←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

桐谷ヨウという最高の他人、あるいは会いに行けないヤリチン 『でも恋』感想文 #でも恋

3月、とある日曜日の昼下がり、すっかり春めいた陽気に浮かれてベランダを全開にしてウクレレの練習をしてたら一羽の鳩がどーん!って突っ込んできてそのままうちのリビングの49型のテレビにばーん!ってぶつかって、テレビの液晶にはロールシャッハテストとして出題したら10人中9人が「鳩!」って答えるだろうってくらいキレイに両翼広げた鳩の型が判を押したみたいに残っててちょうどCMやってた楽天カードマンがより仮面舞踏会みたいな感じになってんのね。「ど、どうしたー!?鳩よー!?」つってよく見たら脚のところに一冊の書籍がぶら下がっていて、それは天才恋愛コラムニスト・桐谷ヨウさんの『仕事ができて、小金もある。でも、恋愛だけは土俵にすら上がれてないんだ、私は。』だったんですね。それで俺は「は、鳩よ。東京から大阪までこんな400ページ近くある分厚い本をよくぞ届けてくれたな……。しかし天才恋愛コラムニストってすごい肩書きつけたな。もうブログ名も『My Favorite, Addict and Rhetoric Lovers Only』から『天才桐谷の色気が出るブログ』とかに変えちゃえよ。兎にも角にも鳩の遺志のためにも早速読まねば」と思ってウクレレを弾くのをやめたんですね。弾いてたんだ、鳩が突っ込んできてその事態を把握するまでの間、動じること無くウクレレは弾き続けてたんだ。そういうわけで今回は略して『でも恋』の感想文です。

仕事ができて、小金もある。でも、恋愛だけは土俵にすら上がれてないんだ、私は。

仕事ができて、小金もある。でも、恋愛だけは土俵にすら上がれてないんだ、私は。

 

で、はてなブログで男性向けの恋愛アジテーション記事なんか書いてたのを発端にその後web媒体にて女性向け恋愛コラムだとか仕事論コラムだとかを書いてなんだか楽しくやっていたファーレンハイト改め桐谷ヨウさんの初めての本となる『でも恋』なわけなんですけど、まずコイツって一体なんなの?っていうところなんですけど、一言で言えばこの人はヤリチン界のハンニバル・レクターなんですね。こいつに聞けばそりゃあヤリチンの心理だとか、セックスした女を簡単に一番にはしてくれない男の心理ってのはすげえ分かりやすく教えてくれますよ。ただそれはこの人自身もヤリチンだからであって、しかもそれを人に分かりやすく説明できるってことはかなりロジカルに女性とのセックスへの持ってき方を最適化して突き詰めてるめちゃめちゃ性質が悪いヤリチンであって全然油断ならない完全にアンソニー・ホプキンスなわけですよ。

それでこの本も女性向けのいわゆる恋愛ハウツー本みたいなジャンルに属する内容になってるわけですけど、いや、実際読んでたら「こいつすげえモテるんだろうな」ってのがすごいのよ。なーんかブログとかtwitterなんか見てるとオシャレな感じもバリバリ滲み出ててさ、俺みたいなオシャレコンプレックスのモテない感覚を一生抱えて生きてく人間からすると清々しくも苦々しくて仕方ないわけ。言ってることもマトモで、スマートで、こんな風に「苦しいだけの恋愛なんかしないで自分をもっと大切にしなよ」って柔らかい手触りながらも要所要所エッジが利いた調子で滔々と語られたら抱かれてもいいかなって思っちゃう女は少なくないだろうなって思うわけ。あれ、おかしくね!? 結局ヤラせちゃってんじゃねえかよ! 大事にしてねえじゃねえか! 向こうは「いや、大事にしたうえで抱いてるよ」とか言うんだろうけど全然納得いかねえ! だからなんか学校でモテる調子良いやつがさ、何の躊躇もなくインナーにパーカーなんか着ちゃってフードだけ出すみたいな学ランの着こなしをしてるじゃないですか。俺みたいなオシャレコンプレックスはよくそんなあざとかわいいこと出来るなって思うけど、そいつは普通にそれをやってのけるし女の子もオシャレだねみたいに思うわけ。あの学ラン着こなしてる奴に対する劣等感を俺は彼の文章見てると思い出すわけ。だからもう、ガチガチの拘束具からパーカーのフード出してるハンニバル・レクターみたいな扱いなんだよね俺の中で。みんな騙されるな、なんであいつばっかモテるんだ、いやなんでかは分かるんだけど!っていう、そういうやつですよ。

そうなんです、この本もね、良いこと書いてるんですよ。女性に言ってやるべき本当の言葉が書いてるんですけど、ただそれがそのまま口説き方としても成立するんですね。特に笑っちゃったのは、「付き合わないとセックスしないみたいなの寒いよね」って話をして、そういう確約もらえるなら身体を預けてやってもいいみたいな受け身の姿勢じゃなくてもっと主体的に自分の身体をどうするか自分で決めようよみたいな話なんですけどなんか良い風に言ってるけどこれってワンナイトラブを決め込みたい際の口説き方としても全然成立してるじゃないですか。で、その後に「ただしヤリチンには気をつけよう」みたいな話をして「簡単にセックスさせればいいってわけじゃないのよ?」と一度確認した後で「でもヤリチンにも良いヤリチンと悪いヤリチンがいると思うんだよね」って続くわけ。これ絶対言ってる自分は良いヤリチンに分類してるじゃないですか。「まぁでも良いヤリチンとなら一回ヤってみてもいいんじゃない?良いヤリチン、即ちミーざんす」っていうその感じね、なんか俺読んでて完全に「俺今口説かれてんな」って思ったもん。

なんつーのかな、女性が良い恋をするために必要な考え方がぎっしり詰まってるんですけど、すべてのロジックが一番後ろに「だから僕ととりあえず一回セックスしてみよう」が付いても成立するんですよ。だから悪いってわけじゃないですよ。だってもうこれは仕方ないもの、そういうホプキンスだから。さかなクンがさ、普通に魚にまつわるトリビアだけ言ってくれてたらそれでこっちも面白く聞くのにさ、すげえ「ギョ」を混ぜてきて鬱陶しいなと思うけどそれはもうさかなクンだから仕方ないじゃん。それと同じで、この本にたまに「あれ、結局セックスしようみたいな話になってない?」って思うのは仕方がないんですよ。もうそういうもんだから。そういう意味では、結局ヤった後も女を良い気分にさせたまま上手にフェードアウトするヤリチンの口説き方がメタ的に書かれてるだけじゃねえかみたいな言い方もできるっちゃできるよ。ただ、それで「結局男にとって都合のいい女になれってだけの話じゃん」で切り捨てるには惜しいくらいに本当のところ、根本のところも書いてある。結局、そこは不可分というか同じ道具をどういう使い方をするかの違いでしかないってのが実際のところなんだろうね。普通に口説くつもりもなく誠実に、相手が今必要としてるであろう言葉を自分なりに相手に差し出してたらさ、「あれ、今この娘、俺がヤろうぜって言ったら絶対ヤらせてくれそうだな」みたいな感じに狙ってないのになってることとかしょっちゅうあるじゃないですか。それと真逆の出発地点、ヤリチンがヤりたいな~と思うところから突き詰めていった結果、そういう誠実な態度と言葉を獲得するというのはある意味では自然なことだと思うんですね。それは口説きに使われたり相手のためを思って純粋に使われたり或いはその両方だったりするわけですけど、ただそこにある言葉を例えば「口説くための言葉じゃん」とか用途を理由にして否定したりその言葉を咀嚼することを拒否するのはもったいないと思うんですね。むしろそういう風に処理したがるヤリチン嫌悪みたいな女性が恋愛でうまくいってない時にこそ処方箋として必要とされるであろう言葉をヤリチンが語ってたりなんてことも世の中あるわけです。

それでもまぁ貞操観念とかセックスの位置づけってのは人それぞれですからどうにも受け入れがたいって感覚は仕方ないと思うんですけど、ここで当たり前すぎる確認として、このエントリは桐谷ヨウという生身の人間の話ではなくて、『でも恋』という一冊の本についての話なんですね。で、本の中の人物というのはこういう場合、会いに行けないのがいいですね。そうです、この本にある言葉というのはバーで貴方の横に座ったヤリチンかもしれない誰かが貴方に囁いている言葉ではなく、会いに行けない遠くのヤリチンが不特定多数に向けて書いた文章なわけです。つまり、ヤられることはないから一回口説かれてみちゃってもいいんじゃない?ってことです。目の前の男が「でも色んな恋愛を経験することで見えてくることもあると思うんだよね」って言ってても「お前がヤりたいだけだろ」としか思えないわけですけど、「ヤりたいだけだろ」という確信が正しかったとしても、その言ってる内容が正しいか間違ってるかはまた別の問題で検証する価値があるわけです。しかしだからと言って言葉通りにヤらせてしまっては向こうの「ヤりたいだけだろ」を満たしてしまうだけだったり。と考えた時に、じゃあこれは本なんだから、会いに行けないどこかのヤリチンの言葉なんだから、鵜呑みにしたところでコロっと乗せられてヤられる心配もないわけで、いっぺん思う存分耳を傾けてみてもいいんじゃないか。そしたら、実際にヤらせることなく「あの人のファースト彼女にはなれなかったけど彼と寝て私も人間として成長できたし色んなものを貰えたから私、全然後悔してないの」とか言ってるパッと見頭沸いてんじゃねえのとしか思えない女性の境地がどんなもんなのか体感することができるかもしれないわけですよ。「あの人との恋愛を経て私はやっと自立できるようになったの」って言ってる女はこっちからはうまいことヤリ捨てされてるようにしか見えないわけですけど、それが本当かどうか少しだけわかるかもしれないわけです。

いや、実際ね、僕もこの一冊を読んでちょっと桐谷ヨウに抱かれて捨てられたみたいな感じになってますから。大きく分けて「恋愛市場における自分の価値を高めよう」「意中の相手の気を引くためには」「一緒になった相手とずっと一緒になるためには」っていう三部構成になってるわけですけど、まず「そんなんじゃ男に相手にされないよ、ちゃんとしてたらかわいいはずなんだから頑張りなよ」みたいなネグを交えた口説きでその気にさせられて「でも、しょうもない男からモテたって仕方ないよね。本当に良いパートナーを見つけるためにはもっとアグレッシブに、臆病がらずに相手のことを知ろうとしなくちゃダメだと思うんだ」みたいなことを言われて抱かれちゃってさ、と思ったら「君が幸せになれるパートナーに出会えることを心から祈ってるよ、ただしそれは俺じゃないけど」と言わんばかりに彼女との実体験を交えた一人の人と長く一緒にいるためのコツが飛んでくるわけですよ。これは読んでて、もう俺完全に桐谷ヨウにヤリ捨てされてるなと思ったもん。その一連の流れで俺が成長できたかはわかんないですけどね、一段オンナが上がったかはわかんねえですけど、そういう感覚をケツの穴無傷で体感できたってのはこれなかなか不思議な経験だったなと思うわけです。

つまり、もし仮に、自立した恋愛をするためには一度「えいやっ」と思い切る必要があるとしても、「だから寝ようよ」と口説いてくる男なんか放っておいて、この『でも恋』に「えいやっ」と本気で飛び込めば事足りるはずなんです。

人と人とがどうあるべきかって話をどういう風にしたところで、それを言ってる奴は人以外にありえないわけですから、誰かがそれを言った次の瞬間それはポジショントーク的な色彩を帯びるわけじゃないですか。すごくシンプルなことを言いたいだけなのに、人間ってのは社会とか関係性の中で本当の意味でフラットになれることはありえないから、そのままのことをそのまま言うのがすごく難しかったりする。その言葉を見つけて手繰り寄せて自分の口から出すことができたのも関係性のおかげで、ただしその関係性ゆえにその言葉が言葉どおりに受け取ってもらえないのってすごくありがちな光景です。恋愛の四苦八苦っていうのも結局そこらへんが原因というかそういう行き違いを生み出させたら右に出るジャンルはないだろうってのが男女の仲だったりするわけで、関係性の中でどういう風に受け取ったらいいのかわからない言葉だったり、関係性を考慮せずに発せられた足りない言葉だったり、そういうものに溺れながらみんな苦しんでるんだろうなと思うわけです。僕だってそうです。(勝手に巻き込んでくれるなという人がいることを承知で言いますが)ある意味で全員が全員プレイヤーなわけですから、例えばこの本に書かれている言葉を俺の隣の席の学ランからフード出してる奴が言ってたら俺だってとりあえずは「調子良いことばかり言って人の気を惹きやがって」と身構えますけど、そうはならずに素直にそのまま言葉を受け取ってもらうにはどうすればいいかっていうとすごく難しいけどそこを乗り越えられる信頼関係を構築するか、あるいは全くの他人になってしまうことの二つに一つしかないわけです。

恋愛という一番そのまま受け取ってもらうことが難しいジャンルでこれまたそのまま受け取ってもらうことが難しい脱力系ヤリチンという肩書のもと、それでも言葉を投げかけ続け、これは想像にすぎませんが言葉を紡ぐ中でたくさんの人との信頼関係を作り、その一つの結果として書籍の出版に漕ぎ着け、ついぞ著者と読者という最高に他人同士な関係性を獲得した桐谷ヨウさんの言葉が、一人でも多くの読者にそのまま受け取られ、そしてその人の人生を豊かにする一助となることを願っております。この度は出版、誠におめでとうございました。

なお、鳩はハラワタぶっこ抜いて代わりにターメリックライスを詰めてオーブンで焼いて食べました。おいしいかったです。以上です。