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共に考えを深める相手は別にお前じゃなくても良い

これ読んで思った全然関係ないことをサクッとメモる感じで。あ、掲題の「お前」は別に上記のエントリを書いた人のことを言ってるのではなく、一般論です。

「誰が書いたか」「何を書いたか」の話はインターネットやってると定期的に土筆が顔を出したよ笑ってるよ晴天だよくらいのペースで見かけるわけですけど、この話題が盛り上がるピンと来なさが僕にはあって、たぶん「誰が書いたか」に振り回されすぎることが自分にあんまりないので、いやみんなそんなのあんの?マジで?大学教授が言ってることだから鵜呑みにしたりとかするの?と思って、いや、「何を書いたかじゃなくて誰が書いたかでしょ」派が拳を振り上げてるところってそんな見かけたこともなくて見かけるのは「誰が書いたかではなく何を書いたかでしょ」派ばかりで彼らが何と闘ってるのかの輪郭がよくわからん、自戒なのか誰かを批判してるのかもよくわからん、自分の中の「誰が書いたか」という判断基準と闘ってるんならそれどんだけなんだよ教えてくれよと不思議なんですけど、僕は一見もっともらしい言い回しが一見どころか本当にもっともだったとしても、それを恣意的に使えば非常に面倒で億劫な言い回しになりうるだろうと考える派の人なので、「誰が書いたかではなく何を書いたかで考えろよ。つまり俺を何を書いたかで判断しろ」という論法があんまり大手を振ってまかり通ると鬱陶しいと考える人なので、鼻で筆を取りました次第です。0か100しか出来ない馬鹿のアヒル口みたいな感じで唇をすぼめて、唇と鼻の間に筆を挟んで、その筆でタイピングしてます。今。

単純に、インターネットの話でいうと、人が居過ぎるんですよ。それはもう人が居過ぎる。そして、インターネットで繰り広げられるほとんどの議論というのは「その人一人だけが正解に辿り付ける」なんてことはなくて、「正解は何と言っても正解なのだから正しい道筋を辿れば辿り付けるものなのだから幾人もの人が辿り付ける」ものだと思うんですよ。つまり、目の前に「正解を言ってる人」がいたとしてその人の言ってることが正しいからと言って、その人と無理に迎合しなくたって、もっと探せば他の「正解を言ってる人」に巡り合える可能性って全然あると思うんですよね。そういう意味で、人の言っていることを取り立てるか取り立てないか捨て置くか捨て置かないかって話をした時に「誰が書いたか」てのは全然判断基準になるとすら思うんです。その瞬間に吐き出された言葉が、言葉尻が、たまたまほぼほぼ90度が4つ出現するようなクロスに交わった一瞬なのか、ウネウネと並走して度々交わりそしてまた今回も交わった邂逅なのか、それによって全然話は変わってくると思う。そのどちらであるかによって、その言葉を真に受けた後の展開というのは全く変わってくる。瞬間の連続によって続いていく僕たちの営みにおいて、その瞬間の正しさがそれ以降どれほど連続して持続していくかということは、その瞬間の言っていることとは別の軸で考えなくてはならんと思うのです。

つまり、何が言いたいのかというと、「何を言ってるかで考える」ってのは勿論正しいにしたって、「同じことを言っているAさんとBさんがいたのなら、どっちとより考えを深めようとするかは誰が言ってるか次第だ」ってことだとか、「何を言ってるかが正しかろうと、それを起点により貴方と言葉を交わそうと思うかどうかは別問題」ってことだとか、「ある一つの自分から指定した『何を言っているか』で自分を判断してくれというのは無理な話で、こっちはトータルでお前を判断しますよ」ってことだとか、そういうことで、我ながら難癖だな~と思うところも無くはないんですけど、やっぱそこをキレイに分けるのが当たり前となりすぎるのはイヤだな~と思って書きました。まぁ、なんつーか「何を書いたか」じゃなくて「俺が書いた」で否定されたんなら、一回俺を省みたってバチは当たらないんじゃないの、「何を言ってるかが重要」を免罪符にして開き直る人っていうのはますます「俺」の良さを損なう可能性があると思うので、「何を書いたか」への偏重があんまり罷り通るのも気持ち悪いよな~って話でした。以上です。