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「場の文脈」より「アカウントの自由」が先立つインターネットでは「言及しましたね!」の火力が強すぎる


読みましたー。のでなんか書きます。

今から何書こっかなーって寄り目で考えて、眼孔周りの筋肉の痙攣がピークに達して黒目がグルンって瞼の裏に逃げ込んだらバーッて書き始めて気付いたら出来上がってたみたいな雑な文章になる予定なので、予定はあくまで予定なのでどうなるか分からないんですけど、たぶん、愚痴っぽい話というか現状を嘆くような文章になるような気がするんですね。だけどここで誤解しないで欲しいのは、「シロクマさんの言うてることは間違ってる!そんなのイヤだ!」て話ではなくて、「そうだ、どうしようもなくそうなのだ。ではどうすればいいんでしょうかね」みたいな話になる予定です。むしろ、この話をするうえで書かなくちゃならないことの前半をシロクマさんが書いてくれてたのでいけるかも、ってなってるところが大きい。

「言及しましたね!」「それがあなたの執着です!」

たぶんそうなんだと思う。いや、間違いなくそうなんだと思う。だって執着がないのであれば言及しなければいいのだから、いや、執着がないのであれば言及しようなどとはそもそも思わないはずなのだから、それはそうなんだとは思うんですよ。例えば僕は今、この冒頭の記事へ言及するような形でテキストエディタ開いて文字列をカタカタ並べ始めたわけですけど、蕎麦の出前を頼んで待ってる間の暇つぶしにおパンツを脱ぎ捨ててアメリカンクラッカーの二つの玉で自分の金玉をグググッと挟み込んでトゥルンって逃げる感じを延々繰り返して楽しんでいたんですけど如何せんなかなか蕎麦が来ないので、金玉が蝶のように舞って逃げる感じに飽きてきて好い加減違うことやろうと思ってテキストエディタ開いてグリィィンって白目剥いてこの文字列をしたためているということは、それはきっと僕は冒頭の記事になんらかの執着を抱いてるってことなんだと思いますよ。ただ、アメリカンクラッカーの下りがあるかないかで、観測する側の「ああ、こいつは執着あるんだな」の受け止め方って全然変わってくると思うんですよね。で、俺は書きましたけど、アメリカンクラッカーの下りはあんま普通の人書かないでしょ。めんどくさいですから。「直前まで金玉いじってたんですけど」ってエクスキューズを入れた方が、「どの程度の執着を以ってこの話題に言及してるのか」ってのがより正確に伝えることができると思うんですけど、大抵の人はめんどくさいからわざわざ書かないと思うんですよ、じゃあそこの部分をハショっていきなり「それがあなたの執着です!」って突っ込まれる話題に言及するかというと、そうじゃねえと思うんですよね。執着の程度を表すエクスキューズはめんどくさいし、エクスキューズをハショって「それがあなたの執着です!」と看做されるのもめんどくさい、そういう時普通の利口な人は、たぶん黙ると思う。それがもったいないよなーって話が始まります。

ツイッターfacebook、あとブログとか?うそん、今更ブログって。それらSNSが主流な現状のインターネットにおいてはまず起点として自身のアカウントであって、そこから見える景色といえば無数のアカウントが地平線の果てまでズラッとひしめきあっていてそれはあまりに広大すぎて、そこには最早用意された場なんてまるで観測できずただただ各々の思念が渦巻きあっております。その思念の何に言及してもいい、何にシンパシーを感じてもいい、何を攻撃してもいい、まさに「自由な発言・自由な想像・自由な選択」が万人に約束された素晴らしい世界だなと思います。インターネット大好き。

だけども何もかもが自由なのかというとそんなことなくて、例えば時間が有限です。すいません、文系なんで科学には疎くて記憶が曖昧なんですけども1日がたしか20時間強。くらい。どんな風に振舞おうと自由であっても20時間強(曖昧ですいません)で明日がやってきてしまうという制約に誰しもが縛られており、その観点で言えば500万年前からずっとずっと全員が全員光陰矢の如し世代であり、そこにジェネレーションギャップは存在しないわけです。そんな中で誰しもが自由な発言・自由な想像・自由な選択」を行う権利が与えられる一方で「いつ・何に言及したか」が正確に記録され第三者に共有されうるこの時代は、時間の有限性というやつが人類史上ピークでうっとうしい時期に差し掛かってるんじゃねえかなって気がしてくるんですよね。何かちょっと喋っただけで何を喋っても「他の何を喋ってもいいのにお前はわざわざその話題に言及した。それが貴方の執着です!」って話になるわけで、たぶんそれって「ここはこういう話題をする場所ですよ」って制限が何もない、アカウントありきのインターネットだから出現する光景だよなぁという風に僕の瞳には映るわけです。

それが良いか悪いかはさておき、ともあれ僕には現状のインターネットがそういう風に見えている。じゃあそこでそれの何が悪いんだという話になれば、パッと思いつくところが二つほどあって、一つは「一つの関心ごとにばかりこだわり続けるアカウントが増えやすい」、もう一つは「ストレスのないアカウント運用のために様々な問題ごとについて過剰な無関心を示すアカウントが増えやすい」です。

一つ目からいくと、まーそりゃそうだろって話なんですけれども、言及してしまったらその瞬間「わざわざ言及してる」扱いになってしまいますので、言及した瞬間にその言及した関心ごとについてそれなりの矜持を抱かないとなかなか人間やってられないという側面があります。矜持ってのはプライドで、曲げられないってことです。多様な意見を受け容れ難くなるってことです。本人がそれを望まなくても「わざわざ自由ななか自分の意思でそこに言及したってことはそれなりの振る舞いが伴ってるってことなんでしょーね」って眼差しが向けられたり向けられた気になってしまったりします。これが非常に厄介で、一度この感覚が心の中に芽生えてしまうとまさに一事が万事の調子になってしまうのが人間のなんとも情けないところです。例えば僕なんかもたぶんこれネットに書くの初めてなんですけれども、ふくらはぎが寒鰤なんですよ。でもこれをおっぴろげに宣言しちゃうと、僕がもう完全に「ふくらはぎが寒鰤の人」になってしまうじゃないですか。そうなるとやっぱオリンピックの短距離走とかにも「ふくらはぎが寒鰤の人」として言及しなくちゃならないかなとか、ファッションとしてジャケットに短パンとかどうなのみたいな話題にも「ふくらはぎが寒鰤の人」として言及しなくちゃならないかなとか、何にコメントするにも「ふくらはぎが寒鰤の人」としての見解を述べなくちゃならないような気がしてきて非常に窮屈そうじゃないですか。だから今まで黙ってたんですけど。で、僕は黙ってたからだいじょぶなんですけど、そこで黙ることが出来ずに田島陽子とか茂木健一郎みたいに何の話題を振っても全部同じ話にいっちゃうようなアカウントってのが枚挙に暇がないわけですよ。トゥギャッターでプロフィールにセクシャルマイノリティである旨を明記してるまとめ主が作ったまとめが毎度毎度アレなのも結局はそういうことなんですよ。これはセクシャルマイノリティの人は一概にアレだ、という話ではなくて、セクシャルマイノリティであることを全面に押し出してしまったアカウントをバランス感覚を大事にしながら運用するのは極めて難易度が高く、往々にして先鋭化してアレになりやすいみたいなそういう話だと思うんですね。

で、もう一つ目なんですけれども、こっちの方が割と悲しいというか俺がもったいねーなぁと思うところで、何かについて言及することがアカウント運用の難易度をやたら上げてしまうという摂理を意識無意識問わず理解している多くの人が、そういう難しい問題への言及を避けてしまうってところなんですよね。そして安全に運用できる言及対象にのみ言及して健やかインターネットライフを送っているということ。いや、それは全然構わないんですけど、僕なんかも長いことインターネットで色々楽しく遊ばせて頂いてて色んな人とともだちになってskypeとかメールとかクローズドなところでお話する機会なんか頂戴してるわけなんですけれども、そうやって表では特定の得意な話題しか選んでしない人ほど、何の話をしても面白いわけですよ。ちょっと世の中がよくなりそうなバランスの取れた見解とかお話してくれるわけですよ。けど、それを表でやるデメリットというか危うさを知ってるから表ではそういう話はしないわけで、そういう話をしない人だからこそ・ならではの面白い話がたくさんあるわけで、そういうのを表で共有できない現状の仕組みがすげえもったいないなーって思うんですよね。そりゃ例えばマイノリティの問題にマジョリティながらも思うところあったとしても、それを言っちゃうとそういう人になっちゃうわけだから、「ふくらはぎが寒鰤の人」になっちゃうわけだから、それが本来的に興味ある関心ごとへの言及の足枷になるんだったらスルーしとくわなそれすげえ普通の感覚だよなって話です。

つまりは誰もが一国一城の主みたいなアカウントが先立つ現状のインターネットでは、あるお題目にコミットするのかしないのかって選択を本来的にはもっと濃淡で解釈されていいはずなのにやたら白黒ハッキリしやがれよって形で迫られがちな現状だなぁと僕は感じていて。現状そうなので、それが良い・悪いもなく現状そうなので、間違ってるも変わるべきだとも思わず現状そうなので、こんなに誰しもが自由に対話できるインターネットのはずなのにもったいないなぁとか思う俺なのでした。

余談ですが、じゃーどうすりゃいいんすかねってところでは、「困ってるズ!」ってメルマガを最近知りまして。なんか、色んな障がいを持った人が寄稿形式で「生活してる中でこんな風に困る」みたいな話をしてくれてるんですって。で、興味ある人が登録すればそれを読めるんですって。掲題にある通り、こういう「文脈のある場」が今後大事になってくるんじゃないかな思うんですよね。こういう話をオープンで自由すぎる場でやろうと思ったら金玉をアメリカンクラッカーで挟む話をいちいち入れなくいと面倒なわけですよ、やってられないでしょ。そこ怠って困ってる話だけ発信し続けると、「そういう人」になっちゃうわけですから。話聴くほうも、聴いてコメントしちゃうと「そういう人」になっちゃうわけで、面倒なわけで。双方にとって「そういう場なら仕方ねえ喋ってやってもいいよ/聞いてやってコメントしてやってもいいよ」って場がないと、せっかくのインターネットでゆるやかな対話って難しい昨今なんだよなぁ、などと感じます。

「みんな色々あるけれど、あれもこれもどれもそれも、生活の合間合間で少しずつ少しずつ考えなくちゃあならない」ってすげえ当たり前のことが、インターネットでは結構忘れられがちなのだよなぁ。

みたいなことを金玉触りながら考えてたんですけど、ずっと触ってたら「あれ、今一瞬三個なかった!?」みたいになることたまにあるよね。以上です。

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