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好意の返報性があったとしても興味の返報性なんざ俺にはねえ

人に優しくされたければまずあなたが人に優しくしなさい。大いに結構。

人に好かれて悪い気のする人間などいない。大いに結構。

世の中には返報性の原理っていうものがあるらしくて、例えば好意の返報性つってな、人に好意を向けられるとこちらも好意を返さなくてはなって思うのが自然なことだそうだ。俺もパンなんか貰っちゃうと集めてるかっこいい形の石をお返しにあげたくなるもんな。だってパンうまいもんだからパン貰っちゃったらすべすべの石をあげたくなるのが人情じゃん。

それでこの返報性の原理っていうのは文脈によっちゃ処世術つまり世渡りのコツとして紹介されることがあるわけだけれども、それだって大いに結構。一人じゃ生きられないこの世の中、人と楽しくやるのはどうかすると何より大事だと言ったっていいくらいだ。それ自体はいいんだけど、返報性の原理でやり取りするのって好意だけで十分ですよね。好意には好意だけを返せば十分ですよね? 僕はそう思うんですけど、お前らどうですか?

生きてると他人に褒められることがあるんだけど、褒められるとまあ悪い気はしないんだ、人間だから。僕は元来から単純な性格なもんで、産まれた時に取り上げてくれた産婦人科医の「パパだよ」っていうジョークを真に受けて幼稚園のお絵かきでもお母さんと本当のお父さんと産婦人科医の3人を描いてたくらいですから、手術衣と帽子を描くために緑のクレヨンの減りが早ぇ早ぇ。この世に生を受けてジャスト2秒で騙されるくらい単純な性格ですから、人に褒められるとそのまま素直に「ああ、憎からず思われてるんだな」と思うわけです。そうなるとやっぱここでも好意の返報性ってのが働いて、その人の言うことにはちゃんと耳を傾けようとか落ち込んでたら一声かけようとか思うわけです。でもそこまでだね、俺の好意ってのはここらへんまでだね。

世の中の一部に見られる変なポジティブさがどうにも肌に合わなくてイライラすることが僕はずっとあったのだけど、思うにこの返報性の原理っていうやつが好意の領域に留まらずやたらに拡張して交換されてる気がする。たとえば俺がなんか言って「面白いですね」「興味深い話ですね」って言われるとするじゃん。それで悪い気はしないんですけど、じゃあそれ言ってくれた奴がどっかでこんなん面白くねえですかって話をしてたらもちろん俺は好意からそれに耳を傾けるよ。ここまでが俺の好意の返報性。でもそれを「面白れぇな」って思うかどうかについては、返報性の原理は俺いっさい働かないかんね。面白れぇなと思ったら面白れぇって言うし、面白くもねえのに面白れぇなんて絶対言わないですから。そこだけは返すも返さないもない。俺のもんです。それが当たり前だと思ってたんだけど、どうも最近これは俺に限った話で別に当たり前じゃねえんじゃねえかって気がしてきた。

自分の話に関心を持ってもらえたから相手の話にも関心を向ける。自分の話に価値を見出してくれたから相手の話にも価値を見出す。こういう関係性ってポジティブで建設的で美しいと思う人にはそうと思えるのかもしらんが俺には全くそうは思えん。なんだったら「私はあなたの話を興味深く面白がって聞いたんだから、あなたも私の話を興味深く面白がって聞いてくれますよね」みたいな無言の圧力を感じることすらある。糞食らえだ。そんなつもりなら俺の話なんて面白がって聞いて要らない。そんなお前ごときが面白がるまでもなく、俺は最初っから勝手に気持ち良くやっている。他人にとって面白いかまでは知らんが、気持ち良くやっている。それもできずに返報性の原理を使って人に頼まないと気持ち良くやれないならやめちまえばいいんだよと思う。

仮にこれを興味の返報性とか価値判断の返報性とか呼んでみましょう。相手に興味を持たれたから、興味を持つ。相手に正しいと言ってもらえたから相手も正しい。相手に価値を認められたから相手にも価値を認める。なんかそういうの多くないですか? もちろん昔から気に入られようと思って心にもない世辞を言うってのはどこにでもあった話です。しかし、たいてい世辞を言う側と言われる側には明確な上下関係があって、だから気に入られた先に求めるものってのももっと具体的で実利的であることが多かったような気がする。最近はなんか違うんだよなぁ、横並びの同じところにいるような人らがやたらに互いの価値を認め合って自分の価値を確認してやがらぁ。

繰り返すに好意の返報性ってのは、それ自体僕は別に悪いこっちゃねえと思うし、そういう風にみんな仲良くやってこうぜと思うんだ。でも、好意には好意だけ返すのが筋ってもんじゃねえのか。むしろ好意ってのはただ好意なだけだから良いもんだとすら思う。価値があろうがなかろうが面白かろうが面白くなかろうが正しかろうが正しくなかろうが、それでもまぁ嫌いじゃないよってのがそもそもの好意じゃねえのか。それだけじゃ足りないからって価値とか正しさまでお互いに認め合わなきゃ気が済まないなんてそれこそ無垢な好意を軽んじてやがる。

もちろん好意だけじゃ足りなくって自分の価値を高めたいんだ、人に興味を持たれたいんだって思うのは一向に構わんことだけど、そのためにやってることが人の価値を認めて回って歩くとか人を面白い興味深いと順番に褒めそやしてやることだと思ってるのなら、そんなものは俺は絶対つまんねぇなって思うし、むしろ面白かろうがつまんなかろうがそのままにそれをお互い伝え合って意見を違えることも多分にあろうが、好意によってすれ違うこともなくあーでもないこーでもないと言えるところからこそ、面白れぇもんは出てくるんだろうと思ってる。

そういうわけなのでこの記事に「なるほど、参考になります!」とか「勉強になりました!なかなか興味深い話ですね」とかコメントすると俺に「うっさいわ隕石当たれ糞が」と思われます。以上です。