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『ゆとりですがなにか』めちゃめちゃ面白かった

とりあえず吉岡里帆がアホか言うくらいかわいいのね。こんなかわいい娘が目の前に立ってたら人間は一分間黙ってるの医学的に不可能だろ目を合わせたら脳内でなんとかっていう物質が分泌されて強制的に「かわいい……」って溜め息をつくように呟いちゃうから人間は吉岡里帆の前で一分間黙り続けるの不可能だろってくらいかわいい。今回の悦子先生役で完全に俺の中で一緒に肉を食うなら松岡茉優、魚を食うなら吉岡里帆っていう赤ワイン・白ワインのノリで今めちゃめちゃかわいい女優ランキングのツートップ二大巨頭に躍り出ました。

それで『ゆとりですがなにか』を最終話まで見届けたわけなんですけど、最初は全然期待してなかったしなんなら2話3話くらいの段階では「来週見たあたりで切りそうだなぁ」とか思いながら観てたくらいなんですけどなんか気付いたら最終回までガッツリ観てしまっていた。それも「途中からドンドン面白くなってきた!」って感じでもなくてそれは常に2週分くらいは消化できてない録画が残ってる感じからも明らかで最終回10話が放送される前の日にやっと8話見るくらいでしたから、それはもうなんとなくダラダラと観てたんですけど最終回が終わってみれば「あれ、もう終わっちゃうの?もう来週からは坂間・山路・まりぶの三人には会えないの?」ってなんだか猛烈に寂しくなってしまった。普段僕は割と「どう着地するのか」みたいなことを考えながらドラマとかアニメを見るタイプでいつも「良い最終回だった!ありがとう!」ってな調子で気持よく終わる人間なので「もしかしてこれがなんとかロスっていうやつか……」と困惑すらしている。

最初はなんかとりあえず『ゆとりですがなにか』と銘打っては見たものの無理やり「ゆとり」ってキーワード捩じ込んできてるだけであんまゆとりとか関係ないよねこの話、単純にアラサーっていうお年ごろのおセンチな感じを描いてるだけでゆとり世代ってキーワードを盛り込んでいる意味ないよね、って思って懐疑的というか何だかなぁと思ってたんだけどそういうツッコミこそが実はこの物語の肝というか大テーマだったんだよね。終わってみれば「ゆとり世代」だからって十把一絡げにする必要はないしできるはずもないし生まれた世代がどうだからとか関係なく人間誰でも駄目なところの一つや二つはあるし、それは「ゆとり世代」に限った話ではなくどの世代の人間にも言えることでっていう多様性の物語だったんだなと回を追う毎に思えてきた。

そのうえでなぜこの作品のタイトルが『ゆとりですがなにか』でなくてはならなかったのか。それは「ゆとり」という名づけそれ自体には意味がなかったとしても・自分が「ゆとり」らしい生き方なんかしないにしても(そもそもそんな生き方あるのか怪しい)、社会の中で生きていく中で人はある時、社会というものは親から子へ子から孫へというような形で自分より下の世代に何かを受け渡していくことで成り立っているのだという意味で、「世代」というものを強烈に意識せざるをえないからだ。例えばそれを初めて痛感するのがアラサーという年代だったりする。「世代」というものをただの迷惑で無用なレッテルとしか思えなかった「ゆとり世代」が初めてそういう意味での「世代」について考える。下の世代に何がしてやれるだろうかと考え、今まで散々押し付けられてきただけの「ゆとり世代」という言葉じゃなしに、主体的に自分の「世代」の社会的役割というものを意識する。上の世代から受け取ったもの押し付けられたもの、そのどれをまた下の世代にも渡してやりたいか、どれは自分たちの世代で終わりにしてしまいたいか。そういうことを考えながら(あるいは足がかりにしながら)同時に自身の幸福の形も模索していこうというのが『ゆとりですがなにか』という物語であり、言い換えればこれは上の世代に対しての「あなたに比べりゃ小僧かもしれませんが小僧なりに色々考えてますがなにか」であり、下の世代に対する「ダメなりにお前らより大人ですがなにか」なのだ。そしてそういう風に考えながら生きているのもまたゆとり世代に限った話ではない。

もともと親から子へと手渡される祝福とか呪いだとかってテーマは演劇ではもっぱら好まれるテーマでクドカンの師匠と言っていいのかわからないけど松尾スズキなんかもよく取り上げるテーマではあるんだけど、クドカンはそういう血がどうだとか運命がどうだとかみたいなプリミティブな感覚じゃなしにもっと現実問題として我々は下の世代に何かしらの申し送りをしなくてはならないという感覚、そういう上の世代の助力があってあの眩しすぎて今はもう正確には思い出すことも出来ない「青春」というものがまるで一回目みたいに(いや、当然その世代にとっては一回目なのだけど)色褪せることなく再生産されていくんだ再生産され続けなくてはならない再生産され続ける世界であって欲しいみたいな感覚を持っているような気がする。いや、よく考えたら俺、テレビっ子を始めてまだ日が浅いもんでクドカンの脚本してるドラマってほっとんど観てないけどね。『池袋ウエストゲートパーク』も『木更津キャッツアイ』も観てない、『あまちゃん』すら観てない、『タイガー&ドラゴン』はところどころは観てた気がするけど全話ちゃんと観てるか覚えてない時点でノーカンだろって考えたら映画や芝居は結構観てるんだけどドラマは『ごめんね!青春』しか観てなかったわ~くらいの感じなんですけど。

そして申し送りをする世代、社会的役割を意識しなくてはならない世代というところでいうと分人化と言っていいのかわからないけど、人間は社会で生きてると複数のキャラを自分の中で演じ分けなくてはならないみたいなのもテーマの一つだったのかなぁとかも考えた。坂間とまりぶが自分のことばっかりで社会的役割をうまく全うできなくて大変なところで、逆に社会的役割を全うすることを優先した結果自分のことがイマイチわからなくなってしまってる山路と茜がなんだかんだと意気投合するのもすごく自然なことに思える。山岸みたいなそういうキャラというものを変に意識してしまってわけわからんなってる登場人物がいたりもするけれど、だから安易に自分の本性から目を背けて演じることに徹したってうまくいきっこないって考えれば山岸の抱える問題と山路や茜が内心抱えていた苦悩には本質的にどれほどの差があるのだろうかと考えると僕にはなかなか難しい。人に迷惑をかけるか自分自身を苦しめるかという違いがあるだけでそれはそんなに違わないんじゃないだろうか。

ツイッターで誰かが「父の不在の物語」と捉えると『ゆとりですがなにか』はぐっと見通しがよくなるみたいなことを言っているのを見かけたけど、なるほどその通りだと思った。それで、もっと具体的にこの物語において「父の不在」とは何を意味していて、「父の不在」がどのような形で問題となっているのだろうと考えてみると、それは端的に「今の時代は殺す親すらいない」ということなのかもしれないと思った。世代から世代へと何かしらを受け渡していくのが社会だとは言ってみたものの、時代の状況はどんどん変わっていってるし、親の常識と僕らの常識は少し違う、全然違う。親の過ごした青春と僕らの過ごした青春も少し違う、全然違う。そんななかで親の言ったことを鵜呑みにしてハイそうですかと全てを受け取ったところでそれはきっと呪いにしかならない。だからある意味で子は親をどこかで殺さなくてはならないし、やがて我々も下の世代に殺されなくてはならない。「殺されてやる」ということが下の世代を「肯定してやる」ということにもなるし、親を殺すことで子は自分を自分で肯定してやれるようになるみたいな側面が少なくともかつては一般的なあり方であったように思う。殺すにも値しなかった親が殺す価値のある親にやっとなってくれてそれを殺すことで自身も本当の意味での父親になることができたみたいなのがまりぶ君の物語だったのかなとも思う。しかし、そういう意味で親殺しを達成できたのはまりぶ君だけだ。坂間くんの父親は既に一話の時点でいないし、山路の父親は影も形もない。通過儀礼としての親殺しは現代でも勿論機能しないではないけれど、最早そんなに万能なロールモデルでもないのかもしれない。それは結局、ある価値観を否定して新たな一つの価値観を「正しい」と信じて生きること自体がそもそももう流行らないってことなのかなぁなどと考えた。上の世代はうるさいし下の世代もどんどん突き上げてくるし、彼らの対立項としてしか僕らの世代は存在できないということはどうしようもない事実ではあるけれど、彼らとこれからの時代やっていくべきことというのは殺し殺されなんてシンプルなものじゃなくてもっと違う形であるべきなんじゃないか、世代によって見えるものは違えども違うからこそ上から下へとただ一方向に流れていくんじゃなしにもっと相互に与え合わなくちゃならない、だからこそ父親が実質不在の状況でも自分から人に与えてやれるもの自分に必要で誰かから受け取りたいものを自分を見つめながら考えていかなくてはならない。そういう物語なのかなとも思った。この段落の言っていることはだいぶ前のめりってるので今後もちょっと考えてみなくてはならんと思う。

と、まぁ考えたいことはま~色々あるけれども本当に登場人物がみんないちいち魅力的でね。最初に書いたけど来週からもう会えないのが本当に寂しい。安藤サクラもすごかったけどね、いや一文前に魅力的って書いたけどそういう意味では安藤サクラ演じる茜は僕一番無理なタイプでしたけどね、すごい精度で一番無理だったね。ただ、おる!こういう女、おる!っていう完成度は凄まじかった。おい、ちょっとそこのお前!おるぞ!こういう奴、なんぼでもおる!そこらへんちょっとお前探して連れて来い!おるから!ちょっと街歩いたらなんぼでもおるから!絶対おるからちょっと探して連れて来い!って勢いでめっちゃおる感じすごかったですね。松坂桃李も、僕もともと彼の出てる作品を見たことがあんまなくって、正直顔だけの人なのかなと思って舐めてたんですけど、たまたま見た『エイプリルフールズ』で「あれ、こいつもしかしてものすごく演技できるのでは……?」という気がしてきて、今回のドラマでもう完全に見くびってましたすいませんをしました。柳楽優弥コメディリリーフとしてかなり高いところでまとまってて、後半の泣かせのシーンも最高で。ていうか普通に素通りできそうなストーリー上でもちゃんと意味のある掛け合いですらないセリフを役者単独の持ってき方で笑える仕上がりにしてるシーンが本当に多くて、僕はなんかそういうの観てるだけで楽しい気持ちになるので最高だった。あんまり全10話何してたのか、そんなに色々やってたっけって感じですらあるんですけど、それでも今となっては大変名残惜しい、不思議なドラマでした。以上です。