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「相手がいる話」を他人にしちゃうと、相手にちゃんと向き合えなくなるよね。みたいな話

非常に説教くさい話になるので、せめて鼻で書きます(鼻によるブラインドタッチで今これを書いています)。

ブログというものが世の中にあり、たくさんの人が日々ブログを更新しています。その目的は様々なようです。目的は好きにすればいいとして、そもそもブログとは何なのかというと、自分の書いた文章を誰にでも見れる場所に公開するということなのだそうです。

よくブログを書き、よくブログを読む。そんな僕なんですが、たびたび「こいつのブログの書き方だいじょぶかな心配だな」と思うことがあります。多いのは、育児ブログ。まぁ、それに限らず全般に言いたいなぁと思ってはいるんですけど。ほかに恋愛だとか結婚生活とかを題材にしてるブログでも同じような印象を抱くことは時たまありますが、何つったって育児の話が多いかなぁ。まぁでも、日記感覚でネットに何かを書く人々みんなにちょっと説教させろみたいなところはあります。

僕が特に危ういなと思う話の構成はこうです。「こんな出来事がありました」⇒「私はこう考え、こうしました」⇒「相手のリアクションはこうでした。たぶんこういう風に感じてくれたんだと思います」⇒「これからもこんなことを大事にしながらこうしたいです」みたいな、みたいなね、そんなんを見かけるたびに「だいじょぶですか」って思うんですよね。

それを書き上げて、寝て、起きた翌日、そのブログでした所信表明は本当に指針にするべきことなんだろうかって心配になっちゃうんすよねー。俺は、昨日考えてたこと間違ってたなーってことそりゃしょっちゅうですけど、そういう結末に至りそうなことは、あんま部外者には言わないですよね。僕なんか特に人間できてないなー、我ながらアレ体不満足だなーって自覚がありますので、過去に思い当たる節がいくらでもあるんすよね。いわゆる第三者向けの「こうありたい自分像」みたいなものがあって、それを守りたいゆえに第三者の目を気にして、目の前にいる人に間違ったことを言ってディスコミニュケーションに陥るみたいな、そういうことってあるじゃないですか。ブログで思ったことを書くってのは、「こうありたい自分像」の開陳にほかならないところあるので、危ないよなーって話なんですけど。

説教くさい余計なお世話ではあるんですけど、そこらへんみんな大丈夫なの?って思って。俺は大丈夫じゃないから絶対しないなーって思う。「今日こんなことがあって、こうしました、美談でしょ。」みたいな話をした翌日に、「昨日の美談を全部なしにするこんな展開になりました」ってなったとして、これ一人で受け容れるならいいんだよ。そうじゃなくって、昨日もうみんなに美談だって話しちゃったって時に、どんだけ良いバランス感覚で立てるんだろうって思うと、話さない方が目の前の出来事の登場人物にちゃんと向き合えるんじゃないの、と思って。それこそ社会情勢を見ればわかる通り、速報性というかリアルタイム感を大事にしようと思えばキリがないけれどもそれがどれだけ正しいのか地に足着いてるのかっていうと怪しいわけで。コンテンツにしたいつもりじゃなくて、今後に活かしたいつもりで発信したいんだったら、昨日今日あった話を「速報」みたいに記述しちゃうと、明日以降に生活をやりくりして取材するうえでの足枷になるんじゃないの、みたいな。そういうことを思ったんですよねー。

「学級目標」とかあって、アレきもかったじゃないですか。アレやだなーって思うから、俺は「この人と今日喋ってこうだってこうしたいと思って、明日からもこうしたい」みたいな学級目標とか作るのイヤですよね。そういうのって簡単に出来うるし発表した以上重視されちゃうから、だからまー俺は人とどうしたいこうあるべきって話は、人前ではしたくないよなー。学級目標にされちゃあ堪らないから。

ちなみになんか書いた気がするなと思ったらまったく同じ話を以前に書いてました。前回の方がわかりにくいかなぁ。


読み返して、関連エントリ読み返してみると、シロクマさんに言及いただいてたけれども、このエントリの趣旨と変わらず、「いや、俺は別に大丈夫だから何でもいいんだけど使い分けられない奴がいるから言ってるんだけども」と思って。それは老婆心か御節介かなんだろうなと思いつつ、それがなくなったら本当に吸血鬼だろとも思うよね。以上です。