←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

走り書きにサービス精神などない

つまりこれ読んで面白いのかは知らない。今待ち時間的な暇さが俺の心に満ち満ち溢れてるので時間つぶしになんか書きます。

自覚のない釣り師の存在について - お前のことが好きやったんや

冒頭の引用めっちゃいいこと言ってるやんと思ったら俺だった。

結局、人間は不安が怖いのでケリをつけたいのだと思う。早く決定してしまい考えることをやめてしまいたいのだ。ここらへんの話は福本伸行向井秀徳の「繰り返される諸行は無常、蘇る性的衝動」と同じくらいのペースでやってる話であるがあいつは最近話を引き延ばしすぎだ。

だから俺がいつも言いたいことは、あるお題があってそれに対する答えはこうだとかそういう話がしたいわけじゃなくてね、♪ニンジン、タマネギ、ジャガイモ、豚肉 の時点ではまだ全然肉じゃが作ってる可能性全然あるよね、っていうことなのね。なんでカレーだと思ったの? しらたきワンチャンあるよ? これ次のフレーズにしらたき出てきた瞬間まずカレーのセンは消えるよね? なのに何でもうこの段階でカレーだって決めつけたの? と僕が問い詰めると耳切り落としてダラダラ血を流した男は「だってお前がメロディアスに言ったんだから騙し討ちじゃないか」とこぼした。あの歌そんなメロディアスって言うほどのもんじゃねぇだろ。

自分のことは棚にあげて良くも悪くも他人は一貫している、ということにめんどくさいからしておきたいという怠惰が人間にはある。取り分けわからない人間にこそそういう決め打ちをかましたがる傾向があるが、わからない奴をわからないと言ったところでそいつが居なくならないということはわかる。ビバリーヒルズの高い高い空に肩外れる勢いで石をぶん投げたら当たるようなありがちな話として、例えば女性が何か悩みを抱えててそれを慰めようとする男がいてなんやかやあってヤっちゃって、「結局身体が目当てだったのね」みたいな話があると思うんですけど、いやそんなこと白人ブロンド美人は言うのか? あんま外人言わなさそうな。知らねぇけど。なんで俺ビバリーヒルズって言っちゃったんだろう。まぁいいや。「身体が目当てだったのね」って話は古今東西どこでもヤってる、お恥ずかしながら我々極東の黄色い猿も日々生きてる感じそんな話を数えると枚挙に暇がありません。けど、「身体が目当てだったのね」っていうのは果たして本当にそうなのか、って俺は思うのね。俺が今から喋ることが性善説なのか性悪説なのか俺もよくわかってないけどね、「いや、最初は善意だったんじゃねぇの?」って思うのね。もちろん中には悪い奴もいると思うよ。最初っからとりあえず一発したためるために近づく男もいる、チンチンと脳と舌先三寸のジェットストリームアタックだよね。まぁそういうケースもあるよ、無いとは言わないけれど果たして全てがそうなのか、いや、そんなことないだろってことを俺は言いたいのね。最初は本当に純粋な善意、まぁ男女のことなので本当にタダの善意なんてないんだぜってスタンスならそれはそれでいいんだけど、別に最初っからヤってポイする気がなかろうとも普通に悩んでて大変そうだからちょっと話を聞くよって感じで近づいて成り行き上いい雰囲気になったところでごめんそういえば俺チンポついてるんだった一本だけだけど、そりゃ一本やろ。みたいな、そういうこともあると思うのね。勘違いしてほしくないのは僕はコレを以て「男ってサイテー」を取り下げてくれ情状酌量してくれなんて言うつもりはサラサラないんだ。「男ってサイテー」その結論に僕からこれと言った異議申し立てはないけれども、ただただシンプルに「その結論に至る過程、間違ってる可能性ありますよね?」ていうそれだけなんだけど。「最初っから身体目当てだったのね」という事実とは異なる解釈を元に今後の対策を練るのは単純に穴が多いよね、っていう。そこが怠惰なんだ。特に自分に不利益を与えた相手にほど、勝手に憶測でシンプルでわかりやすいストーリーを背景に求めてしまうというのは怠惰なんだよなぁ。つまりしらたきワンチャンあるで、っていうのはそういうことなんですよ。

資本主義の夢が声高に叫んでるせいで「ありのまま」というフレーズが生きてるだけでちょいちょい登場してめんどくさいな、と思うんですけど。そこらへんをテーマにしたブログ記事のタイトルを散見したけどごめん読んでないけど、というのも、「ありのままの自分」って無じゃないですか。だってありのままって何の影響も受けず自分のみで単体で存在してる自分でしょ。俺はそれ無だな~、光もなくて上も下もない、音も匂いもないところにいるのがありのままの俺でしょ、そうなるとありのままの俺は無だな~。結局踏みしめる大地があるから土踏まずという概念があるわけで、大地とは全然関係ないところで別箇に独立して存在するありのままの足には土踏まずはないよね、っていうか大地もない何もない空間の俺にとっては足って概念自体不要だよね。というまぁアリがちな丁稚上げではあるんだけれども、「ありのままの自分」と「自分にとって都合の悪いものが存在しない世界の自分」の違いが正直俺にはよくわからない。そしてこういう言い方をした時の「ありのままの自分」が存在するその世界には「自分をありのままの自分以上に良くしてくれるシナジー効果の高い何かしら」が溢れかえってるような気がして、なんかそうなるとどうも胡散臭いな、と感じる。ので、もちろん彼らが辿り着きたい地点、言わんとしていることは分かるし、そこに俺だって興味がないと言えば嘘になるけど「ありのままの自分」経由でそこに思いを馳せることは俺はないかな。

何となく自分にとっての「面白いこと」をなるべくたくさん言いたいな書きたいな、というのは日ごろ思ってるんだけど、それって実際何なのってのはうまく言えないけどうまく言えない俺をやる俺が楽しいからいいやって感じだったんだけど、最近ちょっとわかったのは何でも目に映るものは目に映るようにしか見えないってことで。例えば3mくらいある角材が立てかけられてるとするじゃないですか、もしそれを見た貴方が木に成ってる柿をどうしても食いたいなと思ったらそれは柿を取るための棒にしか見えないだろうし、そのすぐ横にアホみたいな顔をした子供がいたらきっと貴方にはその角材が危険物に見えてくるだろうし、そこにあるのはただの角材なのにこっちの心持次第で全く違う概念を纏ったりする。これ自体は普通の話。自分が興味があるのはそこが切り替わる速度と頻度なんじゃないかという気が最近してきた。頂くコメントで嬉しかって覚えてるのは「2,3行油断するともう何の話をしているかわからなくなる」だとか「だいぶたくさん読んでそれなりになるほどという気分になってたのによく見ると話が全然進んでない」だとか、そこらへんで、つまりはそういうことなのだろう。で、今からそこらへんの話しようと思ったけど待ち時間終わったからもういいや。また今度。以上です。

広告を非表示にする