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犬を傷つける罪の重さが、その犬が持っていた役割次第で変わるなら、それちょっとつらい

何者かが盲導犬を刺す 被害男性「これは自分の“傷”」 (THE PAGE) - Yahoo!ニュース

僕も犬を飼ってたんですごく腹立たしくて悲しい気持ちになる話だなぁと憤ってたんですけど(憤りが一周した結果間違えて普通に飼ってた犬の思い出を語るだけのエントリまで書いた)、なんか本筋の犬がかわいそうで怒るのと同時に微妙に全然本題じゃないところでも微妙なことを思ってしまったので大変微妙な話をします、どうぞ大変微妙な顔で読んでください。

このニュース読んでると途中で動物愛護団体役員って方のコメントが出てきてそれが「どこに怒りをぶつけていいのか、本当に悔しいです。刑法上は『物』かもしれないが、盲導犬はペットとは違い、ユーザーさんの体の一部です。早急に法を変えて傷害罪と同等の罪に問えるようにしてほしい」っていう内容だったんですね。で、僕これ見て「あ、違うんですか、了解」みたいなんちょっと思っちゃったんですね。何せ僕はペットとしての犬しか飼ったことなかったんで、その経験を起点に物思うしかないもんでそうしてたんですけど、なんかこれ「ペットは別に『物』でいいですけど盲導犬だけは違うんです、身体の一部なんです」ってほぼ言っちゃってないですか? もちろん目の前で誰かがこういうこと言ってても何の文句もないですよ、だってそうなんだろうから、なるほどそうなんだって思うから何も言いませんけど心のどっかであんまり良くない「了解です」って感覚が残った気がするんですよね。同じように感じてる人がもしかして全然いないんじゃねえのかってのがこのエントリ書くうえでの最大の懸念なんですけど。

難しいのはスッカリこんな話はしたって仕方ない文脈なんですよね。だって犬傷つける奴は問答無用であかんとんでもない奴だとても許せないって満場一致でそうなってる状態じゃないですか。ここで「あれ、今ペットは『物』つった?」って言っても仕方ないんですよ。ともすれば「動物愛護団体の人は何も悪くねえだろなんで難癖つけるんだ、犬傷つけるやつは悪くないとでも言うのか?」みたいな感じにすらなりうるじゃないですか。「盲導犬は身体の一部だろ、何言ってやがる」ってのもそりゃあ正論だと思うんですけど、その正論をぶち立てるうえで「ペットは『物』」っていうのはセットで言わなくちゃならないことなの、ていう。「盲導犬は身体の一部」を俺が受け入れなくてはならない時、いやそれ自体は全然受け入れる態勢出来上がってるんだけれども、それとセットで「犬は与えられた役割によって『物』か『物以上』に区別されます」も受け入れなくちゃならないのであればそれはちょっと「受け入れがたい」……って言っちゃ駄目なんだよね、だって正しいんだから。それを受け入れないのは正しくなくて良くないことなんだから、全然受け入れるんだけど、なんかちょっと受け入れる瞬間に息止めるみたいな、腹筋に力入れるみたいな、そういう気合いが必要になってくる気がするんすよねぇ。

この話もまず今の刑法でいうと動物は一律『物』としか見なされませんよって現状があって、それおかしくないですか納得いかないんですけどって話をするために「盲導犬は身体の一部です」って持ってき方をしてるだけで言うてる方に全然悪気ないんだろうなってのもわかるんですけど、むしろ「盲導犬は身体の一部だから」って角度から盲導犬が『物』じゃなくなるんなら、自他共に認める身体の一部でも何でもない単なる愛玩動物に過ぎないところのペットはいつになれば『物』じゃなくなるんだろうとか考えちゃうわけですね。僕がこのモヤモヤを飲み込まないことと、すべての人間の権利が本来あるべき状態に近づくための努力とって、そんなに両立が難しいことでもないように思うんですけどそれがどうも許されないムードがあって、それは実際のところ難しくないように見えて実はすごく両立が難しいから本当にそのまんまの意味でペットよりも人権が優先されているということなのかもしれない。それならそれで「そうなんだ、じゃあ仕方ないね」と思うんだけどやっぱりそれを言う時僕は少し腹筋に力を入れていると思うんだ。

なんつーか、人間は馬鹿で短絡的だから二つのことを同時に細やかに考えることが難しくて、そんななかでなんとか「もっとよくする方法」としてとても大事な問題は当たり前にとても大事なことなんだよって大前提にしちゃうのがたぶんポリティカル・コレクトネスってやつで、これはこれで何も悪いこっちゃないしそういう方法を採用したお陰で昔よりよっぽど良くなったことはたくさんあるんだろうしこれからももっと良くなるんだろうと思うし、だけどその一方で、この方法を使うことによって別に本当なら飲み込まなくていいような人それぞれ考えて思って言うぶんには自由で喧嘩でも何でも好きにすればいいような話まで一緒に飲み込まなくちゃならんようなそういう息苦しさがあるような気がするんだけどどうすればいいんだろうか。

些細なことで言えば、老人に席はもちろん譲るけど、みんなホームで並んでるところに婆ちゃんが当たり前のような顔で横入りしていいかっていうとそれは違うはずじゃん、それを許す許さない怒る怒らないは人それぞれ色んな意見があって別にいいと思うんだけど少なくともこれは「お年寄りには席を譲ろう」というスローガンに基づいて判断するべき事象には含まれないよねとか思うんだけど、たぶんこんなこと言ってると俺が老人に席譲るの嫌な人みたいになっちゃう感じ、そういうのはいつまで我慢していつになったら言えるようになるんだろう。それがいつなのかは知らないけれども、もしそんな日がやってきたとしてもさ、「あのさ、前々からずっと思ってたんだけどさ」がスタート地点の対話って往々にして地獄にしかならないような気がするんだよね。以上です。