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「謝らせないと死ぬ病」の人と、ただ謝って欲しい人は別

「謝ったら死ぬ病」なんて言葉があってこの前も話してたわけですけど*1、なんかそれへの意趣返しで「謝らせないと死ぬ病」なんて言葉を思いついて持ち出す人がたまにいたりするんだけどなんかそれ雑じゃねえかみたいな。タラちゃんレベルの気の利いた台詞だなと思って。タラオの言語能力を完全にナメてる前提で言ってますけども。

「聞いてよ、僕がミスターかもめ第三小学校に選ばれたと思って壇上に上がったら実は中島の陰謀で豚の血をぶっかけられたんだ。僕が怒るのはもちろんのことさすがに全校生徒みんなドン引きで、それなのに中島のやつ絶対に謝ろうとしないんだ、あいつが謝ったら死ぬ病だったとは見損なったよ」「あらそれくらいいいじゃないのよカツオ、中島くんもただのオマージュのつもりでやったんでしょ?」「ね、姉さん」「そうだぞ、カツオ、そこで火を出せない非ファイヤースターターのお前が悪い」「と、父さん、キャリーはテレキネシスの使い手でたぶん炎の少女チャーリーとごっちゃになってるよ!」「もうお兄ちゃんったらスティーブン・キングの話になるとうるさいんだから」「ワカメまで」「カツオ兄ちゃん、謝らせないと死ぬ病です~~~」一同「あっはっはっはっはっは!!」って絶対ならないでしょうだって。このカツオ絶対に謝らせないと死ぬ病ではないでしょ。カツオ、俺はお前の味方だぞ、あの作品世界で狂ってないのはお前だけだ。

いや、実際ね、「謝らせないと死ぬ病」と呼んで差し支えない人ってのは世の中おらんこたないですよ、いわゆる「謝ったら死ぬ病」ってのは誰がどうみたってもう謝るより仕方ない社会的に第三者の心象も踏まえてダメージコントロール諸々考えてもごめんなさいするのが最も有効な状況であるにも関わらず頑なに謝ろうとはしない人のことだと思うんですけど、例えばごま豆腐の乗ったザルを片手で持ってる状態でロードバイクに乗って走ってたらカーブ曲がる時に慣性の法則でごま豆腐だけ曲がらずにそのまま直進方向に吹っ飛んでってそれが通行人にぶつかって鼻血が出たみいなケースですよね。豆腐で鼻血て。やっぱスピードが乗った豆腐は硬いんだなー重量はあるわけだもんなーつって。これはもう完全に豆腐なんか持ってロードバイク乗ってた奴が全面的に悪いですよ、謝り倒すしかないはずですよ、豆腐は寿司を運ぶ梅さんみたいに後輪に固定するべきでしたすいませんって言うしかないですよ、いや、だから梅さん、あの、ど根性ガエルの。え、知りません?クッキングパパのライバルみたいな顎の、あの、ハンターハンターのウサメーンのモデルなんですけど、違う違う日村じゃなくてイボクリ遊びでジンに凹まされた、いや、もう梅さんのことは忘れてください兎に角すいませんでしたってひらひらに平謝りするしかないですよ。言い訳なんかするだけ自分の立場が悪くなるわけですから。で、ここで謝れないのが「謝ったら死ぬ病」の人たちですよね、「たしかに豆腐はぶつかったかもしれないが豆腐で鼻血が出るわけがない、大袈裟なことを言って私を陥れるつもりだ」とか「普通の大豆豆腐であれば私にも非があるとも思えるが、なにせごま豆腐だ。香りで気づいて避けれなかった方に問題がある」とか、第三者として聞いても呆れるより仕方ない馬鹿みたいな言い訳を延々繰り返す、それが「謝ったら死ぬ病」だと思うんですけど、じゃあそれに対応するよう考えてみましょうよ。

誰がどう見たってこれ以上の謝罪は不要だろうという状況にも関わらず、謝れと抗議すればするほど第三者の失笑を買うに決まっているのに、それでも謝れと迫り続ける。

たぶん「謝らせないと死ぬ病」と呼ばれるケースを「謝ったら死ぬ病」との対比で想定するならばこれくらいが妥当なんじゃないかなと思います。だからごま豆腐持って走ってた人がロードバイク作った会社に謝罪を迫りだしたらそれは「謝らせないと死ぬ病」なんじゃないかなと思います。ごま豆腐ぶつけられた人は当然謝罪されて然るべきなのでいくら怒ったところで「謝らせないと死ぬ病」とは思えないし、同様にごま豆腐の一件で謝罪がないことに憤りを感じる第三者が謝るべきだと叫ぶのも「謝らせないと死ぬ病」とはいい難いでしょう。そういう人たちに対してまで「謝らせないと死ぬ病」のレッテルを貼って謝るべきところで謝る必要なんかないだろって主張する人ってのが結構世の中たくさんいるんよねーって話ではあります。

繰り返しになりますが、謝らせないと死ぬ病という人種がいないとは言いません。しかし、そういう人とそうでない人の判別はぶっちゃけ謝ってみないことにはわかりません。ちゃんと謝りゃたいていの場合はそれなりに落ち着きます。まず、許そうとする人は許します。もちろんみんながみんな許すわけではありません。しかし、許さない人の全員が全員「謝らせないと死ぬ病」だとここで判断するのは早計です。許さない人の中でもだいたいの人は「今回の件を許したわけではないし、お前のことは今後も嫌いだし警戒し続けるが、謝られてしまった手前これ以上この件を槍玉にあげていては私の方の心象も悪くなるので引くしかない」と判断してひとまずの溜飲を下げます。そして最後に残ったそのような状況になってもなお熾烈に叩き続ける人たちというのがきっと「謝らせないと死ぬ病」にあたる人になるのだと思います。繰り返すにこういう人たちってのは、まぁ一部には確実に存在します。しかし、そのような一部の存在を謝らなくて良い理由にするなんて理屈は通用しません。謝るべきところを謝れば、大半の人たちはその反省の意を汲んで、それでも叩き続けようとする「謝らせないと死ぬ病」の人たちの方がむしろ問題だ、という方向にちゃんと舵を切ります。もちろん、ぶつけたのがごま豆腐か卵豆腐かはたまたフルーチェかによって、勘弁する人しない人の割合グラデーションは変わってくるんですが、そんな極端に謝ることで自体がまるで好転しないなんてことはそうそうないはずです。自分がやられて嫌なことは人にやってはいけませんという言葉が今どれだけ機能しているのかは怪しいですが、誰かがやられていることはいつか自分もやられるかもしれないという意識は割りと共有されている世の中ですので、一度謝ったからと言って延々頭を上げることを許さず無制限に反省の意を引き出し続けて良いんだなんてことは多くの人は考えておりません。自分が謝る立場になる可能性があることを知っている人であれば。あとこの段落、西田ひかるをゲストとして登場させるか今やってるフルーチェのCMの女の子の目がでかすぎてなんか怖い話をするかどっちでいこうか迷ってるうちに終わってしまった。

そういうわけなので、みんなが謝らせないと死ぬ病だから謝ったら死ぬ病なんてものが生まれるんだって考えに僕は基本的にNOの立場です。いくらなんでも叩かれすぎと思って擁護したい気持ち自体はわからんでもないんだけど、第三者のそういう庇い立ての仕方も違うんじゃねえかなと思うわけです。

で、そもそも、なんでそんなに謝らせたいのよって話なんですけど、ここでまた謝ったら死ぬ病の人ってのは、あいつらは頭を下げさせて優越感を得たいんだ、上に立ちたいんだ、気持ちよくなりたいんだなんてことを勝手に忖度してそんな奴らに頭を下げる必要はないなんて考えたりするんですけど、もちろんこれも中にはそういう人もいるのは否定しない。けど、そうじゃない人もいるし、そうじゃない人たちにも一律に謝らなくていい理由にはならないんだよね。島宇宙化って言葉を言ったのは誰だっけたしかセックスが好きか嫌いかでいうとめちゃめちゃ好きなおじさんだったと思うんですけど、同じ思想を持つ人たちで固まっちゃって違う思想を持つ人たちとの相互やりとりがいまいち活発じゃなくて、宇宙にたくさんの島が浮かんでるみたいなそういう世の中なんじゃないですかね、みたいな話だったと思うんですけど、なるほど確かにそうだねって思える部分となんか直感的にすごく逆にも感じる瞬間もある。こういう謝りましょう謝りませんの話なんかになった時は、結局島の中に閉じこもってることなんかできっこなくて、色んな考えの人がいるでっかい宇宙の中でシームレスに生きてんなぁ俺たちって気がしてくる典型だよね。宇宙船地球号だよね。俺、宇宙船地球号のことを考えた時、脳内イメージ映像では絶対にオーストラリアに推進力を生むブースターが取り付けられてるんだよね。完全に居住区とか取り潰して作ったろみたいな巨大なブースターがついてるんですけど、これは僕の内面に白豪主義的な差別意識が眠っているということなのでしょうか。

それで話を戻すんですけど、結局島宇宙とか言ってみたところで、どうしようもなく僕らは同じ、一つの、社会という、宇宙で、共生して生きているわけですよ、そしてその実感は不思議なことにモニター越しにスマホ越しに信号を送り合うだけのSNSの登場によってよりリアルに実感コミコミになった。たぶん謝って欲しい理由ってのはそれだよね。そんなことをして謝らない、悪いとも思わない、そんな人がこの同じ社会にいるんだっていう実感が謝罪を求めたくさせるんだと思いますよ。社会はこの一つしかないんだから、そこから追い出すわけにもいかず、どうしたって同じ社会にその人は居るんだから、これからも一緒に居るんなら、省みるところは省みてくれないと、困るよって感覚。これ全然自然な感覚だと僕は思うんですよ、「なんの一言もなしに、このままアイツと部活続けるなんて俺できねえよ」ってくらい自然な感情だと思う。だってアイツ、婆ちゃんが死んだって言うから練習試合休んだはずなのに帰りの電車で俺見たんだよ、アイツがプラスチックのスティッチに入ったポップコーン食ってるところ。あいつ完全にズル休みして、俺たちを騙して、ディズニーリゾート行ってたんだよ!! そんなもん一回きっちり話してくれないと、一緒に練習するのとか無理でしょ、でも、一緒にまた練習したいなって思うよ全国目指したいなって思うよ、だって俺たち同じ大皿のパエリアを食った仲間じゃねえか、だからこそ俺はアイツにきっちり謝って欲しいんだよ、みたいな感覚と、同じ社会構成員として納得いかないって感覚は大体一緒じゃねえのと俺なんかは思うんですけど。

ケジメとかメンツとか上下関係とか、そういう個と個の関係みたいなもんにこだわる人もそりゃいないとは言わないよ。ただ、みんながみんなそう考えてるわけじゃなくて、そういう個と個、点と点みたいな話じゃなくって、もっと社会というか自分が生きてる世界を空間的に有機的にみんなが捉えてるから、お互いが同じ空間に気持ちよくいれるようにちゃんとしようぜって感覚の方が今は多いような気がするんだよな。だから、究極改めるところを改めて共生のために必要なことだけちゃんと学んでくれりゃ、学んだんだなってことが伝わるように言ってくれれば実は謝罪そのものは必要なかったりする第三者がほとんどだし、ただ自分のやった間違いをちゃんと踏まえればその言葉はきっと謝罪を含む言い方になるはずなので「謝れ」って言い方になっちゃうみたいな、それが事態をややこしくしてる側面はあるんだろうけど、やっぱそれはケジメに詫び入れろやみたいな話とはちょっと違うと俺は思ってる。まぁ、こういう風に考えて謝るのもしんどいから背を向けてタコツボ化しちゃうんだってのが島宇宙化ってのもわかるんだけどさ。

そういうわけで、僕はやっぱり安易に「謝らせないと死ぬ病」みたいなことを言い出してうまいこと言った気になるのって全然違うと思う。全然うまくない。「明石家さんまが秋刀魚を食べた」と同じくらいうまくない。さかなクンオオカミウオを持たせて「さかなクンが魚を持ってるよ!」って言っても全然面白くないのと同じ。ていうかさかなクンオオカミウオ持ってたらそこに言葉はいらない。さかなクンオオカミウオ持ってるただそれだけで普通にめちゃめちゃ面白い。以上です。