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「もうだめだ」の季節

 これ、今までは生活とか仕事の好不調とかそういうものと連動してるのかなと思っていたのだけれども、どうもそこらへんと関係なく全く原因も理由もないところから「もうだめだ」が突然やってきてるんじゃないのかと最近では思うようになってきた。もちろん生活は僕の心の真上をグルグルと旋回するアパッチみたいなもんで僕の心に生い茂る芝はアパッチが巻き起こす風の影響を受けてその時々によって色々なゴールデンボンバーみたいな髪型に変容する。それはそれとして、それとは関係ないところから「もうだめだ」がやってくるんだという認識がこれまでの僕には足りなかったような気がする。「もうだめだ」となった時、僕は僕がそう考える原因を探し上空を見上げ、重すぎず軽すぎない石ころを拾い上げてはアパッチ目掛けて投擲を繰り返していたわけだが、どうもこれはそういう問題ではなくそういう季節なんだなと受け止めた方が何かと都合がいいんじゃないかと考えるようになった。

 この「もうだめだ」が去来した時にいつも思い出すのは芥川龍之介が遺書に遺した「唯ぼんやりとした不安」というフレーズだ。「遺書に遺した」って「頭痛が痛い」みたいなところあるよね。でも俺は「頭痛が痛い」って実際そんな腹立たないけどね。どっちかっていうと「頭が頭痛だ」の方が腹立つかもしれない。「♪ちゃらり~、鼻から牛乳~」より「♪ちゃらり~、鼻から鼻血~」の方が腹立つのに似てる。別に僕は俺こんな高尚な悩みを憂いてるんだぜみたいなそういう中二心溢れるやつではないんだぜとは本人談なんですが、どうもこの「もうだめだ」という気分は芥川の感じていた「唯ぼんやりとした不安」と同じなのではないか、無根拠に「だって絶対そうだと思う」んだけれど、じゃあ俺が芥川同様に死にたがっているのかというと特にそんなことはなく、寄せては返す波のように「もうだめだ」と思いつつ、なぜなら波が返ってくるのが辛いから時よ止まれと祈る傍らいつものように仕事していつものように電話してメールして飯食って喋って笑ってまぁ泣きそうになったりはするけど、概ねいつもどおりやってそのうち時よ止まれと願うことを忘れて飯が美味くなってきて「もうだめだ」の季節は去ってゆく。そのことはおれ自身好い加減学んでいて、「もうだめだ」は一時的な気分の問題であって、「もうだめだ」という俺の気分が真実であることと「ぶっちゃけそこまでだめじゃない」という客観的事実はカバとカバの歯糞を食う小鳥のように共存可能なのである少なくとも俺にとっては。

 これは本当にそうなのか誰にも確認のしようがない僕の背負った僕だけのランドセルから突き出た定規の話になるのだけれども、「もうだめだ」という季節はつまりはそういうもんで、その季節をどう過ごすかどう受け取るかというところで十人十色に差異が出るだけであってやってくる季節自体はそこまで大差ないんじゃないのと思っている節が僕にはある。うまくやり過ごせればまた春がやってくるし、それが出来なくて死んでしまう人もいる。こういうことを言ってると「お前なんかに俺の辛さがわかって堪るか」と怒られることもあるのだけれども、そういう風に考えた方がよっぽど健全なんじゃないかと思ったりもする。別に「それくらいどうってことないだろ」なんて言ってるわけではなく、「俺もそれくらいもうだめな時がある」とお互いのしんどさを素直に肯定し合ったほうがラクなんじゃないのって話で、良くないなと思うのは自分のことでも他人のことでもその「もうだめだ」感の深刻さというか切迫さというかどういう度合いなのかを身体の有様とか振る舞いとか物言いとかそういうところで推し量るのはすごく良くないアプローチなんじゃないのと思うところがあって、それって要するに「本当に申し訳ないと思ってるんだったら誠意見せろよ」というヤクザな言い分と同一円周上にある「本当に辛いんだったら結果出せよ」って話でしかなくてそれこそ死んで見せた方が切実さが伝わるみたいな話になってしまう。一応のところ学級目標に「死なない」を掲げる1年死にたくない組でカバ係を務める僕としてはそれはあんまりだと思う。そんなの湖に沈めて魔女かどうか判別するのと大差ないじゃないか。結果でその「もうだめだ」の大小を測ってはいけない、それなら誰しもの「もうだめだ」は一律に「もうだめだ」であり、共通体験としての「もうだめだ」の季節をどう過ごそうかと考えた方がよっぽど建設的なんじゃないかなと思う。まぁ、そう言うと「不眠の実績もない癖に知った口を利くな」って怒られるんだけども。寝なかったら喋っていいんですか、って話も変じゃないですか。僕自身「もうだめだ」って言ってるのに「ジャム食べたら治る」って話してくれる人にムッとしたりとかはするんですけど、それもムッとする僕が良くなくて、俺の「もうだめだ」とこいつの「もうだめだ」は同じもので、こいつはたまたま前世が何の味つけもしてない黒パン食べてただけの人生だったからジャムでいけるんだと思うことにして、そう思うようにしています。

 まぁ、そんなこんなで以上の通り見ての通り、僕の「もうだめだ」の季節の過ごし方はドングリどこに埋めたか忘れちゃって樹木の皮を齧りながら越冬するリスのように、「春になったらこの話めっちゃみんなにしたるねん、ちょいちょい盛りつつ話したるねん。ウケたるねん」と考えながらじっと待つっていうことなんですけど、パッと見不健康だよなーとは自分でも思うんですけど、たぶんこれが自分なりの「思い詰めてもしょうがない」であって、思い詰めることに救いを求めるのはよくないかもしれないけれども、どうせ思い詰めても思い詰めなくても変わらないなら思い詰められる時に思い詰めておいた方があとあと利いてくるかなみたいな、本当に思い詰めてる人からすると思い詰めてるうちに入らないよって話なのかもしれないけれども、今はカバみたいに大口開けてぼんやりそういうことを考えて、春になれば誰かの歯糞を少しでも啄ばみに行きたいな、ヘリで。とか思っています。以上です。