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本の感想を書くんじゃない、読書体験の感想を書くんだ

こんにちわ、ブログにたまに本や映画や何かしらの感想を書いて怒られたりお礼を言われたり相手にされなかったりなどする人こと俺こと僕です。

「感想文の書き方」の話題を見かけて、他の人の「感想文の書き方」について書いた文章をもっと読みたいなぁと思った僕は「ならばまず俺が書く!」という結論になりました。「俺に続け!」って感じの一番最初に殺されるポジションです。俺が食われた後にみんなが口々に「目だ!目を狙え!」とか「火だ!松明を向けろ!」とか言い出すんだけど別に俺が死に際に目を潰したとか俺が死に際に火を放ったら怯んだとかじゃなくて、なんか俺の死をキッカケにみんなが閃いたみたいな感じで突然対処法を編み出して俺以外の犠牲者出ないみたいなパターンあるじゃないですか、アレが僕なんですけど。

全体として「物語」の感想文を前提に考えてます。僕がほとんどそういうのにしか手を伸ばさないからです。あと無理して読んだ本全部の感想書かなくてもいいじゃんみたいな立場なのですが、全部書く感じの話はid:fujiponさんがしてるしええか、みたいなところもあってのものだね。あと実際は本の感想より映画とかの感想の方が遥かに多かったりはする。

一応取っ掛かりとして、ポジティブな感想を書くにはどうすればいいの?というところから考えてみるに、別に対して面白くもなかった本を無理して持ち上げて褒めちぎるような感想を書く必要はないと思うんですけど、褒めてるにしろ貶してるにせよ感じ悪い感想というのは実際あるんだろうなとは思う。みんなどこかで聞いたことがあるであろう「じゃあお前が面白い作品作ってみろよ」というフレーズは「どうせ血もつながってないし、本当の母ちゃんじゃねえし」「あ、こいつチョイ役っぽいけど有名俳優だからたぶんこいつ犯人」と並ぶ日本三大それを言っちゃあおしまいよフレーズですが、実際そう言ってやりたくなる感想って結構あったりする。

で、そういう感想文に共通してる印象ってなんだろうって考えてみるにその人の中での「正解」みたいなものが手放しに絶対とされていてその「正解」の要素をどれだけ満たしているかどれだけ外れているかという減点思考だけで書かれている感想・批評みたいなものは読んでいて結構しんどいものがあるような気がする。なんかすぐ自分の大好きな他の作品と比較したがる人もたぶん同じような感じ。「じゃあお前が面白い作品作ってみろよ」って言いたい時っていうのは「お前の考える唯一無二の正解を作る気はこっちは最初からサラサラねえよてめえで勝手にやれ一昨日来やがれ」って意味合いの時もあるんじゃないかな。

もちろん正解が自分の中にあるってのは構わないんですけど、その正解をそもそも目指してなさそうな作品に触れた時は「これはちょっと俺には関係ない作品だったな」と割り切って感想を書かないか、「あんまり好きな味ではなかった」程度のサラっとした感想に留めるか、さもなくば「こいつは俺の存在を賭けて文句を言わなくてはならない」「これを否定するものがひとつも存在しない世界など俺には我慢ならないので俺はこればっかりは全力で否定する」くらいの気概を持って全力で特攻するしかないですよね。これは僕たまにやります。それで時には燃えまくって怒られたり馬鹿だと言われたりもします。が、それでも書かずにいられない時というのはやっぱり少なからず「私もモヤモヤしてたんですけどスッキリしました」みたいなリアクションも出てくるはずなのでそれを見て「ああ、いっぱい怒られたけど書いてよかったなぁ」と思いましょう。

で、そこまで糞味噌言われてでも書きたいのってどういう時かっていうと、なんだかんだ心を動かされてる時なんですよね、怒りもまた立派な心の動きであり、心を動かす(entertain)ことこそが娯楽(entertainment)なわけですよ。と書こうと思ったんですけど、ググったらentertainに別にそんな意味合いなかったけどめんどくさいのでそのままいきます。ネガティブな感想と一口に言っても「心を動かされなかった、だからつまらなかった」という内容ばかりだとしんどいのかな、それだけならわざわざ書かなくてもええんちゃうかな(書くにしてもサラッと備忘録程度に留めればいいんじゃないかな)とは思わないでもない。「心を動かされた」のであれば作品への評価自体はネガティブなものであったとしても楽しく読む人や好感を持つ人も中にはいるんじゃねえの、と思う。なんかここまでむかついた時の話しかしてなくてトラブルと遊べヤンチャボーイみたいな感じなってますけど、これは別に作品の評価が好ましかった時でも同様で「まぁ面白かった、普通に楽しめたよ」くらいの時は僕の場合は別に感想書かなかったりもする。書くのは「こいつぁすげえとんでもねえ、これがこの世にある世界とない世界があって、ある方の世界に生まれて俺はよかった」くらいの時で、面白かった時、むかついた時、感想をわざわざ書こうかなと思うのはそれこそ10冊に1冊、20冊に1冊、ちなみに人間は一分間で15~20回、一日で約2万回近くまばたきをしますがまばたきの感想は書いたことないです。あと、まばたきを数え始めるとなんか一回一回のまばたきがやり方あってんのかわかんなくなってきて、その後まばたきするのがなんかすごい悪いことのような気がしてくるので気をつけて下さい。

あ、あとめっちゃ面白かったでもなくめっちゃむかついたでもなく、でも書かねばと思う時もあって、それは「この世界にこんなものがあるのにはある種の必然を感じる」みたいなことを思いながら読んだ時です。

こういう風に書いてみると結局僕が感想文を書こっかなと思う時って本の感想を書きたいんじゃなくて読んでる最中の俺の心の動き、読む前と読んだ後で俺の感情心持ちがどう変化したか、以前の俺からどれだけズレたか、ズラされて堪るかと踏ん張るのにどれだけのエネルギーを使ったか、そういうことを書きたいんだなと思った。読みたいのもそういう感想文だったりする。正解みたいなものは各々勝手に持っていりゃいいんだろうけど、正解に出会えることなんざ、ま~、ほとんどない。自分の抱えた正解が本当の正解である理由も一つもない。だから、それが正解だったかどうかとか正解との距離の差なんざどうでもよくて、読んでて思い出した全然関係ない昔の思い出とか、この現実世界の何が好きで何が嫌いかを再確認した話とか、許せないこととか、数えたいものとか、そういうのが楽しいじゃん。もしあなたの中に正解があったとして、それを貴方が正解だと信じる理由を貴方はきっとそれを正解とは別に持ち合わせている。それが貴方の世界観だ。小説は、映画は、物語は、そんな貴方の世界観を良くも悪くも揺さぶる。その過程こそが僕の読みたいもので、僕の書き残しておきたいことなのでしょう。変に批評家ぶるんじゃなくて、全力で消費者に徹するというか、しがない読者らしくおとなしく読書体験して素直に泣いたり笑ったり怒ったり震えたりしておくことが、僕の感想文を書くうえでのコツのようです。以上です。