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20141005

▼『マッサン』の第一週を見終えた感想。こんな全くキスしない白人いるかよ。

▼そういえば一週間くらいブログ書いてないなーと思ってとりあえずテキストエディタ開いたんですけど、まぁ大体書いてなかった理由には思い当たるところがあって。まぁ仕事とか書かなくてはならんもの、私信とか、あとtwitterとかは普通に活動してたんですけれども、つまるところ俺にとってのブログというものは「頼まれてもいないのに書くもの」なので、そんな勝手なことをやっていい状態だなと自身で認識していないと書けないということなのだろう恐らく。

▼そういえばロビン・ウィリアムズ追悼祭を遅ればせながら少しずつ始めていて『フック』と『ジャック』を観た。観て、「いややっぱお前は自殺したらあかんやろ」と思った。

▼例えば、疑いの余地もなくスッカリ誤射で鉛の弾丸を撃ち込まれたとして、それが誤射であることは誤射した本人にとっても弾丸を撃ち込まれた俺にとっても自明であるとする。その誤射を笑って済ませる誤射にするには詰まるところ俺が鉛を傷口からほじくり返し全快するほかない。口でいくら「これが誤射なのはわかってる、だからお前は気にするな」と言ったところで俺がいつまでも鉛が肉とこすれるたびに唸り声をあげていれば、相手からしたらそれはほとんど恨み言と区別がつかないのである。だから俺は何に先駆けても鉛をほじくり出して取り除き、肉を食い、よく眠り、全快し、そして全快した事実を示さなくちゃならない。誤射を許すということはそういうことでなくてはならない。みたいなイメージがある。

▼『私を追いかけて』という小説を読んだ。尊厳死終末医療周辺を題材にした内容だったんだけれども、それはあくまでも仕掛けを作るのに妥当な題材だったに過ぎず全然別のところが主題だったのかなーって感じだった。他者や社会やまぁつまるところの自分以外のものをテクストとして捉え直してナラティブなものとして耳を傾け、それを受けてまた自身がナラティブに発話する、そういうことの繰り返しで十人十色の結論なり物語を紡ぎましょう、正確には十人かける十人で百色の物語を紡ぎましょうみたいなそういう話なのだろうと思った。組み合わせの問題と考えると百色にはならないだろ多いだろと思うかもしれないが、Aさんが語るAさんとBさんの物語と、Bさんが語るBさんとAさんの物語は当然違う形物語になるはずなのでこれに一向に間違いはないのである。他人は自分を映す鏡とかそういうレベルの話じゃなくて、他者の物語を受けて自分が自分の物語を発話する、結局そういう方法でしか自分自身に辿りつくことはできないのであろう。そういう話をするのに死に往く人と遺される人っていう決定的な断絶が発生するここらへんの話題はとっても相応しかったんだろう、とてもシックリ来た。面白かったので興味ある方は是非。まぁ、題材が題材でやり口がやり口なので救いがあるとか救いがないとかそういうこっちゃなくてマジで放り出されるんでしんどいはしんどいです。

 ▼漫画でわかる心療なんとかみたいなのネットでやってますけど、それで今ちょうど読もっかなどうしよっかなと思ってたアドラー心理学やってて毎度の通り合ってるんか知らんけど分かりやすいので、活字でギャグもなく(あるわけあるか)ああいう話を延々されるの読むのしんどいなーと思ってしまう俺にとってはありがたい限りだ。鉛弾ほじくり返す話とアドラーさんの言ってることはちょっと似てるよなーとか思った。「誤射なのはわかるけど俺にとっては致命傷だったんだ、誤射だから許したいんだけど致命傷なので無理だ」って言い回しはヤダよなーってのが俺の中にあって、アドラーさんもたぶんそうなのだろうと思った。それなら真っ向から相手の過失なんか考慮に入れず憎んでやった方がよっぽどマシだと思う。例えば「許さない」ってことは人を遠ざけるってことだと思うんだけれども、「善意とは言え俺は傷ついたから許すことはできない」つって自分の器が小さいんで勘弁してよねみたいなニュアンスはキープしながらも結局人を遠ざけるのであればそれは「お前が遠ざけたかったんだろう」という話にしかならない。お前が自分の意思でそうしておきながら口では「許したかった」とのたまって、許しあえる人をまた他所に探しに出向くのはとても不誠実に思える。どうしても一緒にいられないのであれば「あいつを俺は許さない」と言って離れ離れになるのが筋じゃないのかなと思う。

▼余談だけれどもリアル・ネットを問わず元カノ・元カレをネタにする話というのはよくあるが、やっぱり合わなくて離れるほかないという選択になるのは一向に構わないにしても、その外見を揶揄する(ブスだと言ったり)というパターンはあんまり行儀良くないよなぁと目に耳にするたび思う。いや、例えば「心がキレイだとは思ってたんだけど外見がどうしても無理だから別れた」とかなら一向に構わないんだけど、大抵の場合付き合ってた当時はかわいいと思ったんだから付き合ってたってなもんじゃないのと思うし、せめて「客観的にはお世辞にも美人とは言えないが、付き合ってた当時の俺にはどうしようもなく愛おしかった」くらいのエクスキューズは欲しいよね。そういうのもない人を軽蔑するとか悪人だと断定するとかそんな鼻息荒い感じではないんだけれども、少なくともそういう人は他人を身内か身内以外で区別して身内以外には人格や外見を問わずあらゆる侮蔑を投げかけることに抵抗が無い人なんだろうなとでも解釈しないと、こちらとしても俺の中で整合性が取れないよね。なのでそう思うかな。俺は。くらい。

▼そういうわけで鉛ほじくってたら一週間も更新してなかったんですけど見ての通り元気なのでまぁまたテキトーに書きたいことあったら何か書きます。思うのは、うまく言うのが難しいんだけど「しんどかったから書く気になれませんでした」とかとはちょっとか全然違うんだよね。むしろ依存先は複数持っておいたほうが精神の健康にいいですよって話もあるとおり、例えばしんどいことがリアルであったとしてそれを面白おかしくじゃなくてもいいけど、直接的に書いたり間接的に書いたり全然関係ないことを書いたりでも、それでしんどさが緩和されるのであればそれは素晴らしいことだと思うんだよね。ただ、しんどい「俺」をしんどくない「俺」にするために、「俺」が書くことは一向に差し支えないとしても、「鉛が埋まってる状態の俺」が「鉛の埋まってない俺」のふりをして書くだとか、まだ依然として状況は継続してるのに「俺に鉛が埋まった話」を書くだとか、そういうのは全然よくないと思うんだ。ナラティブの話に多少引っ張られてる気もするけど俺いっつもそういう話してるから別にいいだろって感じだけど、そういう「書かれている俺」と「実際の俺」が一致してないのを承知のうえで「書かれている俺」を書き育てるような行為はあんまり行儀が良くないし健康にも悪いでしょ、みたいなそういうことを考えちゃうんだよね。何より俺はウケを狙ってしか書かない人だから、備忘録とか自分の頭の整理って動機がまったくなくてブログに関してはウケるかな?って動機しかないから「ウケようとしなくていいからさっさと傷治せや」って発想になるところは当然あってむしろ好都合なんだけれども、油断してそういう「ウケたい」って動機を押さえ込めれずに心の整理だとか読者にも話すのが誠実とか言い訳並べて「書かれている俺」と「実際の俺」の乖離を加速させるみたいなのよく見かけるから。アレやめたほうがいいよ、とは前から思ってたんだけど「書かなきゃ」とも「書きたくない」とも思わずにすげえ普通に書いてなかったんで思ったよりそこらへんの感覚って俺染み付いてたのなって思った。

▼何はともあれ、個人的な悩みが解決してよかったよかった。もう全快です。だってほら、その証拠に、ここまで書いたの読んでみてめっちゃ面白いやん?(もうちょっと休んだほうがええんちゃうか)。以上です。