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自己肯定感に根拠があってはならない

これをふむふむーと思いながら読んでて、掲題のようなことをふと思った。けど、そんな話はたぶん上記の文章の中ではしてなかったと思うのでつまりこれは全然関係ない話です。

この、ふと思った「自己肯定感に根拠があってはならない」が「なんとなく」俺の中では結論になったので、つまりふと一行目で結論が出てそこに至るロジックが俺の中にないんで、今から作ります。いや、嘘うそ。えいぷりるふーるえいぷりるふーる。たぶんまとまらない。だって今俺まとめる気全然ないもん。眠気がすごいもん。だって今突然俺の目の前ににゅっとおっさんの顔が現れてなんだなんだと驚いてよく見たら鼻ちょうちんに映った俺の顔だった。それくらい眠い状況なのでまとまるわけがないんですよ。でも今書かなかったら今頭の中にぼややっと浮かんでることがどっかに抜けていきそうなのでグダグダになるとわかってても書く。を、躊躇なく半目で実行に移す程度には私の自己肯定感は高いです。

自己肯定感はあくまで自己肯定「感」で、感覚の話なので、根拠なんか無くていいし、むしろあるとまずいんじゃないかなとすら思う。根拠がある自己肯定感というのは、根拠がなくなると自己肯定感を失ってしまうので、根拠を失わないように必死になってしまいます。必死になると大抵うまくいかないですし人にやさしくなれなくなってしまうのが世の常なので我々はテイクイットイージーな心持ちで生きる必要があります。と、僕は考えます。なので、根拠がないと維持できないような自己肯定感はちょっと危なっかしいんじゃないかなと思います。

また、根拠を伴う形での自己肯定感を求めてしまうともうひとつ問題なのが、実のところ今現在の自分がそこまで肯定されるほど立派でもない自分であった場合に認知の歪みが発生してしまうという点です。僕はたぶん自己肯定感がそこそこ強い男ですが、それはあくまで僕くらいは僕を肯定しておかないとたぶん生きにくいので僕は肯定されるべき存在なんだという体で生きてるだけで、別に僕が正しいとはあんまり思ってません。この感覚は両立するはずなんですけど(だって僕が現にさせてるんで)、どうもそんなに一般的じゃないようで、肯定されるに足る場合しか自分を肯定してはいけないし肯定されるに足らない人間は自己肯定してはいけないみたいな考え方もあるようです。このような態度は一見殊勝で謙虚なようにも見えますが、僕は如何なものかと思います。なぜなら、そのような考え方の人は、自己肯定感を感じている時、同時に自分は正しいとも思ってしまうからです。

自己肯定感を持つのは結構なことですが、お前が正しいかどうかは全然別問題です。というか、そういう人が何か間違えた時に、その間違いを指摘しようとするとこっちはそんなつもりもないのに同時にその人の自己肯定感まで取り上げなくてはならない破目になります。当然、自己肯定感を取り上げられると堪らないので相手は強く抵抗することでしょう。話が通じないのは困ってしまいます。こっちも困ってしまいますし、間違いを改めることができないと当人も困ってしまうでしょう。

陳腐な喩えになりますが、自己肯定感ってたぶん酸素のようなもので、足りないとどうしたってうまくいかないんでしょうけど、じゃあ貴方が生きる今・そこはどこなんだって思うんですよ。海底だと思ってる人はいます。自己肯定感が高い人にも低い人にも、酸素は貴重でボンベは高価で数には限りがあって、それを如何に奪い合うか分けてやってもいいぞと駆け引きに使うか、自己肯定感をそういうもんだと考えてる人も世の中には少なくないように思えます。でも、僕にはそうも思えんくて、ここは海底じゃなくて地上でしょう。酸素はないと死んじゃいますよ、死んじゃいますけども、いくらでもなんぼでも普通にあるから、誰に気兼ねなく吸っていいですよ。何を気を遣ってるんですか、どんだけ貴方がぜーはーぜーはー深呼吸しようと酸素がそれで無くなって他の誰かが困ることもないですから。だから僕は誰に気兼ねすることなく好きに吸って摂取しますし、貴方もそうしてくれていいんですよっていうのが、僕が自己肯定感について思うことなんですけど、逆に言えば酸素をいくら独占したってそんなの偉くもなんともないんですよ、なんぼでもあるんだから羨ましくもないし、お前が酸素ボンベいくら抱えてようと空気中に酸素なんてなんぼでもあるからこっちがお前に「へへ~」って媚びへつらうこともないし、自己肯定感強すぎる人には僕はそう思いますけど。他の人たちにも自己肯定感強い奴にそんな気後れするなよと思うんですけど。

まーこんな話をしたところ自己肯定感低い人には「じゃあどうすりゃいいんだよ」と思われるでしょうし、もしやすると僕が酸素ボンベ背負い込んでG-SHOCKみたいなスマホで海底を悠々と調子こいて歩く二宮金次郎みたいに見えるだけかもしれないんですけど、ここは地上なんですよということを共有する難しさはそれはそれであるし今後の課題だよなと思いつつ、僕はそういうふうに考えています。以上です。