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「正しさ」は「怒りを正当化する理由」にはなるが「怒る動機」そのものではない

読みましたー。

あーね、わかるわかる。僕も日常生活ではどっちかっていうと油断すると正しさを振りかざしちゃう方なので、思うところがありました。

それで、僕が、今からする話は、特に怒る側に向けた話でも怒られる側に向けた話でもなく、ましてやどうしなさいということも恐らく書かれない。

「きっとこういうことなのだろう」という仮説が述べられるにすぎないので、それを踏まえて「ではどうするか?」は各自好きにしてください。

 

「正しさ」は、「怒りを正当化する理由」にはなるが「怒る動機」そのものではない。

 

僕たちは、「正しくないこと」そのものにそんなに怒れるほど、立派で殊勝な奴だろうか。

そりゃあ、正しくないことは正しくない。正しくないのなら、怒りつけたっていい。こちらが正しければなおさらだ。

しかし、どうしても怒らずにはいられないのは、正しくないからだろうか?

正しさは怒っていい理由にはなる。しかし、怒る動機たりえるだろうか?

もし、正しさが怒る動機たりえないのであれば、真の怒る動機はどこにあるのだろうか?

 

例えばパートナーにお願いしていたはずの頼みごとをすっぽかされていることが二度三度続くとする。

これは正しくないので怒ったってよさそうだ。怒る理由としては十分だ。しかし怒りたい動機はどこにある?

この調子が今後も続くようではなにかと不安だとか、自分の言ったことが聞いてもらえていないようで不満だとか、蔑ろにされているようで悲しいだとか。

怒りの動機は突き詰めると意外とそんな感情に還元されるのではないだろうか?

さて、これらの感情ないし現象を解消するにあたって、「怒る」という行為は果たしてどれほど適切だろうか?

もちろんケースバイケースではあるわけだけれど、イの一番に採用するほど優秀な選択肢にはどうにも思えない。

だいたいあんだけ単純そうな犬っころだって怒るだけじゃあ碌に躾けられやしない。

ましてや人間同士で中長期的に友好なパートナーシップを築くには「怒る」なんて行為はそれほど有用な手立てじゃないはずだ。

そんな当たり前のことをなまじっか「正しい」ばっかりに忘れてしまうのだ。

 

このような話題で「正しすぎる」なんて言い方を時たま見かけるけれども僕はそれは少し違うような気がする。

たぶん「正しさに甘えすぎている」とか「正しさに頼りすぎている」とかそんな言い回しの方がふさわしいのではないか。

「正しさ」におんぶにだっこで喚きたてたところで、「正しさ」が代わりに説得交渉してくれるなんてことはないのである。

以上です。

 

 

【追記】2015/11/10 10:10

一つの口で同時に色々なことを言うのは難しいので他の人の口が言ってくれるのはありがたいことです。あわせて読みたいやつです。