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テレビの嫌な部分は十年二十年で見ると真似しやすい形に洗練されてきてる

読んでとりあえずテキストエディタ開いたけど何書くかひとつも決まってません。

僕は乳離れが早かった代わりにブラウン管を舐めて育ったくらいの筋金入りのテレビっ子なんですけど、別にだからってテレビを全肯定しなくちゃならんわけでなし、まぁこちらのエントリで言ってる話は全然意味わかりますよね。

そのうえでどうしてこうなってるんやらどうすりゃいいんやらみたいな話を取り留めなく書こうと思い、筆を執りました。筆を執るって言いますけど実際は筆では書かないんですけどね。だからテキストエディタ開きましたとか言うんですけど、これも微妙ですよね。なんかちょうどいい慣用句ないもんですかね。正確にそのままに言えばキーボードの上で指を虎咬拳みたいに構えたなんですけど、ダサすぎて泣ける。

それでまあ思ったこと順番に書くんですけど、まずこういうテレビの話になるとよく聞く言い回しで「最近の芸人は芸がない」ってあるじゃないですか。お前らどんだけ気に入ってるねんってくらい言うじゃないですか。なぜ同じことを繰り返して二度も三度もどや顔なれるねんって思うんですけど、確かに俺もブルネイ・ダルサラーム国って語感が好きで何度声に出しても笑顔がこぼれちゃうけどそれと同じシステムなの?と思うんですけど、あれでしょ? 芸ってなんか他人の力も借りず外部の誰かを巻き込んだり傷つけたりせず、舞台に立ってる人らだけで完結した表現で人を楽しませるみたいなそういうことでしょ? それで言えば、別にみんながみんな芸ができんってこたないんですよね。年末年始、なんか漫才とかいっぱいやってたよ。あとテレビには映らないけど劇場とか営業先でも結構みんなやってるみたい。そういう芸のひとつひとつに対して個別の好き嫌いはあっていいと思うけど、その好き嫌いを以って「最近の芸人は芸がない」って言ってるならそれは「俺が面白いと思わないものは芸じゃない」つって虎咬拳の構えをしてる人みたいなもんなのであんまり相手にしたくないじゃないですか。

たぶんテレビを見てて「最近の芸人は芸がない」と思うなら、芸人はテレビで芸したって仕方ないからしてないってことなんだろうなとか思う。というか、芸で持たせられる時間とか期間はごく限られてるから、芸だけでテレビをやろうとしちゃどうにもならないんだ。こういう話題だと、テツandトモが誰も傷つけずみんな笑顔にしてあれこそ芸だって持て囃されるけどアレを朝昼晩3回を毎日見るってなったらキツいでしょ。一日3回テツandトモを見てる俺なんでだろうってなって最終的にそれは憎しみに変わってしまうじゃないですか。だからあの人たちは年に何回かテレビに出るだけであとは地方営業をずっとしてるんだろうし、流星群はその時しか見れないから有り難いわけで毎日見れるんじゃ芸は死んでしまう。いいや、それでも死なないのが芸なんだ、と言い張る奴にはそんなわけねえだろつって志ん朝版時計仕掛けのオレンジの刑に処す。寝ずの志ん朝つらいぞ~。優れてようと優れてまいと芸なんてずっと見るのはしんどいもんなんすよ。まぁ、芸しかできない一発屋がポッとテレビに出まくって大半がそのうち消えていくのもそういう話なわけで、正月のネタ番組も楽しかったけどアレ毎日やってたらキツいわけで、テレビの芸人は芸以外のことをやらなくちゃならないってのはありそう。お客を飽きさせないためにも、自分が飽きられないためにも。テキトーなことを言うと、芸事はもともとハレで、テレビもハレ的なものとして始まったのでしょうが、現状のテレビの機能ってケだよねって話でもありそう。

さて、本当の意味での芸に頼ってると先が続かないわけで、じゃあどういうやり方をすればテレビはケケケの365日をハレの気分でお届けできるだろうかって考えた結果、誰かを馬鹿にしたりだとか誰かを痛い目に合わせたりとか、そういう要素を織り交ぜるのがどうも一番よく回るぞって結論になったんでしょうね。それもケの雰囲気を微塵も感じさせない馬鹿で大掛かりなものほどウケるぞって結論になったんでしょう。これ自体は良いか悪いかで言えば良くも悪くもない話で、それを面白いと思う人もいればけったくそ悪いと思う人もいるでしょう。その割合が少しずつ変わっていってるということなのでしょう。または割合が少なかろうとそいつらのけったくそ悪い気分を無視できない感じになってきてるのでしょう。

それはある意味では真っこと昔から脈々と続いてる本当の「芸」が少数精鋭で表現していた笑いを、その構成する諸要素を大勢のタレントで役割分担して365日回そうと最適化した結果で、あたかもそれは大量生産を目的として化学調味料がふんだんに使われた料理みたいなもので、その雑で舌に障る味で嫌悪感を示す人も当然いるよなぁ、みたいな言い方にもなるのかもしれません。

ところで先に引いたエントリの中では「テレビと一般社会が地続きになってきてる」って話が出てたんですが、地続きって何って考える。でもそれを考えようとすることがもう地続きなのかもしれない。「イヤなら見るな」という言葉は好きでも嫌いでもないけれども、テレビにこうあって欲しいこういうことがしないで欲しいって思う人が少なからずいるってことはそれはやっぱ地続きってことなのでしょう。馬鹿が真似するからあんまり過激で危なっかしいことはやるなよって最初に言い出した時、それこそが薄氷ながらもテレビと一般社会が地続きになったきっかけで、あれもするなこれもするなって文句をつけていくことでその地続き具合は強固なものになっていったんじゃねえかなって気がするんですよね。

単純に僕が子供ながらに思ってたのが、ビートたけしが人間大砲とか鉄板の上に宙吊りで焼き肉食わせたりとかしてて、ごっつでダウンタウンが乳首相撲やったり転がってくるボーリング球を頭で受け止めたりとかしてて、それでその後にナイナイがサイコロの目が出た奴がハリセンでしばかれたりとかやってて、なんか時代が進むにつれてどんどん素人でも真似しやすくなってるなってことなんですよね。たぶん「子供が真似するから、子供に悪影響だから」みたいな理由で色んなものにクレームがつくじゃないですか。すると、目立つとケチつけられますから、一秒で明らかに馬鹿やってるってバレたらケチつけられますから、作ってる側は目をつけられないように派手さを押さえると思うんですけど、それって要するに悪ふざけがどんどんスケールダウンしていくってことで、つまりご家庭でもお気軽に再現できる方向に進んでいってたってことだと思うんですよ。だってしりとり侍は学校の休み時間で簡単に遊べるけど(いじめだけど)、M奴隷豚の格好で動物園のカバにパイぶつけるのはおいそれと真似できねえじゃん。それで、そういう傾向の行き着いた先が、誰かをフランクに馬鹿にするトーク番組なんじゃねえの。食べ物粗末にしてもダメだし、大掛かりな人が痛い目に合う装置を作ってもダメだし、じゃあもうスタジオでお喋りしとくくらいしかないよねつって。かくして、ちょっと頭の回転が早くて口の回るやつだったらお手軽に一般社会でも利用できる人を笑い物にするテクニックがお茶の間で簡単に紹介されるようになりました。

だから仕方ないって正当化するつもりもないし、笑いっていうのはそういうもんだって居直るつもりもないけど、現状の今のこの感じってのはそういうことなのかな~って気はする。まぁ僕はもちろんテレビっ子なもんで、これはテレビのいち側面でしかないと思ってるし、ちゃんと面白い番組ってのも無いことはないというかここ何年かで増えてるなーって素直に思うし、そういう新しい健全で面白いもののフォーマットが増えれば(ゼロになることはたぶんありえないが)ゲスな番組も相対的に減ってくだろうし、あるいは日本最高番組がもっと増える形で減ったりもするかもですね。それもどうかと思いますけど。

あと、そういうゲスないじりがお嫌いな人も多いようで、容赦なくいじっていいスター発掘に最近は力入れてるみたいな話は、まぁ手垢まみれだし別にいいか。

そういうわけで、書きたいことはあらかた書ききったので今、タイトルもテキトーにつけました。タイトルとして適切かわかんねぇけど。でも一番思うのは、やっぱ日常生活で合意なくテレビの真似する奴はアンポンタンって常識が浸透するのが一番ですよね。以上です。