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20140925

僕は割りとイメージというものをすごいもんだと思っていて、僕は貴方の考えることはわからないんだけど僕と貴方が同じイメージを持つことくらいは可能なんじゃないかと思っている。十人十色に八百万の人がいて、それらすべてに前倣えをさせる万能なイメージはないけれども、僕と貴方を滑らかにする程度のイメージくらいならなんぼでもどうにでも捏ね繰り回して捏造することができるんじゃないかと思っている。それをペイフォワードと呼ぶ人もいる。

例えばそこに「辛い」とか「もうだめだ」という感情があって、それはそうなんだろうと思う。「それ如き何だ」と言っても仕方ないのだと思う。「辛み」という何かがあって、それが少しでも溢れてしまえばそれは「もうだめだ」となるのであって、「俺はその程度の辛み注がれたってヘッチャラだぜ」と器がでかい人のふりをして何かを言ってみても仕方ないんだろうなと思う。「溢れている」というのはそういうことなのだろうと思う。ただ、「どれだけ溢れ零れたのか」と「どれだけ辛いか」は一致しないだろうな、少なくとも正比例はしないだろうなとは思う。溢れた瞬間それは垂直に近い勢いで大変に辛いのだろうなとは思う。辛さは辛さとして「まぁ当人がそんなに辛いと言っているのならばそうなのだろう」と思うしかないのだろうけれども、彼や彼女はどれだけの器からどれだけの辛みを零してるのだろうか、そんなことは考えてしまう。それを以って批難してやろうとかそういうことは思わないのだけれど、貴方の辛みはわからないぶん、そういうことは知りたいと思ってしまうのだ。貴方という器があって、貴方の器が今どういう状況にあるのかをただただ知りたい。もうこれ以上、雫が落ちたとしても抱えきれず零れるしかないのに水滴が絶えず絶えず落ちてきて足元を濡らし続けるような状態なのか、器自体が壊れてしまわないか心配なくらいに真上からドカドカとトンでもない量の水がドカドカと落ちてきているのか、貴方という器自体が一寸法師のいないお椀のようにドンブラコドンブラコする程度の水量が高いところから流れてきているのか、そこらへんを知りたくなるような時がある。貴方の考えていることがわからないなと思った時に、貴方のことを知りたいなと思う瞬間がある。

辛みを水とする喩えが続いているけれども、むしろ水が余裕になるような喩えを思い浮かべてしまう人もいる。貴方という器の下に業火があって、水が全然足りなくて器の内側には塩ばかりがビッシリで、ただただ水が足りない。そういう風に辛いように見える人もいる。

なんでこれ書き始めたか既に忘れかけてるんですけど、要するに俺と貴方、或いは俺と誰かは、もっと近づけるような気がするんだけれども、そこで近づけるかどうかは現状、運次第だよなぁってことなのかなぁ。以上です。