃちゃっと切り込み入れてから一人でプレイするとスリルが半端なくて超楽しいんですけど、そういう一人の楽しい時間でもふっと「もしも今この瞬間に海外にいる嫁が何か事故や事件に巻き込まれてたらどうしよう、もしこの瞬間に既に嫁がこの世にいなかったとしたら俺はこの時間を楽しんで過ごしていたことを一生後悔するんじゃないか」とか考えちゃって、そうしたらもう全然楽しめないですよね。辛子が傷口に触れるかもしれないという極限状態のなかでワニの歯を治すゲーム全然楽しめないわけです。

人はそんな俺こと僕のことを「気にしすぎ」と言います。嫁すら言います。まぁ、そうなんでしょう。人間どこにいたって死ぬ時は死ぬ。海外に日本人が出向いたからってそんなサルゲッチュのピポザル感覚で外人みんなが日本人を追いかけ回すわけじゃない。頭ではわかってる。わかってるけどさ~~~~~~~~~。

結局こんなん、気分とか感情とかの問題なわけです。そして、気分とか感情とかの問題のなかには、決して一人では解決できない問題ってのがあるんです。それが今でしょ。結局あなたのなかでは「気にしすぎ」な「気にするに足らない」話であったとしても、現に私は気にしてるし、その気持ちを無視して蔑ろにされたら、私はどんどん未来を恐れるし、そうなるとどんな些細なトラブルの原因も過去に因果を求めてしまうし、まぁうまくいくわけがないんですよ。

気にしすぎな人に必要なのは「気にしすぎ」という言葉ではない。「気にしなくていい」という物語だ。

何かをものすごく気にしている人に対して「気にしすぎ」と言って一体何になりますか。その一言で「そっか、じゃあ気にするのをやめてワニワニパニックに戻ろう」って言ってこんにゃくステーキみたいな手の甲をワニの口に差し込めると思いますか。できませんよ。何言ってんだコイツ、ですよ。それだけ言われたって「お前が気にしなさすぎだよ」としかなりません。それはあなたが私に思っている態度とビタイチ変わりません。ではどうするか。

物語です。対話です。一塊の論理ではない、時間軸と共に積み重ねられるイメージの集合です。

例えば僕は、なんのかの言いつつ、嫁を海外旅行に数度送り出してるわけですが、その過程にはそりゃあ多くの対話がそこにはありました。もちろん、いくら二人が話したことで、海外で事故や事件に出くわす確率は良くも悪くも変わりません。(僕からすると)嫁が思っているほど低くなることはないし、(嫁からすると)僕が思っているほど高くなることもありません。実質的に、この対話という物語をいくら重ねたところで、嫁が無事に帰ってくる確率というのは露ほども変わりません。と、便宜上書いているものの、僕の中ではすげえ変わる。「だいじょぶだいじょぶ、夜はホテルから出ないから」という嫁に「絶対にやめて欲しいからね」と僕が言うことで僕の中では随分変わる。僕の中でだけだが。

ドラえもんだけではありません。ここで急遽ジョジョの話もすることにしました。「納得はすべてに優先する」という言葉がジョジョの何部だかで出てきます。僕はこの言葉が好きであると同時にマジで心の底からそう思っているので、納得しないことには納得できないのです。それは例えば今してる話でいうと「絶対に大丈夫なんだな」という納得ではありません。絶対なんてこの世にはないんだってことはタモリとかSMAPとか天皇とかこち亀が教えてくれました最近。僕が欲しい納得は「わかった、それでも君は行きたいんだね、じゃあ僕は君を応援するし、君の無事を願うよ」というただそれだけです。

ただ、そんな納得を獲得するのに必要なプロセスというのは人によって結構異なる。何の前置きもなく「了解ちゃんでーす」って納得できる人もいれば僕みたいにそこに至るまでいくつかの言葉が必要になる人もいる。これはもう個人差だから仕方ない。僕は嫁が出発するまでのあいだ事あるごとに心配だと口にしますしそれに嫁は「心配してくれてありがとね、でもね」と言います。大事なのは、こういう対話を幹とした物語だと思うんです。

だってみなさんね、ドラえもんの最終回超泣けるんだよつって突然言われて「ドラえもんが帰るっていうからのび太ジャイアンと一対一で闘って勝つんだよ、それで涙の別れになるんだけど嘘800を飲んだのび太が『ドラえもんはもういないんだ』って言ったから帰ってきてずっと一緒にいない!のび太ドラえもんずっと一緒にいない!俺は芸能界が嫌でロケを抜け出した綾瀬はるかと河川敷で菓子パン食べない!一生!」だけ言われても感動できないでしょ。なんのこっちゃわからんでしょ。言葉で「気にしすぎ」だけ言うのって要するにこういうことなんですよ。必要なのはそういうことじゃない。実際に漫画を手渡してページを一枚一枚繰るような、そんな物語が必要なんですよ。そしてそれはそんな、言うほど難しいことじゃない。ただ、あなたの中での結論が当たり前だと急がず、目の前にいる人間の言うことに耳を傾けることです。手っ取り早く言えば面倒で無駄にも思える時間を割くことです。それだけで、事態はきっと驚くほど好転する。あなたの意見を変える必要すらない。ただ、相手の思っていることを聞き、それに対し自分の思ったことを言い、それをフェアに繰り返すだけで、それはそのうち忽ちのうちに、物語へと変容する。そして物語は、納得の根拠となり、それは人間を強くする。

これ聞いてめんどくせえ~って思った人は仕方ない。立ち去ってくれて一向に構わない。これをめんどくさいと思う人は、僕にとってもまためんどくさい人だから。気になることを、無理して気にしないのはめんどくさくてどうにもストレスだ。心配に思う人が心配する僕を一笑に付すのはいかにも億劫だ。心配を浅慮と断じられては戸惑うほかない。そんな人の心配をするのはほとほと割に合わないのでこちらとしても残念ながら袂を分かつより仕方ない。本当は心配したかったけど、俺には無理だ、できっこない。だから、いちいち話を聞いてやって物語を作ってやるのめんどくせーと思った時は、「気にしすぎ」の一言も言わず、私は私・あなたはあなたの思いだけ胸に秘めて、それすら言わず、何も残さず立ち去ってくれ。それがお互いのためだ。僕の心配を共に和らげてくれなんてワガママは言わないので、「気にしすぎ」なんててめえのものさしを捨て台詞に突き刺して帰るのは勘弁してくれ。出会わない方がよかったなんて思いたくはない。

カッコのついた「決め台詞」で、一言ズドンと自分と同じ価値観に変えてやろうなんて考えはどうしたって傲慢だ。そこに必要なのは物語、イメージの応酬だ。途方もない作業だ。かくしてその果てで僕とあなたはきっと出会う。見たこともない顔をして見たこともない顔に出会う。そんな日を夢見て僕とあなたは同じ空間に立つ。あなたに出会うために。物語を紡ぐために。あなたは私を選べる。僕だってあなたを選べる。二人は、どこへ行くのか。それを物語るも物語らぬもあなた次第だ。あとはそうだな時々僕。以上です。