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『エレファント・マン』の感想文と見せかけてただの日記です。

デヴィット・リンチっていうコアな層にバカウケのイカした監督がいるらしいんですけど、僕は過去『マルホランド・ドライブ』っていう映画を一本だけ観たことがあるだけで「う~わ、う~~わ」って言ってたんですけど*1、先日TSUTAYAをウロウロしていたらパッと『エレファント・マン』って聞いたことがあるタイトルが目に入ったので借りてきて、さっきまで鑑賞してました。その感想文です。本当に俺の感想だけで「う~わ、う~~わ」って言ってるだけで毒にも薬にもならないうえに無駄にネタバレだけガンガン挟まってるので今後観る予定があって未だ観てない人は読まないことをオススメします。というか僕自身も、あんまりネタバレとか気にしないタイプで、「この後どっちに展開するのかなーAかなBかなCかな、Aならどういうポイント挟めばうまくいくかな、ああ、こういうシーン入れるならたぶんBにいくのかな、こっからCいくのはキツいからやめといた方がええけど」みたいなこと考えながら物語を追うタイプの人なんですけど、『エレファント・マン』に関してはそういうABCが見えつつも「どっちいっちゃうの!?なぁ、お前どうするつもりなのよ、どっちいっちゃうのよ!?」ってところで興奮できた映画なので、できる限り前情報なしで観るのがよろしいんじゃないかと思います。いや、何の映画でも本来的にはそうなんでしょうけども。

で、だいたいこういう流れでネタバレ注意報出したら普通は、こう、改行しまくって空白作って、「よし、じゃあ未見の人はもういないですよね」ってやるじゃないですか。僕はそこに日記を書きます。本当に意味がないただの日記です。俺の『エレファント・マン』の感想文自体何の意味もねえんだから今更日記書こうが同じだろうがこの糞が。しかも『エレファント・マン』の感想文だけ読むだけ読んでおこうかって気分の人にも喧嘩を売るかのように日記から感想文に以降するタイミングで改行とか別にしないですからね。最後の「以上です」まで間断なく続きます。そして誰もいなくなった。今日は、観劇に行ったんですけど、ていうかこの前のエントリでその感想文も書いてるんですけど、久しぶりに梅田なんか出向きましてね。なかなか出向く機会ないですよ梅田なんて。言いたいことはいくつかあって、まず梅田ってめっちゃ人多いね。あいつら何なの?何であんなにたくさんの人がいるんだろうね。僕は北海道の片田舎出身なので今でもあれだけ人がたくさんいるのを見かけると「うっ」ってなってしまう。それでもいつも面白いな、と思うのは、僕は梅田だの心斎橋だのの人混みにウンザリした時に3回くらいしか行ったことない東京は渋谷を思い出すんですよね。これ東京コンプレックスみたいなものなんですかね、よくわからないんですけど、渋谷に比べればこっちの人混みはそんなに気持ち悪くないなーっていっつも思って。なんか渋谷の人混みを構成してる人たちって、眺めてると「こいつら目的地あるのかな?」ってとんでもなく不安になるんですよね。端的に言って徘徊してるように見えた。別にどこに向かってるとかそういうことではなくて、渋谷という街に蠢いてるような、人間が「そういう風景」に見えたのがとても印象深かった。別に東京者は冷たいとかそういうこっちゃなくて、なんだかそういう風に見えたんだ。それに比べりゃ大阪の人混みなんて、みんな家なりカフェなり何なりどこかに向かっているように見えるので、なんつーかそれはそれで「まだまだ」なのかななんて思ったりもする。渋谷は空虚が充満してる、なんていうとそれはあんまりにも穿った言い方だと思う。空虚じゃないな、なんだろな、気分が充満してる。気分というその場限りの人間のあれやこれやが充満してる、そんな感じだ。じゃあ大阪はというと、生活臭があるのかなぁ。気分と生活臭は違うよね。大阪は生活臭が充満してるんだ。なのでやっぱ東京とは違うよなぁ、って感じがした。あと、これただの悪口なんですけどヨドバシカメラの前の交差点、店外の路上にあたるようなところでiPhone6の予約受付中で~すみたいなのやってたんですけど、そんな要らんやろって思うんですけど男の店員さん6人くらいが路上でなんやかんや客寄せやってて。完全に「こんな客寄せおもろいやろ」のちょけたテンションになっていた。そういうテンション自体が全部悪いとは言わないんだけど、そのノリが外に向いてて、路上の人に向いてたらいいんだけど、6人もおるとそのノリが内に向いちゃうんだよね。内にウケたらオッケーみたいな、そういうフインキを察して、嫌だな、と思った。それただの悪酔いしてそこらへんで騒いでるおもんない大学生と変わらんやんけと思って大変嫌だなと思った。まー路上で何かやるのってしんどいから、そういうラクな方に逃げてしまうのは仕方ないよなと思うので現場の6人を咎めるつもりはないんだけど、しんどい中でずっと声を上げなくちゃならないなんて重荷を人に課す場合にはそこで変なチョケ方させないように適切な人員配置をすることが重要なんだろうなと思う。彼らを見て俺も小学生の頃にボーイスカウトに所属して休みの日に募金の呼びかけとかやらされてたとき、だいぶただの悪ふざけみたいなチョケ方してたよなーって思い出して一瞬情けない気持ちになったけど、前述の思考を辿ることによって「あんな配置をした指導者の大人が悪い」という逃げを打って自分の中で事なきを得ました。あと、嫁が苦手で俺が大好きな六三六ラーメンをここぞとばかりに食べました。おいしかった。しかし梅田は人が多くて、あんなに人がたくさんいたら無双シリーズだと処理落ちするぞと思ったけど歩いててもそんな処理落ち全くしなかったので世界と俺の脳のスペックすごいなと思いました。解像度無限大ってのはシャレじゃないんですよ。醜い、ということはこんなにも辛いことなのか。知ってたはずだが知らなかった。俺は外見というものにすごいコンプレックスがあって、何せ視覚と、視覚情報から生理的に脊髄で判断する好悪というもののパワーの豪腕さには舌を巻くものがあるなと常々思っていて、もちろん倫理とか道徳とか優しくしましょう体操とか色々あるとは思うんですけど、そういうものにほとんど初撃でトドメを刺すような豪腕がある、と美醜という概念に人間が振り回されるこの世界全員目ぇ潰れちまえと思うことが多々あります。過去に見たことも想像もしたこともないようなテリブルに、人はいつもどおりに振舞うことなんて決して決してできないのです。これは俺がそういう風に醜いものは排除しろって考えてるってことじゃなくて、その良し悪しはさておいて、「世の中、人間、そういう風にどうもできてるらしい」ってことなんですけれども、いやーエレファント・マンさん辛い。醜いだけでいつだって寂しくて、怖くって、言いたいことも言えない気持ちになるなんて辛すぎる。一方で身構える人の気持ちもわかる。知性はあるのか、言葉は通じるのか、同じ人間なのに醜いというだけで、丹念に丹念に確かめたくなってしまう人の気持ちもわかる。これは一緒に観てた嫁が言っていて、なるほど確かにそうだと思って関心した言葉なんですけど、「全員の気持ちがわかるから辛い」って言ってまして、本当にこれはそうで、最初はパッと見で超絶エレファント・マンさんを嫌ってた婦長さんが徐々に彼のことを思ってやるようになって、でもその思い方も完全に人間の心を持ったモンスターを守ってやる感じなのとか、咎めるほどじゃないからむっちゃ辛い。というか全体的に辛かった。ぶっちゃけナメてたよね。「奇形が主役で、大変重い名作」ということだけは知ってたので、まぁある程度覚悟というか心構えとかはしてたけど、心構えしてただけにまぁナメてたけど思いのほか辛かった。ここらへんは撮り方もでかいのかなぁ、マルホランド・ドライブの時も言ってた気がするけど、デヴィッド・リンチさんの撮り方って、純然たる物語って感じがしないんすよね。選択肢を選べないアドベンチャーゲームみたいな。アドベンチャーゲームなら、「さぁ、ここで主人公はどういう行動を取るべきだと思う?」とかいう選択肢が逐一提示されて、それを選んではミスってゲームオーバーになったらやり直し、そんなのを繰り返してハッピーエンドに辿りつけみたいな感じだと思うんですけど、そういうのは無くて、アドベンチャーゲームの臨場感・一体感だけはそのままに俺には何も決められずただ淡々と登場人物たちが俺の意に介さない感じで動いていくみたいな、なんかそういうところある。俺は兎に角エレファント・マンさんに共感じゃないけど興味津々というか、なんというか、エレファント・マンさんが病院でそれなりに優遇されて、最初はビビって何も喋らなかったのがどんどん饒舌になっていくのね。それがもう観ていて辛くて。「やめろ!エレファント・マンさん!そんなに調子に乗っちゃダメだ!人に優しくしたからってそんなに心を許しちゃダメだ!!」とか思ってめちゃめちゃ辛くて。それもおかしな話なんですよ、本来的には醜いから調子に乗っちゃダメ、なんてそんなことはないはずなんですよ。優しくされて嬉しいから、もっと仲良くなりたくて自分の気持ちを話すのは、全く悪いことなんかじゃないんですよ。それに対して「お前は醜いんだから」という理由でやめとけやめとけと思ってしまう俺の心。辛い! どうなるのかなと思って見物していたら、とりあえず間違いなく確認できたひとつの真理としては金があるやつとないやつだとないやつの方がえげつない、教養があるやつとないやつだとないやつの方がえげつないってことくらいで、それでもまーエレファント・マンさん思ったより辛い方向には行かなかったけどね。中盤1時間くらい経ったあたりは、優しくされて人の温かみに感動してポジティブシンキングなエレファント・マンさんが恋にでも乗り出したらどうしようと思って気が気じゃなかった。もちろんエレファント・マンさんが恋しちゃいけないなんて道理はないんだよ。でも俺はいつだって勝ち目があるコミュニケーション以外はするわけではないと考える人だから、誰かに恋をするとそれはヤバいパターンだから、エレファント・マンさんは恋しちゃいけないの?いいやそんなことはない、そんなことはないけれど、俺は『ノートルダムの鐘』のカジモトみたいな失恋を実写で観るのだけは、たとい白黒であろうとも御免蒙るぞ勘弁してくれとハラハラしてしまって、結局そんなんなかったから良かったんですけど。そんな感じでまぁまぁ終始思ったより辛かったです。本当に物語のキャラクタに感情移入するってあんまり無いんでビックリしました。エレファント・マンさんに限らず、色んな人の気分がお察しできて辛かった。あれ、ラストってどういうことなんですかね。僕は、もう何かそれなりに満足させてもらったし、自分にとっては十分すぎるかなとかエレファント・マンさんが判断して、うまく呼吸できないながらも人間と同じ姿勢で最期に寝ようみたいな自殺と解釈してたんですけど、嫁はそんな明確に積極的な自殺じゃなくて単純に病気で死期も近いから最近調子いいしもっと自由にやってみようってなノリであの姿勢で寝たって思ってたみたいで、まぁどっちでもイケるのかなと思うんでそこはどっちでもいいっちゃいいんですけど。あの終わり方で俺はもう「う~わ!う~~わ!」ってなって。もっとどうしようもない悲惨な話だと思ってたんですよね、観る前は。そしたら意外と「友達」が出来てああいう幕引きになった。俺はもう完全にこれは罠だ、と思って。これ完全に俺の捻じ曲がった主観の感想ですけど、デヴィッド・リンチのあの野郎は、俺らにこう思わせたいんだなと思って、「それでもエレファント・マンさん、それでもあんた、それなりに幸せだったよ」って、そう思わせたいんだろうなと思って、俺が醜くないから生き残って、だってエレファント・マンさんは間違いなく醜いからあんなに苦しみながら生きてそしてああして死んでいったのよ、それに対して生き残って明日も布団から飛び起きる俺が「あいつはそれなりに幸せだったから良かったんだ」なんて言っちゃいけないでしょ、それを言っちゃうと俺は何かを諦めたことになっちゃうよ。じゃあ幸せじゃなかったっていうの?もっと、ちゃんと、幸せになるほうがあったっていうの?そもそも幸せってなんなのよ、美にも醜にも平等な幸せの定義ってなんなのよって考え始めたらう~わ!ってなって、う~わ!ってなって。吐きそうになりながらエンディングのロール眺めてたら英語の文章が出てきて、俺英語強くないからたぶんだけど、実話だってさ! う~わ!って吐きそうになって。う~わ!! 以上です。

*1:その時に書いたエントリはこちらになります。

http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2013/11/20/131348

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