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「読むという行為」「書くという行為」と記憶を巡る冒険

こちらタイトル通りの記事なんですが、こういうのはどうしても覗きたくなっちゃいますよね。ほら僕って自意識過剰なところあるじゃないですか? あと猫好きだけど構いすぎて猫の方からは嫌われちゃうみたいなところもあるじゃないですか? 猫をシーソーの片っぽに座らせて反対側に僕がドーン!って乗って宙に飛んだ猫をキャッチみたいなことをやろうとしてたら猫がタンスの上から一切降りてこなくなるみたいなそういうところ僕あるじゃないですか? 自意識過剰の時点で「知らねえよ」だったのが猫の話題になって純度100%の「知らねえよ」になりましたけども、やっぱそういうところあるんで「もしかして俺の名前出てたりしないかな?」とか思ってついつい覗いちゃうんですよね。最近あんま見かけませんけど「読んでるブログ特集」なんかやられた日にゃ、もうね。で、名前あると嬉しいんだけどあったらあったで厄介なんですよね、ほら僕って自意識過剰なところがあるじゃないですか? 悲しいかな人は変わっていく生き物だから、今はそこに僕の名前があったとしても明日同じようにあるかはわからない、だから好きなブログとかに僕のブログを挙げられたりなんかした日にはもうお前は二度と生涯好きなブログを挙げるなよ、その時俺の名前がなかったら泣くからみたいな気分になりますからね。勝手に俺はそれで女の子に告白されたと思ったら罰ゲームだったみたいな気分になりますから、それならもう最初っからそっとしといてくれよ、夢見させるようなこと言うなよ。あいつも三年間頑張ってきた男なんだ、侮ってはいけなかった。

ね?超めんどくさいでしょ?もしあなたが猫だったら絶対こんなやつのところ寄ってこないでしょ? じゃあ帰れ!この村からさ出てけ!もう放っといてくんな!あんたらにやる温泉卵はないよ!にこごりもないよ!

それで、このエントリには僕の一文も紹介されていて、もっと、もっとホメてくれ。それが「つまり全員チェーンソーで膝下からぶった切ってやりたいくらい混雑していました。」というものだったんですが、それで僕が少し困ったのは、「あれ、コレって元ネタあるんだけど知ってて引用してんのかな?」ということでした。その旨をtwitterで表明するとレスポンスがあり矢張り知らずに引用していたとのことだった。そこでまず元ネタを紹介しますが元ネタを紹介するということはネタバレになるということなので各自自己責任で帰れ!ネタバレを避けたい奴はこの村からとっとと出ていっとくれ!この村にコンビニはないよ!バーミアンもないよ!

はい、元ネタどん! わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天に産湯をつかり、名作ホラー映画『ゾンビ』のリメイク作品、『ドーン・オブ・ザ・デッド』、人呼んでショッピングモールでセックスと発します。ほら、だって俺言ったかんね!ネタバレに注意しろって俺事前に言ったから悪くないかんね! 人呼んでショッピングモールでセックスと発します! ゴキブリでもない、ネズミでもない、ショッピングモールでセックスと発します!

「そりゃ、マックロクロスケだな。」

セックスだって言ってんだろが! しげさとの馬鹿、もう知らない!

それで、この映画は、ゾンビ感染で廃墟になってしまったような世界でショッピングモールに立てこもる人たちがセックスしたりする映画なんですけど、最終的にずっと立てこもってたって仕方ないだろって話になってマイクロバスかなんかで脱出を試みるんですね。で、外はもうゾンビで溢れかえってますからそれなりの武装をしてマイクロバスでの突破を試みるわけですけど、このマイクロバスの側面にですね、なんか細い溝みたいなのが水平にダーッと作られてるんです。レジのカード通すとこみたいなああいう溝、あのWAON通した時「わおん!」っていうの「馬鹿にしてんのか?」ってなりません? ガキのおもちゃじゃねえんだぞ、こっちは立派な経済活動やってんだぞって気分になりません? あと最近の特撮ヒーロー、おもちゃにして売る前提が前に出過ぎて、変身アイテムとか武器の使い方とか造形の方がおもちゃに寄ってるのすげえ納得いかないんですけど。「できる限り作品内の雰囲気に近づけて再現度の高いおもちゃにする」がひっくり返って「おもちゃとして再現できるような武器にする」みたいな感じになっててそれはどうなの?っていう。M-1のトップバッターの点数がその後の目安になるので88点から92点くらいの幅に収まりがち問題に通じる「なんか違うくないか?」感を僕は感じるんですけど、それでその溝を何に使うのかというと、そうです、バスの内部からチェーンソーの刃だけを外部にニュッと出すことができるんですね。それでバスで表に出たはいいもののワラワラと四方八方からゾンビが寄ってきて身動き取れなくなるの。そこで「よっしゃ任せとけ!」つってチェーンソーの刃をニュッと出してエンジンかけたら端から順番にゾンビが膝から崩れ落ちてくの、だって膝のあたりで切断されてるわけだから。超面白くない? いやー俺は腹抱えて笑ったね。なので、あのフレーズというのはそういう元ネタがあったうえで出てきたフレーズなので、僕の完全オリジナルでもなければツクダオリジナルでもないのです。

なので、もし完全オリジナルだと思われてるならそれは少し申し訳ないなと思い説明したのですが、だからといって殊更に悪いことをしたとは思っていません。このエントリを書き終わったら当該の甲子園エントリを読みに行こうと思っていて、つまり僕はまだ読んでいないのですが、僕はきっと甲子園のチケットを買い求めんとする人の群れを見て「こいつらゾンビみたいだな」と思ったのでしょう。人々を見て「ゾンビみたいだな」とも思ったし、そう思わせるほどに、甲子園前の景観が「ゾンビがウロウロしているのが似合う」景観であったのではないかと思います。それで僕は「チェーンソーで膝下からぶった切ってやりたい」という言い回しが咄嗟に出てきたのだと思います。そして、その文字列を読んだ瞬間、元ネタを知る人はきっとそのことに思い当たるでしょう。そして、「あれくらい混んでるのか」と思うはずです。あのバスの周りマジでめっちゃゾンビいたから。かと言って、その文字列が元ネタを知らない人に対して機能しないかというと決してそうではない。私たちは「脚」を知っていて「チェーンソー」を知っています。そしてそれら「脚」についての記憶と「チェーンソー」についての記憶を組み合わせて、直立する人間をチェーンソーで膝下からぶった切るとどうなるか想像することができます。そして、それを望むような混雑がどれほどのものであるかということもまた想像することができます。つまり、文章や表現というのは、書き手である私と私の記憶との対話であると同時に読み手である貴方と貴方の記憶との対話であり、それらを通じて私と貴方が対話する可能性が今書かれている読まれているこの文章に存在しているのです。

ここまで読み進める過程においても、貴方は、たびたび脱線する話題の中で唐突に脈絡なく登場する前後の文と紐づけて解釈することが難しい情報を処理するために幾度となく貴方自身の記憶との対話を試み、補完してきたのではないかと思います。僕だってそうです。私はここまで書き綴る過程において、自身の記憶へのアクセスを望む望まないに関わらず何度も繰り返し、時には混線し、そしてその混線すらもそのままに受け容れ掬い上げこうしてここまで書き進めて来たのです。そこに一塊の文章がある時、そこには何らかの役割があると考えられます。例えば「知識を与える役割」、あるいは「情報を伝える役割」、「共通認識を確認する役割」、その用途は文章により様々ですが、この文章はそして私の文章は「貴方が貴方の記憶と向き合うための役割」を担っています。その役割を果たすために私もまた私の記憶と向き合っているのです。そして、記憶と向き合うという行為は貴方にとっての物語となり、物語は貴方自身にまた働きかけそしてそれがまた貴方の物語へと変容していくのです。この文章そのものは今私が書いているこの瞬間、物語ではありません。しかしこの文章が貴方に読まれている今この瞬間、文章と貴方の目が合っている今この瞬間、この文章は媒介となり今ここに貴方がこの文章を読んだという物語が生まれました。そしてこれはなにも文章に限った話ではありません。私そのものも貴方そのものも、物語の当事者であり、同時に他者の物語の媒介でもあるのです。

今では私がおじいさん、孫にあげるのはもちろんヴェルタースオリジナル。私もあなたの数多くの作品の一つです。

赤塚不二夫生誕80周年記念作品『おそ松さん』、絶賛放映中! みんな見てね! これでいいのだ!

以上です。