←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

俺のごく個人的な岡田あーみんの面白がり方メモ

憎い、お嫁さんが憎いです : 家族・友人・人間関係 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

これがまた小股の切れ上がったセクシーなトピ主でなかなか軽快な文体を披露していたので面白いからいっぺん読んでみ、間接キッスしてみ、つって嫁に読んでもらったら「岡田あーみんっぽい」というコメントが出た。

岡田あーみんと言えば何だかとっても面白い人ともっぱら評判の漫画家でうちの嫁も大好き。俺は一度も読んだことがなかったのだけれど、そういえば少し前に嫁が実家から単行本を何冊か持って帰って来て面白いからいっぺん読んでみ、間接キッスしてみ、つって勧められたんで『こいつら100%伝説』の1巻を読んでみたんだけどイマイチ面白がれなくて半分くらい読んで投げてしまっていたのだ。その時は確か一人で読んでいたんだけれども、せっかくの機会だし今もっぺん読んでみたらイケるかもしれんと思い『ルナティック雑技団』1巻を手に取った。なぜ今だったらイケるかもしれんと思ったかというと嫁がいたからである。うちの夫婦は、というか主に俺なんだけど、漫画読んでる人をチラチラ窺ってどこでウケてるかなどを観察して楽しむというイケてない中学生みたいなことを未だにやっている。むしろ中学生の頃から今に至るまで他の人間が相手であればそういうコミュニケーションはやるのもやられるのも完全に嫌いなはずなのだけれども、嫁が相手だとそういうの嫌いじゃないのである。小学生の頃は普通に友達とそういう読み方をしてゲラゲラ笑い合っていたような気もするのだが、つまりは俺が思春期こじらせたせいで誰にも心を開かない無闇やたらに人と距離を置きたがる残念なタイプの青年の標本として生きてきたというだけの話で、今俺の頭の中には四足歩行の猿から今の俺にいたるまでの進化の過程の挿絵がイメージされていてこれめっちゃおもろいやんけと思ったんですけど自然にこのイメージを読み手に想起させるような修辞を文章に盛り込むことができなかったのでそのまんま書きました。まぁそんなこんなで毎週ジャンプ買って読むのも楽しいし嫁が読んでるのを見るのも楽しいという失った青春を取り戻すように集英社様、今週も二度おいしい一粒をどうもありがとうございますと嗚咽するイケてない中学生みたいな顔つきのおじさんこと僕こと俺です。

そういうわけで、嫁にも読めるくらいの角度で『ルナティック雑技団』の1巻を読み進めてみたわけなんですけど、なんかサクッと全部読めました。明日たぶん2巻と3巻も読むと思います。その後もっかい戻って『こいつら100%伝説』もリベンジしようかなと思うんですけど、ノリで無策に挑むとまた返り討ちに合いそうな気もするので、面白がり方のコツを出来そうな範囲でいっぺん文章に起こしみて、面白がり方のフォームを身体に覚えさせる一助にしよう、ってのが今回の主旨です。

なお、あくまで「俺が面白がるにあたって意識した方が良さそうなところ」について書くだけで「この漫画の面白い点」「なぜ面白いのか」「面白いと言われる理由」については述べません。別にこの記事に限らずだけど、創作物の消費の仕方ってそんなもんでいいでしょ。

たぶんこの人の基本戦略っていうのは、余白をふざけて潰す、ってところにあるのかなーと思いました。話の運び自体はすごいシンプルというか手垢がついているというか既視感を覚えるような内容になっていて、ストーリーとしてはこの後どうなって最終的にはどこらへんに着地するかっていうのが読者からも何となくどこかで見知ってる程度のものなんですね。そして作者もその何となく共有されている既定ラインからは決して外れない。そこで奇をてらうタイプのギャグ漫画ももちろんあるんですけど、この人は(1巻しか読んでないからたぶんなんだけど)徹底してそれをやらない。するとどうなるか、ストーリーを進めるために描かなくてはならないモノ・コト・コトバがものっそい少なくなるんですね。分かりやすくて面白かったのでいうと、ヒロインに思いを寄せる恋敵役のルイというキャラクターが出てくるんですけど、そいつの初登場シーンのセリフが「ボクの名前は愛咲ルイ フランス系クォーター」で終わりですよ。コマ3段ぶち抜きの全身カット(絶望先生の久米田先生がアホみたいに多用するやつ)で背景キラキラしてるし、わかるやろ、フランス系クォーターさえ書いとけばもう十分やろ、と言わんばかりです。大体ずっとこんな調子で何となくどこかっで見たことがある展開に終始するので、最低限必要な描写さえやっておけば読者は苦もなくストーリーについていくことができます。で、こうなると描かなくてはならないことがあんまりありませんので、やたら余白ができます。そういう時、普通の少女漫画だったらどうするんでしょうか、あんまり詳しくないんでアレですけど僕の勝手なイメージでは無駄に街路樹とかめっちゃ出てくる気がする。斜め上からやや俯瞰気味で別れ際にヒロインをドキッとさせる一言をポツリとつぶやく男の子、みたいなシーンをやる時無駄に街路樹描いてないですか、少女漫画って。今これ完全にイメージで喋ってますけど。で、本来であればそういう街路樹とか描く用の余ったスペースに変なこと描いてしまうってのが岡田あーみんという人の漫画の面白がりポイントなのかなぁ、ってのがとりあえず現状の僕の読み方になってます。

俺の右耳から入った嫁の解説が俺の左耳から抜けてく際の俺の脳内フィルタにこびりついてた漉しカスみたいな全く信用ならない情報に依ればこの作品はなんか「前作まで本当にわけわからんもんばっか描いてる自分に嫌気がさした岡田あーみんが王道少女漫画にチャレンジしたが結局岡田あーみんだった」みたいなものらしいんですが、この情報を鵜呑みにするととっても面白く読みやすい。話が王道なので普通に進めりゃ普通に楽しそうでハラハラドキドキな王道少女漫画になるはずなのに、ちょっと余白が余ってるからって止しときゃいいのに何か変なもの描き足しちゃうもんだから何だかおかしなことになっている。「大体これどういうシーンでストーリー上こういうシーン挟んどいた方がいい感じ分かるやろ」に胡坐をかいて「これくらい崩して過剰にしてもまぁシーンの意味合いは変わらないでしょ」って感じでやりすぎる。ちょっと油断するとすぐボケちゃう辛抱強さの足りない作者を「うわーここ何ページか普通にイケてたのに、普通にときめける感じになってたのに出たよ出ちゃったよ悪い癖」みたいな感じで読み進めると面白い。いや、この読み方が正しいのかは知らないけどね。俺はそういうアプローチで面白がれてるので結果オーライです。

こうして、つまりは「既定文脈を信頼しすぎてしまう甘えの結果として出現する暴走」みたいなものがこの人の基本戦略なのかな、と仮置きすると『こいつら100%伝説』も何となく読めるんじゃないかなという気がしてくる。ただ、まぁやっぱ『ルナティック雑技団』よりはたぶんもっと全然分かりにくい気がする。前一回読んで挫折した状態にてうろ覚えと勘と想像でテキトーに喋るんで、全然撤回する可能性あるんですけど、あれは「わかるやろ」で読者に投げてる部分がもっと多いような気がする。うっすい記憶を辿るに『ルナティック雑技団』と比べてもびっくりするくらい大ゴマを使ってなかったような気がするんだけれども、たぶんそれは狙って必要ないから排除してるんじゃねぇかなと思う。細々したコマ割に過剰にセリフが多くてそのくせ本筋の進みはいまいち遅い、ってのが僕が『こいつら100%伝説』を前読んだ時の印象だったと思うんですけど、普通に読み進めて描いてあるままに読むだけの僕のやり方はたぶん間違ってて、もうちょいこっちでパワーを使ってやる必要があったんだと思う。なんつーのかな、「最低限の構図だけちゃんと読者に提示するんで、あとはその構図をヒントに読者側の脳内で組み立てなおしてイイ感じのスピード感とかテンポとか背景とかキャラの細部とか、全部そっちで補ってくださいね」みたいな。構図っていうか設計図みたいな。もしかしてあれはそういう読者脳内補完を前提とした造りだったんじゃねぇのかなと、うろ覚えながら今思ってる。違ったらまた「違いましたわ」って報告します。脳内補完を前提とした造りでいうと、そういえばうちの嫁はテニスの王子様が好きなんですけど、ある種のテニプリファンってキャラへの愛着がすごいじゃないですか。よくわからない口癖とよくわからないテニヌ合戦しかしてないのに、何でそんなにキャラを愛せるんだろうと僕なんかも昔は思ってたんですけど、そこもやっぱり読者の脳内補完ですよね。僕は怠惰で頭の固い読者層の生まれなのでそこらへんちょっと弱くて、そういうキャラの輪郭をこっちでより明確にして面白がるっていうのは最近やっと少しずつ出来るようになってきました。そこらへんの脳内補完の一助としては「作品内の独自の文脈」とどう仲良くするかもあると思います。「少なくともその作品内においてはこう来たらこう」「このキャラがこういう状況になったこう」みたいな、そういうノリをどれだけ寛容に積極的に「そうだよな!そう来たらそうだよな!」って脳みそがスッと受け容れられるかってのは漫画の毛並みによっちゃすごい大事になってくることがある。僕はここらへん作品世界内ルールの更新の確認とかは割と敏感に楽しむことができるほうだと思うんだけど、キャラの行動パターンのお約束みたいなものには割りと鈍感なので、ここも意識しないと『こいつら100%伝説』ちょっと厳しい気がする。榎本俊二が僕は大好きなんですけど、『ゴールデンラッキー』と『ムーたち』はまじで狂おしいほど好きなんですけど、『えの素』はそこまでなんだよなーって感じちゃう理由の一部はたぶん漫画を動かすうえで「キャラに関するルール」が占める割合が前述の二作品と比べて相対的に多いことにあるような気がする。あーそう考えると『えの素』面白がれるかリベンジするタイミングに差し掛かってきてるのかもしれないなぁ、今の俺。

というかね、物語としてのリアリティ・お約束的文脈はすんなり受け容れるくせにキャラが物語の中で作っていく文脈には鈍感っていうのはコレ単純に僕の教養が足りてないってのがでかいですよね。そもそもここで言ってる物語のリアリティだって過去の誰かいちいち作品の中で創り上げていったものに間違いないわけですから。「ずるい考えで得をしようと企むとしっぺ返しを喰らう」っていうお約束ものび太ドラえもんが作ったわけですから。うそうそ今のうそ、落語まで遡っても全然足りない昔からある話だわ。ちょっと今のは完全に例をミスりましたけど、何にしても現在2014年に累積されているリアリティたちの原典にあたってないから作者が提示した新たな文脈を受け容れる受け容れないにムラが出てくるわけで、ここを均していかないと単純に楽しめたり楽しめなかったりに運が絡んできてしまいますので俺が損してしまいます。なので、もう今となっては古典といっても差し支えないような昔の漫画、もっと読まなあきませんね。『北斗の拳』も『キン肉マン』も『聖闘士星矢』も読んでないですからね、僕。よくネタになる要所要所だけ頭に入れておけばいいやと思ってたんですけど、こうして今回岡田あーみんをキッカケに思いを馳せてみるに、そういう問題じゃなくて、「今目の前に出現した文脈を咀嚼する訓練」って意味合いで、やっぱ名作は読まにゃならんなぁと、そんなことを思いました。以上です。