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映画『同級生』感想文

見ましたー。このブログを書いているズイショさんという人はそういうBLとかは全然見たことないしよくわからないよーって人なのだけれどわかるよー良さがわかりまくるよーって人と結婚したので一緒に暮らしているからこんなのを見たりすることもあるんだね。びっくりだ!

ものすごくBLだったよー。男子校の高校生二人が当たり前のようにお互いを意識しあって開始10分くらいで既にキスをしていたよー。わずか10分足らずでだよー。これ何分やるねんと思ってレンタルしてきたケースを確認したら60分と書いていたんだよー。にもかかわらず開始10分で、ふたりはキスをしていたんだよー。あと50分もあるというのにだよー。だから僕は思ったんだ、これ最後セックスするんちゃうかとね。結果からいうとギリギリしなかったよー。ギリギリというのは、別にオーラルセックスまではしていたという意味ではなくて、限りなくセックスしそうな雰囲気が終始ふたりの間に流れていたんだよ。間断なく流れていたんだよ。あと最近知ったんだけど僕は30年くらい間断を「まだん」だと思って生きていたんだよ。世に言う湯桶読み的なやつだと思っていたわけさ。あとケース確認したらジャンルのところに「女性・女の子向け」と書いていてなんか笑った。

志村というとにかく女が大好きなコメディアンが日本にはいるんだよ。志村は、けんまでちゃんと言わずに名字だけで呼ぶと、あのコメディアンの志村であることを想起しにくい不思議な存在なんだよ。どっちかというと志村だけ言われると早世したミュージシャンの話が始まる予感がしてくるのはなんでだろう。僕は赤いジャージで森のなかまたちと踊ったよ。うらわざとしては志村のあとになんらかの方向を示す言葉をつけると名字だけで呼んでもミュージシャンじゃなくてコメディアンの志村の話題なんだなというコンセンサスが得られるよ。方向は特に後ろじゃなくても、前でも右でも左でもコメディアンの志村の話題だなという雰囲気になるんだよ。志村の出演する番組にはたびたび女の裸が登場するんだよ。家庭によってはその時に気まずい雰囲気が立ち込めてお父さんは咳払いをしてお母さんはお皿を洗いにいくんだよ。古文書にはそう書かれておった。そういう種類の恥ずかしさを僕はこのアニメを見ているあいだじゅう感じていたよ。ていうかこれたぶんそもそも夫婦で見る用としては作られてないよ。

何せ落ち着いて見ていられないので、「こんなのありえねーよ」といちいち突っ込みたくなるのだけど、たぶん作ってる側もありえねーと思って作っているので突っ込む意味がないんだよ。BLというのはファンタジーなのだなということをわしは理解した。そして、ならばファンタジーは人間を書かないのかというと勿論そんなわけはないんだよ。現実に即していないからと言って、そこにいる登場人物の心の機微がすべてありえないなんてことはありえない。むしろどんな状況でだって人間は人間らしくものを考えることしかできないのだから、人間の、空想の中の人間はどこにだって行けるんだ。

僕は志村ほどではないけれど、普通に女の子が好きなので男同士が好き合って付き合ってということにあまりピンとこないのだけど、それが男同士であるということを除けて考えれば、10代の、思春期の、これから自分は何になるんだろうという感覚、好きな人と一緒にいたいなと思う感覚、好きな人の考えている事がわからないよという感覚、不安だったり幸せだったりする感覚は、僕も知っていたものだから、ふたりの日常や非日常はとても普遍的で共感できるものだと僕には思えたよ。そして、それはファンタジーなのかもしれないけれど、ふたりは僕だって見習いたいほどに正しくまっすぐに雄弁で、色々な厄介な気分や感情をふたりで頑張って乗り越えていたよ。現実の僕らなんかよりよっぽど上手にやっていた。互いの気分を手触りを上手に確認していたよ。

男と女は、男と女であるけれど、男と男は、男と男である以上に、人間と人間であるのかもしれないなぁ。そんなことを見ていた僕は思ったよ。もちろんほんとのほんとのほんとは男と女だって人間と人間であるべきなんだ。だけどそれはずいぶんむずかしい。男と女が好き合うことはいわゆる自然とされているところだけれども、それゆえに男と女という関係はなんだか不自然であるようにも思われる。人間と人間がそこにいた時、そのふたりにぴったり合う形をぼくらは探さなくてはならないわけだけど、一方が男で一方が女であった場合ぼくらはしばしばその努力を怠ってしまう。男はいつだって男でなくてはならないと思ってしまうぶぶんがあるし、女にもたぶんそういうところはあったりなかったりするのだろう。この事実が時にふたりの形を探るうえで大きな足かせとなる。この物語のふたりにはそれがなかった。二人とも男だから、無理に男らしくする必要もないし、何か相手に思うことがあればともすれば女々しく相手にその思いの丈を伝えることにも躊躇いがなかった。それゆえにふたりのそれは剥き出しの思春期であった。性別という枠組みを取っ払ってしまった結果、そこには思春期だけが残った。すごく自然な、思春期そのものだけが、そこにはあったのだった。

あの時うまく言えなかった言葉や伝えられなかったこと、そういうものをたくさん置いてけぼりにして、みんな大人になった口だと思うんだけど、その理由のすべてを性別のせいにしてはいけないのだろうけど、そういうものを書こうとした時に同性間での恋愛という舞台装置は結構使い勝手がいいのかもしれない。そういう理由でBLとか百合とかが持て囃されているのかぼくはよう知らんが、ぼくは『同級生』を見ながら、ぼくの、言えなかった言葉を思い出していたのだった。なので、僕にはできなかったそれらを素直に伝え合えるふたりは、美しくて、眩しかったー。よかったー。

純愛とか、友情とか、しばしば「こんなの現実にはありえない」とか言うけどさ、そんなものは人の心にはそもそも存在しないと考えるか、そんなものが人の心にあったとしてもそのままの美しい形でこの世界に表出されることはないと考えるかでは結構な差がある。僕は後者だと思っているし、であるならば世界を作り変えちゃってさ、ファンタジーの世界で描かれる美しいあれやそれやは嘘っぱちなんかでは全くない。そうやって現実世界を生きているとお目にかからないそれは、お目にかかれないとしても「ある」んだってことを確認するのが物語の意味だよなーという当たり前のことを思い出すなどした。

あと以前におそ松さんのDVDに入ってたイベントの映像を見ていて「なんでこの神谷さんという人はこんなに自信満々なのだろう」と思っていたのだけれど、すごくイケボでみんなにすごいキャーキャー言われてるからなんだなということがわかりました。以上です。

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