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犯罪を行う意思の有無は判断できないので、犯罪を遂行する能力の有無で判断する

このエントリを読んで、「わかる」って人がいたり「変なの」って思う人がいたり、まぁそれはこのエントリがなかなか舌ったらずなのでまぁそうなるだろうねとは思うんですけど、ここらへんの話については思うところは日頃あったのでその話をしまーす。そこそこ乱暴な話をしまーす。ただし本心です。

僕はこのエントリについては「まぁわかる」と思うほうで、どちらかといえばこのエントリに批判的な声の方にイラッとする立ち位置なんですけど。

「ちょっと一緒に遊んでただけで犯罪者の疑いがかけられるんですか」みたいな嘆きに近いような言い方はそりゃああると思う、これは子供相手の話に限らず良い大人の男性女性の間にも起こりうるような話題です。で、僕はそうじゃねえと思ってて、実際に安易に人を犯罪者予備軍と看做すヒステリックで頭が悪い臆病者という人たちもいらっしゃるのでそこは難しいところなんですけれども、申し訳ないけれども本質としてはそういうこっちゃねえんです。実例が積み重なってどうも世の中にはそういう吐き気を催す不幸があるとしたうえで、貴方に犯罪を行う意思があるかもしれないから警戒するのではなく、貴方に犯罪を遂行する能力があるから警戒せざるをえないのです。

貴方に犯罪を遂行する能力はありますか? 僕にはあります。きっと貴方にもあります。例えば、貴方に殴られるなんて夢にも思わず貴方に安易に背を向けるような人物が貴方の周りにいたりはしませんか? そんな人の顔は思い浮かばないなんて人間はたぶん今の日本にはなかなかいないと思うんですけど、その時点で貴方には犯罪を遂行する能力があるのです。貴方はそれを行使しないだけで、そいつの後頭部を面白くて固いもので殴ることがいつでもできるのです。例えばドリアン、例えばカチコチに冷凍されたジンギスカン肉、例えばカツオブシ、何せ相手は貴方に殴られるとは夢にも思ってないので、貴方はその気にさえなればいつでも相手の頭を固い食べ物でぶん殴ることができる。これは貴方が実際に相手を殴ろうと思うか否かに関わらず常にそこにある事実であり、それこそが貴方が犯罪を遂行する能力を有してるということなのです。私はその程度の能力なら易々と有していますし、他者についても同様に有していると思う、だからこそ第三者の理不尽な悪意に自分の大切なものが奪われるかもしれないということに大変臆病です。あと、結局本当にそういうことやらかすための必須スキルって、実際にやるまでそういうことやらかさないだろと相手に見くびらせるスキルだとも思うしね。そうなってくると、もう普通の善人と、善人のフリをしてる奴って、見分けつけられるわけがないんだ。

例えば僕の嫁さんが専業主婦になったとして、その時僕が恐らく彼女に提案するルールの一つに「可能な限り、宅配物は私がいる土日に届けてもらうようにしよう」ってことは言うと思います。私がこのルールを提案したい理由は、もちろん「佐川の兄ちゃんなんてどうせ全員レイパーだから」ではありません。そんなわけありません。佐川の兄ちゃんみんな頑張って今日も全国に荷物をお届けしています。ただ僕は「ある女性が平日の日中はいつも一人でその家にいるという情報を、不必要に第三者に教えてやる必要はない」と考えています。その情報さえ押さえていれば良からぬことを遂行できるだけの能力を兼ね備えている人間というのは世の中に少なくない、と思っているからです。これを「考えすぎだ」とか「万が一のことを考えても仕方ないだろ」と言う人もいるかもしれませんが、僕がそう考えて実際にやることって「僕が土日に荷物を受け取るようにする」っていう微々たるものなので何が考えすぎなのか正直よくわからないんですよね。これで嫁に「家から出るな」とか言い出すとそりゃ過剰ですけど。「平日に受け取れない荷物もある」というデメリットと、「嫁が平日に一人で家にいて呼び鈴鳴らすと出てくるという情報を第三者が知りうる状況にしておく」というリスクの回避、全然バランス取れてて過不足ないじゃん、と思う。

明らかに過剰な防犯意識ってのもそりゃああるけども、たぶんこういう話題になった時の個々人の防犯意識ってみんなそこらへんが出発点なんじゃないの、とも思う。

掲題のエントリの例で言えば、一般的な高校生の男子っていうのは、吐き気を催す言い方をすれば、小学生低学年と「このことは誰にも秘密だからね」という約束を取り付ける能力は有してると考えて問題ないと思います。これは、ある高校生が性犯罪者予備軍である、ということを意味しません。ただ、それを遂行することは僕や貴方にもやろうと思えば可能であるように、彼にも可能であるというだけの話です。そういう人間が、自分の目の届かないところで自分の息子や娘と仲良く遊んでいるということについて、メリットとリスクを考えた時に、どういう判断を下すかっていうのは人それぞれであってどういう判断をしてもそれは咎められないしその判断がどういう結果になろうとも誰も何も言えねぇ、っていうそれだけの話だと思います。

もちろんここまでの考え方をそのままに適用してすべてのリスクをバリバリのハイテンションで恐れて石橋叩いて一歩も動けなくなるってのはよろしくないし、そうも言ってられないので、あくまでこのような杓子定規をベースにしながらも、ケースバイケースで判断して信用できる人・リスクを踏まえてでも頼りたい人ってのは必要だし見つけていかなきゃならない。生協は用事が多いので平日でも来てもらいたい。ただ、そこはケースバイケースでその人がどうにも必要なので頼ってるだけで、かつその生協のおっちゃんという人間を無害かどうか判断しながらやっていかざるをえないってだけの話で、それを見て佐川の兄ちゃんが「生協だけズルい。俺のことも平日に呼んでくれよ」って言い出すのはやっぱ変な話なわけで、色んなものを怖いと思って色々考えてる人に第三者が「そんなこと言ってたら何も出来ないよ、相手を信じろよ、俺も信じろよ」って言うのは絶対おかしいだろと思うわけです。

もちろんこんなことを考えなくてはいけない世の中が悲しいってのも分かるんですけど、純粋な善意で人に働きかける人がたくさんいるってことも分かるんですけど、自分の善意を理解するために世の中への認識を改めてくれっていうのも随分傲慢な考え方じゃないのと思うわけです。世の中でびっくりするような「あんまりだ」って事件がある中で、結局それが起こった時に「あんまりだよね」しか言えない個人が、「俺はただの善意だ」ってことを主張したいためだけに「あんまりだ」って不幸が自分に及ばないかと怯える人を攻撃するのは、すごく悲しいことだよなーと思う。俺が誰かに「私の子どもに近づくな」と言われても、俺は怒りたくない。だって、俺は一般的な成人男性で、子どもを絞め殺す腕力くらいは有しているから、もし俺が相手に信頼してもらえなかったなら、きっと俺は怖いだろうなと想像することはできる。信頼してもらえなかったことは悲しいかもしれないけど、怒っても仕方ないかなとは思う。

それでもレッテル貼って全部攻撃するのはダメなんだけどね。「男性が女児におはようと言った事案」とかが出回る現状は流石に違うだろと思いつつも、それに反発する人とで二分されるのはよっぽど不幸なので、こんな話をしてみた次第でした。結局、児童が被害者になりうるような不幸に関しては、ほぼすべての大人が児童を不幸にするだけの能力を有しているのが当たり前な話で、その能力が行使されてしまったような話が巷に溢れすぎているんで、そりゃ警戒するのも仕方ないだろってだけの話だと思うんですよね。

性犯罪に関する話題での男性と女性と間に横たわる認識の違いあたりの話も、結局そういう犯罪を行う能力の有無が生物学的に性差ですごいってのが本質だと思ってるんですけど、そこらへんもまた暇な時にしたい。以上です。