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『ニンフォマニアック』感想文

 そのうち観ようそのうち観ようと思ってたのを遂に観ました。

ニンフォマニアック Vol.1/Vol.2 2枚組(Vol.1&Vol.2) [DVD]

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トリアーという映画監督の作品を観るのは『アンチクライスト』に続いて二回目だったんだけど*1、あーなんか俺この監督ダメだわー、俺この監督が面白いと思ってやってること全然面白いと思わないわーって思った。

で、なんかさ、トリアーにかぎらずなんだけど、たぶん日本だと園子温の映画なんかの話になった時に「あるある!めっちゃわかる!」って思ってくれる人きっといるだろうと思うんだけど、過激な性描写とか暴力描写とかさ、そういうの取り扱った映画に対して「俺は全然面白いと思わなかったわー」って言った時にさ、なんか「あーまぁ好き嫌い分かれるよね、結構過激でショッキングな描写多いしね、合う合わないとかあるの分かるよ、そういうのに抵抗ない人なんかは結構楽しめるんだけどね」みたいな感じにされることあるじゃないですか。いや、別にそういうの苦手とか全然言ってませんやん、そんな変な嫌悪感とかなく普通に一本の映画としてフラットに見てそのうえで俺これ全然面白いと思わんって言ってんの、ちゃんと人の話聞けよみたいなのあるじゃないですか。別にいいんですよ、なんでも面白いと思う人もいれば面白くないと思う人もいて、それはみんな好きにすればいいじゃんと思うんだけど、そこをなんか「面白がるために必要な能力がまだちょっとあなたには揃ってませんでしたね、揃ってたら絶対面白いと思うはずなんだけど、いやーもったいない」みたいな雰囲気にされることってのがたまにあって、たぶんこれもなんか油断するとそんな感じにされそうな映画だと思った。ので、そうじゃねえからって思いながら書かなくてはならない感想文です。

トリアーというおじさんは、なんか一言でいうと大袈裟な人だなと思った。なんか普遍的なテーマとして描けばいいものをなんか俺だけが知ってる俺が世界で初めて見つけた大発見みたいな調子で描く人に思える。言いたいことはわかるけど言い方が気に食わない、と言うと我ながら大人げない奴だなと思うんですけど、映画って「言い方」じゃないですか。だから映画に対しては声を大にして言い方が気に食わないって言っていいと思うんですけど、僕はトリアーという人間の持つ問題意識、それがはっきり何なんだという話は置いておきますけど問題意識全般には共感できるところがあるし僕なりに思うところもある。でもトリアーの言い方が気に食わない。そんな言い方するもんじゃないと思ったんです。

さて、この作品の内容をざっくりと紹介するなら「色情狂であるジョーという女性の半生を描いた物語」みたいな感じになると思うんですけど、僕は果たして本当にそうなのか?ってところにだいぶ序盤から疑問を持ちました。そもそもがフィクションであるところの映画にこういう言い方をするのも変なのかもしれませんが、この映画内で描かれているジョーの半生というのはありのままの事実に即したジョーの半生なのでしょうか? 俺絶対そんなことないよなぁという風に受け取りながら観てたんですよね。というのも、この映画は作中で語られる全てのエピソードを経た後の「今のジョー」によって語られるという形式を取っているからです。その時点で僕は構造的に「今のジョー」と「これまでの過去のジョー」を単純に交互に映しているという形式だとはちょっと認識しにくかったんです。僕にとってこれは「ジョーの半生を描いた物語」ではなく、あくまで「ジョージョーなりに解釈したジョーの半生を語る物語」であるように思われました。ありのままのジョーの半生ではなく、ジョーによって編集されたジョーの言い分であると思って観る方が僕には自然に思えたので、そのように観ました。別にこれはジョーが虚言癖を持っていて話を盛っているとか言いたいわけではなく、描かれているジョーのエピソードひとつひとつはジョーが実際に体験したことで事実に相違ないのでしょうが、それがある一人の人間の視点と供述をもとに編集と演出が施されたうえで展開されている限りにおいて、そこには意図とか、作為とか、志向性があるわけで、それはありのままとはちょっと違うものであるはずだよと聞く側としては眉に唾つけて臨まなくちゃならんのではないかと思うわけです。何言ってんだよ、映画に意図とか作為とか志向性があるなんて当たり前じゃないかと思うかもしれませんが、その志向性を「監督のものですよ」とせずに「ジョー本人はこう言ってるんですよ」という見せ方をするのは、うーん、なんかずるくない?と僕は思ったんですけど、どうなんでしょうか。

もしこれがジョーによって語られるという形式ではなく、例えばジョーのモノローグが要所で挟まれるにせよ「ジョーとおっさんの対話」という形式を持たずにジョーの幼少期から順繰りにジョーの半生を描き最後におっさんと出会ったみたいな形式であったならば、それはもう完全に「監督が監督なりに追いかけた監督の志向性を通して描かれたジョーの半生」という形のものに見えると思うんですけど、その場合観る側の印象はまた全然変わってくると思うんですよね。それがもっと良い印象になるかもっと悪い印象になるかはまぁ人それぞれだと思うんですけど。ていうか、もしそういう形式だったらまた全然違った話・言い方になってたんじゃねえかなと思うんだけど。ジョーによる語りという形式だからこそこういう話にすることができたんだろうし、逆に言えばそういう語りという形式を採用しなくちゃならないほどに、こういう話を監督はやりたくてしかたなかったんだろう、じゃあそのやりたくて仕方なかった動機はなんなの? その動機はジョージョーのように生きた動機とは全く別のところにあるはずなんだけど、そこを極力意識させないような作りになっているのはどうしてなの?みたいなことを思って僕は終始もやもやしていたわけです。

身も蓋もない言い方をすると、ジョー本人の語りという形式にすることによってなんかこう、文句を言いにくくしてない?と思うんですよ。「どうも、ジョーというひとりの女の人生を考えて映画にしてみました、トリアーです!」っていう形式であれば「トリアーお前、あのさー」って言いたくなるところ、「ジョーもねー、色々あったらしいですわー、本人もこう言ってるみたいですわ。なぁ、ジョー? な? 大変だったな? な?」って見せ方にすることで「うん、まぁ、せやなぁ、ジョーも、まぁ、わかるで?」って感じにしようとしてない?って思っちゃったんですよ。その狙い自体は僕のこの歯切れの悪い感想文を見ても大いに成功してるってことだと思うんですけど、それを成功させるのは良いことなのか、悪いことなのか、誰が得してるのかが僕にはわからねえなと思うわけです。

更にここから穿った見方が続きます。

この作品の最後にあるのは絶望か否かって話にしちゃうと、まずそこで異論もあったりするとは思うんですけど、僕には絶望に見えたので、まずその前提で進めさせて欲しいんですけど、世の中に、絶望は、ある。でも、その絶望ってこういう形か?って思うんですよ。絶望の存在の仕方ってこんなんだろうか?と思うんですよ。僕が2作品しか観てないけど、「トリアーって大袈裟な人だな」って思うのはそういう感じ。色情狂に限らず、ただ望むままに生きようとした時、ただそれだけなのにどうにも立ち行かないという絶望は世の中にたしかにあるとは思うんですけど、それってこんなふうな絶望だろうかと僕は疑問に思う。この作品にある絶望は確かに現実世界にあるそれとよく似た形ではあるけれども、それは現実にあるそれを描いたものである以上にトリアーというおっさんが「世の中にはこういう絶望があるはずだ!あってくれないと困る!俺そういう絶望大好き!」と念じてやまない願望という要素の方が成分としては多いのではないか、だからこそ大袈裟に見えるのではないかと僕には思えてくるんです。もちろん願望が映画に詰まっていることそれ自体は僕は別にそれはそれで構わないと思うんですけど、「これが僕の願望です」と言うことと「こういうのありますよね、ねー、よっしゃ、みんなもあるって言ってる、よかったー俺こういうのあって欲しいと思ってたんだよねー、やっぱあるんだー、よかったー」と願望を満たすのはまた全然違う話のはずです。そして、トリアーがやりたがるのって後者だよなと思う。だから僕は「大袈裟だな」と思うんですけど、たぶんそう言うと「はー、ジョーの大変さ全然わかってない」みたいな感じに思われるんだろうなとも思う。それでまた「トリアーずるいなー」って気がしてくる。じゃあ僕はジョーの大変さ全然わかってないってことでもいいですけど、トリアーだって別にジョーみたいな生き方の苦悩をわかってるからそうしてるんじゃなくてその方が興奮するからそうしてるだけじゃないんすかね、とか思うわけです。

この感想を書き終わったらネット上の色んな人の感想を読んで歩こうかなと思うんですけど、僕はこの映画に肯定的な印象を抱く人もまぁたくさんいるんだろうなというのはなんとなく想像できる。ジョーという人間の生き方に色んな形で共感したり痛快に感じる人がいてたりするんだろうなと思う。でも、トリアーさんのやってることって「今こういうふうに絶望している人がいるんだ」って寄り添おうとしてるんじゃなくて、「こういう人にはこんくらい絶望していて欲しい」であるようにどうしても僕には見えるんですよ。そういう風に思って作らないとああいう形にはならんだろと思うんですけど。ここらへん、みんなどう考えてるんだろみたいなのが俺はすごい気になる。それはそれ、これはこれなのだろうか。ジョーという生き方がかっこ良ければ、ジョーという抗い方が美しければ、ジョーがなぜジョーのような生き方をする役割を創り手に担わされたかはどうでもいいのだろうか。神が色んな種類の人間を作ることに理由はないけれど、物語の創り手は、神ではなく人間です。ならばそこに理由はあるはずで、僕はその理由をすごく大事な要素だと思っているのだけれど。それとも僕の考えてるトリアーがジョーというキャラクターを創った動機が的外れというだけなのだろうか。

最初は、ジョーの問題は色情狂それ自体にあるのではなくって、自分の人生の語り方にあるのではないかとも思った。もし、ジョーが色情狂でなかったとしても、どのみち何やかんやあって最後童貞のおっさんに半生を語るようなことになっていたのではないか。いや、しかし、色情狂という因果があってこそ、ジョーはあのようにしか自分の人生を語らざるをえないのだと考えるほうが自然なのだろうか。とか、色々考えてたんですけど、結局どうあれあのようにジョーが語ることを選ばせたのは、トリアーというおっさんだ、と考えるに至った結果、なんかこんなような感想になった。

ジョーのような生き方について人と共にポジティブに考え語ることはたぶん僕にもできるしそれはきっと面白いだろうとは思うのだけれど、『ニンフォマニアック』という作品を肯定的に語ることはどうも僕には難しい。そこまでやってしまうと、僕は知らず知らずのうちにまた別の「なんだかいやなもの」に加担してしまうような気がしてしまう。感想文を書き終えた果てに残ったのは、なんだか岡田斗司夫と相撲を取った後の童貞のような疲労感です。以上です。

*1:その時の感想文はこんな感じ

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