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2015年暫定賛歌

暮れも暮れたり2015!

はい、そういうわけで寄り目で始まりましたけどもね、歌舞伎の名乗りみたいな感じで言ってみましたけども。「れも」と「れたり」の部分、だいぶビブラート利かせてるイメージで。口もだいぶボディビルダーみたいな感じでダンベルと結ばれた荒縄を口で持ち上げる人みたいな歯の喰いしばり方で、暮れも暮れたり2015! ダンベルの両端をそれぞれ荒縄の両端で結んでるみたいな感じならまだバランスいいですけど、ダンベルの片方に結んでもう一方の荒縄の端を噛んで持ち上げろとなると話はだいぶ変わってきますけども、これでもかってくらい首を傾ける悪意しかない吉田美和のモノマネみたいなりますけども。吉田美和は歯ぁ喰いしばってるのあんま見かけないのでそういう意味では貴重ですけどね、いっつもこれでもかいうほど大口開けてますから歯ぁ喰いしばってるのも貴重なんですけども。あの、観光地とか微妙な田舎の一大ショッピングモールとかでもよく見かける似顔絵屋さん、あそこの店頭に飾ってるサンプルに吉田美和があんまりいないのなんでなの? 知名度がないから?誰が描いたって似るから? 浜崎あゆみとかよく見かけて「ひでぇデフォルメだなぁ、まぁでも似てるかなぁ」とか思うじゃないですか、でもいざ自分でアユの似顔絵描けって言われたらそれは無理だなってなりますよ。でも、吉田美和なら……! 吉田美和くらいなら頭テキトーにトップでお団子にして、口をすげぇでかく書いて、歯をギザギザにしとけばテキトーに似てる感じなるんじゃねえかなって思うんですけど、ってそれお前最後シャークやないか!歯をギザギザにて何やねん! 口がでかいのは事実だから仕方ないにしてもシャークみたいなトゥースではないやろ吉田美和! おい!なんで今トゥースって言うたんや! さっきまで普通に歯ぁ喰いしばってって言えてたじゃねえかよ! なんで突然トゥースって言ったんだ!なぜ韻を踏んだ! 答えろ玉木宏! ここでクロレッツの白衣着た玉木宏が出てきてもう一悶着みたいなのできるんですよ。全然できるんですけど、俺、とりあえず「今年も終わりですね」くらいの意味で「暮れも暮れたり2015!」って一行目を書いただけなんですよ。もうこれ1000字近く書いてるわけですけど、俺の感覚的には一行しかまだ進んでないんですよ。一応、暫定賛歌ってことで、マジメにやるつもりだったんですけど、このザマですよ。だから玉木宏には一回退場して頂きまして、最後に一つ大事なことだけ言わせてもらって、この下りは切り上げたいわけですけども、つまり、だから、やっぱ吉田美和が似顔絵屋の店頭に飾られないのは誰でも描けるからだと僕は思うんですけどね。

賛歌、みなさんも如何でしょうか。一曲歌いませんか、暫定賛歌。賛歌、それは自分が目の前にいる貴方に、遠くにいる彼方に、そしてこの世界に向けるまなざし。それを言葉に歌に直してみたものです。それが賛歌。わしの目が黒いうちは、このビスケットはこの世にオンリーワンだ!! 普段はトラクターに乗ってそうな麦わら帽に白髭を蓄えに蓄えたオーバーオールのジジイがポケットを頑なに守ってますね。ポケットの中にあるビスケットを庇うように干し草の山の上をゴロゴロしていますけれども、誰かにポケット叩かれちゃうとビスケットが増えてオンリーワンの存在じゃなくなってしまいますから。誰だって特別でいたい。オンリーワンの存在でいたい。惨めだろうと何だろうと、私はこの世に一人だけ。オンリーワンであることが最古にして最大のアイデンティティなのだ。だからジジイにとってはビスケットを分裂させないことがイコールアイデンティティを守るということなんです。だからジジイは守る。干し草を転がりディフェンスに徹してポケットを守る。干し草はそこらへんの野良猫が勝手に出産場所に選んだりするので生後間もない猫の赤ちゃんをうっかり踏んでしまわないよう気をつけよう! そんなこんなでサイロのジジイは捨て置いて話は戻りまして、「わしの目が黒いうちは」とも言うように、私たちのまなざしは、常に変化を伴っている。だから、歌いましょう、暫定賛歌を。それは確定的な不可逆的(笑)な賛歌じゃない、日を追うごとに行ったり来たりの、ひとつだって永遠不変の自信なんかないどこまでも暫定的な暫定賛歌だ。でもそれを歌うほかないじゃない。明日は違う歌になっていたとしても、あの時、何をまなざして、何を愛していたのか。残しておいたっていいじゃない。だって、知っておきたいじゃない。今の桃井かおりのモノマネです。

ここでプレゼントクイズ。「今の桃井かおりのモノマネです」とは言ったものの、今のってどこからでしょうか? ①だって、知っておきたいじゃないから。②でもそれを歌うほかないじゃないから。③ビスケットを守るジジイの下りを含めた全部。正解だと思う番号を必ず書いて送ってください。ご応募いただきましたみなさまの中から抽選で三名様に、よく燃えそうな干し草とジジイの何かしら部位をプレゼントいたします。みなさま、振るってご応募ください。

しかし考えるにまぁ今年は、公私ともに人の顔をよく見る一年でした。今の公私っていうのは、公がズイショさんのことで、私ってのはズイショさんの中の人のことね。お前らからするとそれ両方ズイショさんじゃねえかってなるかもしれないけど、俺の中では全然違いますから。ズイショさんがパブリックだとかちゃんちゃらおかしいとか難癖つける人の中から先着で5億名様に、ご飯を入れる前のつけめんの残り汁にぶち込む真っ赤な熱っつい石を、貴様のお口に直接お届けいたします。今のボケはR-18なので全年齢向けの場合は飯を入れる前のつけめんの残り汁にぶち込む真っ赤な熱っつい石ではなく、バブになります。

去年の11月かな、ブロガー万博とか言ってオフ会やってね、ブログに関しては去年はたぶんそういうことをやったなって一年だったんですよ。で、今年はそれを拡張していってね、そういうことをやるのが当たり前になりましたね。別にオフに限らず、個人としてのパーソナルな人格としての人間の顔をちゃんと見るって機会が多い一年でした。2日間誰も更新しないと終わる集団ブログであるところの「ふくらんでいる」は今も何とかかんとか続いています。みなさんありがとうございます。メル友企画で募ったメル友らとの交流は今も続いております。ありがとうございます。その他にもブログやtwitterを通して日々遊んでくれている方たくさんいます。ありがとうございます。ヤバいよヤバいよ、ちょっと円谷幸一みたいなってきたよ。お母さん、ヒノキの香りのバブ、おいしゅうございました。で、まぁ結論から言うとちょっとやりすぎたなとは思いましたね。しかしこれは別に悪い一年だったというわけではなくて、なんつーか焦燥を「過去の自分や他人を否定すること」でごまかそうとするみたいなのあるじゃないですか。そんなの嘘っぱちなんですけど、口が回らない僕としてはひとことで言えば「やりすぎたな」って言い方になります。でもまあ必要なことだったのだろうと思います。10年後には素直にそう思えるのでしょう。しかし、今は「やりすぎたな」と言うことでしか、僕には処理することができない。後悔ではないのだけれど、来年はもう少し心の持ちようを変えなくてはならんなみたいなことは思いました。

貴方がこの世界の果てにしかいなくって僕は彼方まで歩いていつか貴方に出会うんだ。それが僕の夢なんだということと、世界はいつだって貴方の向こうにしかないということ、これはまるっきり矛盾しないわけで、今年はきっとそれを確認した一年だったのっでしょう。勿論、僕も寂しがり屋なんでねぇ。来年もみなさんいっぱい遊んでください。だけどね、だけど僕自身の心持としてはもっと貴方の向こうの世界を見なくてはってそう考える一年に次の一年はそういう一年にしなくてはにゃらんなとも思っているんだね。例えば文章に関しての話で言っても、来年はもっと人の顔なんて見ずに白目で文章を書かなくてはならんなと思う。彼方の貴方に会うために、僕は瞼の向こう側を覗かなくてはならない。瞼という薄皮一枚もなしに僕が何を見果てることができるだろうか。だから僕はもっと白目を剥かなくてはならない。振り返ればそこにある顔は、さんざ見て脳に焼きつきました。良い一年だったということです。似顔絵なんて描けないけれど、あんな糞みたいなデフォルメじゃなくて、貴方のそのままの顔が、脳に焼きつきました。だからもう振り返らなくていいんです。また会いましょう。きっと彼方で会いましょう。

以上、2015年暫定参加とさせて頂きます。今年も弊ブログに足繁く足繁き頂き誠にありがとうございました。来年も足繁き賜りますようよろしくお願い申し足繁からんことを。良いお年を。