←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

『すべてはモテるためである』感想文

なんだかかつてより色んな人がわいのわいの騒いでる恋愛バイブル?指南書?みたいなものがあるらしいとは聞いていたので遂に手に取りまして。

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

 

読みましたー。いやー、めちゃめちゃ面白い本でした。例えば、モテなくてモテなくて仕方なくてモテたくてモテたくて仕方がない、もういっそモテないなら舌噛んで死にたい、一応噛み切れなかった時に備えて糸鋸も持参しましたんで最悪これでやっちゃってください、はい、姉とかにも几帳面でマジメな性格だってよく言われますエヘヘみたいな人がいるとするじゃないですか。そういう人は、まずこの本を読みましょう。読んで、読んだうえで、二ヶ月とか三ヶ月とか、モテる努力をしてみましょう。それでモテなかったとすればそれは読み込みが甘いので、もっかい読みましょう。モテるまでそれを繰り返しましょう。それくらい素晴らしい本でした。

もちろん僕だってそんな偉そうに上から言える立場の人間じゃないですけどね、あんたに送るけん持っとってよ滲んだ文字東京ゆきレベルの瑣末なチンコをぶら下げた、東京に行けないチンコを駅のホームでいつまでも握り締める普通の男性なわけですけどね。

まぁ何が面白いって兎に角モテない言い訳を全部先回りしてブッ殺してくれます。本書は序盤、「なぜ貴様がモテないか」を延々切々と解説してくれるわけですが、誰でも読んでて思うはずなんです、「いや、そうは言ってもこっちも色々あってさ」ってな糞しょうもないことを思うはずなんです、それをもう全部ブッ殺してくれます。逃げても逃げても逃げ切れない程度には丁寧にブッ殺してくれます。あの、『かまいたちの夜』で何回やりなおしてもドア開けたところでガールフレンドにスキーストックで突いて殺されるくらいの勢いで何度でも先回りしてブッ殺してくれます。あるいは、とある一行を読んでて「いや、こっちの言い分としてはね」と言い訳が浮かんだ瞬間に次の行でピンポン「越後製菓!」くらいの勢いでブッ殺してくれます。これが非常に心地良い。もちろんその言葉の一つ一つは何処だかの名も無き非モテをぶっ殺すためのスキーストックであり、その全部も全部が俺の心臓を突き刺すのかというと決してそんなこたあないんですけど、まぁ全部ある程度真理のある程度役に立つお言葉です。例えば僕なんかも自己紹介をしてみれば、浮気を是としない一夫一妻制にコミットした既婚男性であり、モテたいとかモテたくないとかで言えばそこまで差し迫った問題意識を持たなくていい立場にはあるのですが、そこに至るまでにはそれなりの悩みや葛藤があり、本書で取り上げているような問題を自ら設定して膝を突き合わせたようなところはあるわけです。しかしそれは結局自分がクリアすべき問題で本書で取り上げてる話題からすれば全部ではなく一部に過ぎないわけです。僕は自分にとって向き合う必要がある最低限の問題だけ自分なりに消化したに過ぎず、未知の部分はそれはそれでたくさんあるわけで、言うなればアタック25の勝ち抜き後の最終問題、僕は僕が向き合った問題のところだけパネルが表示されるヒントを頼りにクイズに挑むわけです。そこでたまたま、自分が抜いたパネルのところに鼻が映りましたものですから、完全に真麻に受け継がれているあの鼻が、たまたま自分が抜いてたパネルに映ったもんですから「越後製菓!」と叫んで結婚を勝ち取ったわけですけどそれもほとんど「運が良かった」以外に言いようもないわけです。そこで本書を辿ってみれば自分が抜いてなかった箇所もスコスコと捲ってくれて25枚全部が開いたパーフェクトの状態で出題VTRを見せてくれる。自分が優勝した時は下半分が全然パネル取れてなかったからわからなかったけど、あー、高橋英樹は三角木馬に跨ってたんだーみたいなことが、そこで初めてわかる。そういう意味で別にモテない奴に限らず、あらゆる老若男女に見てもらって損がない、本当に面白い本でした。

ではまぁ折角なので、本の内容をなぞって言い換えるだけにはなっちゃいそうですけど、テキトーに思ったことを整理しないで喋りますね。

まず、もう一度見直さなくちゃらないなと思ったのは、果たして俺がキモチワルイのかキモチワルくないのかに本当に興味があって都度真剣に吟味したいような奴っていうのはこの世にオンリーワンこと俺しか存在せず、そのほかの全人類は隙あらばTポイントカード持ってません感覚で俺のことをキモチワルイと断定しようとしているということですよね。俺がそう思われているということは俺も貴様にそう思っているということで、そういう世界がどれだけすぱらしいのかは分かりませんが、どうやら現状そうらしい。その現状を受け止めてどうしましょうかって話をするしかないってことですよね。本書では丁寧にあらゆるキモチワルイを薙ぎ払ってブッ殺してくれまして、甲羅で殺してるんじゃないの1アップしちゃうんじゃないの殺すたびに音階上がってくんじゃないのくらいのテンポでブッ殺していってくれるわけですけれども、本来であればきっと僕らはモテない僕らを自らの手で都度殺していかなくてはならんのだろうなと思うわけです。お前キモチワルイぞってわざわざぶっ殺してくれるようなお人好しは本来なかなかありません。貴様がキモチワルくて困るのは貴様にほかならないのだから、貴様がキモチワルさを自覚して殺すんだよ、貴様以外の誰かは貴様のキモチワルさに忠告している暇があったら自分の戦いに出るんだよ。休戦をして祝杯をあげたりはしないんだよ。だから、僕は自分のキモチワルさに自分で気付く必要があるってことですよね。なので一番腹立つのは自分のキモチワルさを以って「いや、でもそのキモチワルイっていうのも一面的な話であって、こういう解釈をすればそれだって僕の良さとか個性だとも思うのよね」みたいなことを言う輩で、お前がいくらそう思ったところでお前以外はそこまで解釈の幅を拡げるつもりはねえんだから、友達のように踊る日は来ねえよと思うんだ。

さて、どこからが自分でどこからが自分じゃないのかっていうのは考える必要があるだろうと思う。分かりやすいところでコンプレックスと向き合うにはどうすりゃいいんだという話があった。「そりゃあ自分で決めなさい」ってのが本書の一貫した提案ではあったのだけれども、まぁそれはそうだろう。どうにかできるコンプレックスであれば金なり何なりでどうにかしてもいいし、どうにもならなければ隠して生きてもいい、打ち明けて生きてもいい、何にしろ自分で選べよ、という話で、そして貴様の選び方が他人にどう伝わるかも貴様のやり方次第で、自己責任なんだよなぁ。例えば僕なんかカエル顔のヤクルトのおばさんを見かけるとビックリして変身が解けて龍に戻るというのが昔からすごいコンプレックスなんですけど、やっぱ最初はカエル顔のヤクルトのおばさんとすごい揉めたよね。お互いにコンプレックスがすごいからお互いがお互いのせいにしてさ、結局最後は僕の髭を弦にしてカエル顔のヤクルトのおばさんがチェロを引くっていうところで落ち着いたけど、そういう落としどころは絶対に対話で見つけなくちゃならないから。自分だけで納得して、「俺が龍になるのは普通のことだから、それにどうこういうお前らが悪い」とか思っても、どうも高値で売れるらしいって鱗剥がされてりゃ世話ないから、どうにか調和つける必要はあるわけだよね。

全編踏まえて思うことは、色んな諸事情は脇において、<わたし>と<あなた>がどううまくやれるのか、それが大事って話にほかならないんだよね。そのためにどういう<わたし>であろうとするか、如何にキモチワルくない自分でいるか、結局そういう話になってくるんだろうね。これちょっと今思いついた脱線する話だけど、「あ、あの人が俺は好き!俺はあの人に好かれたい!」って思ってから好かれようとし始めるのはすげえ遅いと思うんすよね。第一印象って大事じゃないですか、だから常に初対面になっていいように初手だけしっかりしておくか、ズボラな初手を挽回する手立てを用意しておくか、恨みっこなしに準備しておくべきだとは思いますよね。さっき完全に龍に変身したあたりからチョケてぶん投げてたコンプレックスの話でも、まじめな話、隠すとか治すほかないわけでもなくて、それをカバーなりフックにするなりの道筋がありゃ別に良いわけで、そういうのナシに「俺の生来のコンプレックスを受け容れてくれよ」って諸手を掲げて泣き喚くとダサいって話ですよね。そういう考え方で、受け容れられる<わたし>を貴様の手で作らなくちゃあならない。それは正直一人ではすげえ難しいんですけどね。なので、まーその直接的な異性じゃなくて、そういう<わたし>を作るうえで助けになってくるような友達なんかをどうやって作ってくのかってのもすげえ大事な話なのかと思う。勿論、そういう友達を作るうえで必要なテクニックってモテるのに必要なテクニックとめちゃくちゃ重複するんで大変は大変なんですけれども、お前キモチワルイよって声掛けてくれる友人は貴重ですし、言わないまでも俺がキモチワルくなったら確実に離れていくだろうなって友人を作っておくことも大事なのかもしれませんね。そういえば、僕が嫁さんに期待している機能の一つとして、僕が不意に自殺したくなった時にたぶん止めてくれるだろうというのがあります(予定は今のところないです)。

結局、モテの問題でも人生の問題でも、すべては自分次第ですが自分のすべてを自分自身ではコントロールできるかというとそうではない、ので、少しでも多くの人にキモチワルがられないように、俺をキモチワルがせない人を少しでも周りに置くように、頑張らなくてはならんのだなぁと思いました。僕と嫁が心中を決意した時に止めてくれる友人がいないとヤバい、ということに今気付きましたので、後ほどアドレス帳を開いてどれにしようかな神様のいうとおりしようと思います。

あ、あと思ったのは、モテテクでもオシャレテクでもトークテクでもなんでもいいんですけど、テクニックを身につけて試してみてダメで、じゃあこのテクニックはダメだって思考はダメなんでしょうね。そういう、責任を外部に転化する発想はもうぜんぶ軒並みダメ。モテるために自分に何かを身につけようと思ったら、もうそれこそ純粋な「私と貴方」という場においても通用するような、そういうモテるための何かを身につけなきゃダメなんでしょうねー。つまり、「私と貴方」以外は無の局面ですよね。なんか映画のバイオハザードのなんぼか知らんけど、ミラジョヴォビッチが真っ白い部屋でゾンビだかに回し蹴りしてるあのものっすごい真っ白い部屋があるじゃないですか。あの部屋で、俺も真麻も二人とも真っ裸で、そこで真麻を口説けるようなそういうテクニックじゃないとそれは嘘だし、身につける価値がねえんだろうなーとか思いました。

そういえば、本書のなかでは他者との交流を試みるうえで不可欠な自分の芯みたいな意味合いで【心のふるさと】というフレーズが登場します。一方でモテる男は【謙虚】たれみたいな話も出てきます。それで思い出したんですけど、じゃあ【心のふるさと】に対する【身体のふるさと】ってどこなんだろうって考えると、僕のふるさとってお母さんのまたぐらなんですよね。たぶんみんなも、お母さんのまたぐらだと思うんですけど。そこで僕は、【ふるさとは遠きにありて思うもの】ってフレーズを思い出して、女性のまたぐらにお邪魔するときは、すごい遠方から訪れた感じの、すごい丁重な「お邪魔します」が必要だと思うんですよね。ふるさとはまたぐらですから、遠きまたぐらに出向いた際には謙虚が大事だと思うんですよね。そういう心持がモテにつながるんじゃないんですけど、さんざ喋って最後の段落、めちゃめちゃまたぐらって言いましたねめちゃめちゃまたぐらって言いました。以上です。