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作品鑑賞でも「ゾーンに入る」という概念を意識してみたらどうだろう

作品を鑑賞する受け取り手側にも「ゾーンに入る」という概念を取り入れたら、感想を言い合ったり議論をしたり良いところ悪いところを探してみたりする際にもっと滑らかに柔らかくより深くに潜れるんじゃないだろうかという話に最終的になるんですけど、そこまでがたぶん長い。

みなさん、ゾーンという概念をご存知でしょうか。最近は『黒子のバスケ』で特殊能力の名称みたいなノリで取り上げられててちょっと使いにくい言葉にはなっているのですが、別にそんな厨二的なものではなく普通に現実に存在する概念です。もともとはスポーツの現場で使われる言葉で「ボールが止まって見えた」とか「今は外す気がしない」とか聞いたことあると思うんですけど、ああいうのが「ゾーンに入ってる」状態ですごい簡単に言うと集中の極致。普段の僕たちはああしようこうしようあれを踏まえるとここを押えなくちゃとか色々なことを意識無意識問わず考えながら行動を都度都度選択して生きているわけなんですけれども、そういう考えなくちゃならないことを考えながら動くというフローが身体に染みこんでいる人がすごい集中するともうそういうのいちいち考えなくとも「こうすればうまくいく」という一本筋が見えてくる、むしろその一本筋以外見えない、他に選択肢がないのだから当然そうする、自然に身体が動く、そしてそれは絶対にうまくいく、みたいな。なんか僕の中ではそういうイメージのものとして認識しています。

そしてこのゾーンは別にスポーツに限った話ではなく僕らの日常生活の中でも全然発生してるもんだと思うんすよね。例えば、なんか小学生の時に高坂くんと虫を獲ってたんですよ。あ、高坂くんっていうのは僕と家が隣で今でも仲が良い高坂くんなんですけど、高坂くんとどっちがいっぱい虫を捕まえられるか競争してたんすよ。虫獲りアミもなく二人とも素手に虫カゴだけ持ってね。で、何時間くらい虫捕まえてたかわかんないんすけど、なんかの拍子にパッとお互いの虫カゴ見たら蝶とかバッタとかに紛れて蜂が何匹かいて、二人でうぇ~~~~~!?ってなったんですけど、もちろん手は無傷なんですよ。ただどうやって捕まえたのか一切覚えてないし仮に今もう一回蜂捕まえろって言われてもそんなの無理に決まってるだろって感じなんですけど、現に蜂が虫カゴにいるんですよ。もう「虫を捕まえてカゴに移す」っていう作業に集中しすぎて蜂がやばいとかどうでもよくなってたと思うんですけどまじで一切覚えてないんですけど、僕はこの話を思い出すにつけ「うわ、あれゾーンやったな~」と思うんです。あと、男子あるあるの「エロ本拾ったり買ったりして帰るチャリがめっちゃ速い」ってのもゾーンだと思います。実際の速度以上に体感的に速さがヤバイしちょっと風と一体になってた気がするあの感じは絶対ゾーンでした。

更にこのゾーンを拡大解釈すると別に結果的に良い方向に進むものだけがゾーンではない、と考えることもできます。「こうあって当然と脳がすごいスムーズに動いてあの時ああなってたけどあれ何だったんだおかしいだろ」みたいなもうそういうの全部ゾーン。2ちゃんとかでたまに見かける「何故かはわからないが俺はその時彼女も俺のことが好きに決まってると完璧に信じきっていた」みたいな恋愛失敗談、ああいうのもゾーン。小学生のころ我が家に初めてWindows95がやってきたんですけどソリティアくらいしかやることなくて、とりあえずソリティアやってたんですけど、ある夜布団に入ってたらとつぜん虫歯がズキズキと痛み始めて薬を飲んでも痛みは治まらないどころかより強くなる一方で激痛にのた打ち回る僕は頭の中でずっとソリティアしてて毎秒数百枚のトランプが押し寄せてきててもう殺してくれと思ったアレもゾーンですよ。わかりやすいエピソードを探すとどうしても子供の頃の話ばかりになりますが、別に大人になってもなんか異常に集中してたな今、みたいなんあると思います。身近なとこだと普段から料理する人とかゾーンに入りやすそう。

なんかこう、ゾーンに入る主体はほかでもない「私」であるにも関わらず、ゾーンに入るには環境や刺激などの外部要因がマッチしていることが重要であるため受動態としての「私」も同時に強く意識される感じがなんか変てこで、俺はこのゾーンという感覚めっちゃ面白いんですけど。

じゃあもしかしてこの「ゾーンに入る」って考え方を作品鑑賞にも適用させたら面白いんじゃないのかっていうやっと本題です。

映画でも漫画でも何でもいいですけど、何か作品感想を言おうとした時ってどんなに言い方選んでも主語は「この作品は(面白かった/面白くなかった)」か「私は(楽しめた/楽しめなかった)」のどちらかになってしまうじゃないですか。前者だと油断するとすぐにお前の主観を一般論化してんじゃねぇみたいな諍いが起こるし、後者はお互い腰が引けてあまり思うところも言えず「まぁ人それぞれだからね」に着地してしまうしでそれはどうにも上手くないというか、もったいないなと思うことがあるんですよね。人それぞれで終わってもいいけどそれもなんだか味気ないし、みんなもっと面白いものを観たいから、もっと好きなものを探したいからどうしてもそのために色々あーだこーだ言いたくなる人もいるじゃないですか。そこで「私はこの作品でゾーンに入れた/入れなかった」みたいな言い方をすることで、作品が悪いのかそれとも観た人が馬鹿だから楽しめなかったのかみたいな責任の所在は曖昧にしたままに、自分と違う意見の人ともいくらか忌憚なき感想を言い合えるようになるんじゃねぇかなという仮説です。

「(私にとって)面白い作品とはこういう作品だ」は「こういう要素があると私はゾーンに入りやすい」になるし、「こういう展開になると一気に冷める」は「こういう展開になるとゾーンに入りにくくなっちゃう」で、「この作品を私が評価する理由」は「私がこの作品でゾーンに入る時に意識しているコツ」で、なんか色々マイルドになってハッピー、みたいな。消極的な「まぁ人それぞれだからね」よりももっとポジティブな「みんな違ってみんな良い、みんな色々なやり方でゾーンに入ろうとしてる」みたいな感じになるんじゃねぇかなぁ、と。

まぁそんなことを思いついたので書き留めたんですけど、ほんとにさっき思いついたところだったので、これほんまに合ってんのかちょっと使える範囲から実践で使ってみてゾーンの概念の導入が役に立つかどうか検証していきたいと思います。もちろんこの考え方が万能だという結論になる見込みはほぼほぼゼロですし、そもそもゾーンに入ることが目的で鑑賞しているわけではないと言われたらそれまでなんですけど、言い方一つで、ガラッと変わることが、意外とあるかもねーっていう。

余談ですが僕腐女子向けアニメって全然意味わからんかったんですけど昨年『Free!』というアニメを視聴してまして、嫁に「どうやって面白がればいいのか」をレクチャーしてもらいながら毎週観てたんですけどここで「BLの楽しみ方まぁまぁわかってきた」とか言っちゃうと冷やかしかと思われて「お前なんかにわかって堪るか」と怒られやしないかとビクビクしちゃうんですけど「後半は結構ゾーン入れてたような気がする」と言えば幾分かマイルドには見えないでしょうか。どうでしょうか。怜ちゃんが好き。あと漢字なんだっけと思ってググったら二期決定してた。やったね! 以上です。