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20150305


上記読んで俺もなんか書こうかなと思ったので何か書きます。ちなみに今はサービス精神が限りなくゼロに近い状態なので普通の雑文になる見込みです。まぁ、いつもだけどね。その証拠に今ちょうど後ろから妖怪いつもじゃんジジイが僕に突然飛びかかって来たんですけど襖の向こうに控えていた僕の従者が槍で一突きにしたので間一髪、僕は事なきを得ました。足元には息も絶え絶えにキュウキュウと鳴く声が聴こえました。そうです、いつもじゃんジジイの正体は母を人間に殺されたかわいそうな子狐だったのです。これはかわいそうなことをした。合掌。

ブログをやってこんだけギャースカと文字列を綴ってたりすると、たまに「もともと文章を書くのが好きだったんですか?」とかいう質問をされるのだけれども「いえ、好きじゃないです」と答えるんですがなぜかというと実際に好きじゃないからです。文章を書くという体験について遡れば、やはり id:fktack さんのように小学校あたりまで遡る必要があるだろう。必要があるというかそれが手っ取り早そうだ。そういう最初の記憶を思い出そうとすると、きっと僕は作文が得意か苦手かでいうと得意であったし、実際にそれを書くのが嫌いではなかった。しかし、当時僕がやっていた作文というのは今僕がブログでやっているような文章を書く行為とはずいぶん勝手が違っていたので、「昔から文章書くのが好きだったんですか」と言われるとやっぱり「いえ、好きじゃないです」という結論になる。どういう話かというと、その頃の僕の作文というのは大人の目にどう映るかが焦点というか、そういう風に書くものだと思って書いていた節である。こういうことを書いておけばテキトーに先生とかにはウケるだろうとか、そういうことをまず思いついて、その思いついたことをそのまま書くだけであった。つまりは随分まえだまえだみたいな動機で書かれた文章だったのである。取り立てて「僕が思ったこと」とか「僕が伝えたいこと」とかを書いていた記憶はない。出来上がった文章には思ったことや伝えたいことを書いてやるんだという僕の意思が見てとれるように偽装はされていただろうし、実のところまるで全く考えてもいないことを書いていたわけではないのだろうけど(そもそも全く考えてないことを書くなんて不可能だ)今の僕が振り返ると、当時の僕はそのように書いていたとどうしようもなくそう記憶しているし、それが理由でやがて書くのが嫌いになったと僕の記憶の中ではそうなっているので、やはりそうだったのだと思う。

やがて僕は作文が嫌いになった。それは、僕はまえだまえだと違ってちょっと大人を喜ばせたところでお金がもらえるだとか仕事がもらえるだとかそういう立場にもなかったので、大人を喜ばせることが面白くなくなってきたからだ。そういえば細かく説明しないと誤解されそうだなと今気づいたので書くけど、大人を喜ばせるというのは如何にも優等生みたいなことを書くというのもあるけれども、逆にどうしてそう思ったのかは理解できるような範疇で顔をしかめさせるようなことを書いて「こいつは一癖あるやつだ」と思わせるのもまた僕の中では大人を喜ばせることに含まれた。後者はいわゆる逆張りみたいなものだ。そう考えると、僕は小学生の頃の方が今よりよっぽどオーソドックスなブロガーみたいなことをやっていたような気もする。しかし、そうやって大人の反応に一喜一憂しているのにも限度がある。基本的に人間のオスというやつはどうしようもない馬鹿なので大体にして年が十を数えたあたりから早くとも20代の半ばくらいまでにかけては何の根拠があってか大人をナメるようにできている。そんなやつらの気を引いたって仕方ないなと思い始めるのだ。そうして「大人にウケるように」という自分に課していた条件がなくなってしまい「思ったことを自由に書きましょう」という条件だけが残ると、文章を書くという行為は忽ちに僕にとって大変苦しい作業となったのである。という自分の当時を振り返ると id:fktack さんの言うように「思ったことを自由に書きましょう」なんて言い方はよっぽど不親切だ。文章を書くのが本当に心底苦手なんですって人はたまに見かけるし読ませてもらった感じ「こいつ本当に苦手なんだな」と思うことも実際にあったりするけど、それは文章が下手だからそう思うのではなくて「どうせ自分の書くものなんてつまんないに決まってる」っていう苦手意識が見てとれるからそう思うわけで、その苦手意識さえなければよっぽど愉快な文章じゃないかと思うのだけど、その苦手意識っていうのは大抵の場合学校教育の中で植えつけられてるんだろうと思うし、なぜなら苦手意識を持ったやつはそういう必要に迫られる場面以外で文章を書く機会は持たなかっただろうし、そうなると「思ったことを自由に書きましょう」なんて言い方にもその原因の一端くらいはあるのだろう。「先生にも読めるような範囲であればどんな手段を使ってもいいのでとにかく原稿用紙を埋めましょう」とか言ったほうがよっぽど真実味があるしみんなも取りかかりようがあるんじゃないだろうか。そんなことして何になるんだと文句を言う子どももあるかもしれないけれど、原稿用紙に限らずさして関心がなくてもとりあえず何かしらで埋めてやらなくちゃ仕方がないなんてことは大人になってからもザラにあるのだから仕方がない。

全然関係ないけど大人にウケるような子どもを極めてたまえだまえだってある意味で尾崎豊の対極にある存在なんじゃないかと思う。

そういうわけで中学に上がる前後だったか忘れたけれど、僕は文章を書くのがとことん苦手で嫌いになった。苦痛で苦痛で仕方がなかった。思ったことを書きなさいと言われても、思ったものはもう既に思い終わってるからわざわざ書かなくていいじゃんと思ったし、俺が思いさえすればそれで十分だしどうしても伝えたいことや伝えたい誰かがあればこの足でこの口で言いに行くから放っておいてくれと思ったし、どこかの誰かに伝えたいみたいなことも取り立ててないよと思っていた。なので書く理由がなかったので、僕は文章を書くのが大嫌いになったのである。

今でやっと中学生になったところなのですが、飽きてきたので切り上げます。結論だけ言うと、紆余曲折を経て昔ほどではないにせよやっぱ今でも文章書くのはあんまり好きではない気がする。

尻切れトンボになってしまい、万が一にも楽しく読み進めていた人がいたとするならばそれは非常に申し訳ないなとも思うんですが、このエントリはあの狐へのせめてもの弔いが主旨になりますので、人間の事情は二の次です。こればっかりは仕方がない。あの世の酒はうめえかよ。以上です。