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ちぎって繋げて好きなとこだけ持って帰って

クロマニヨンズの『雷雨決行』という歌がとても恰好良くて好きだ。「言いそびれたことはあるけど(中略)やり残したことなどないぜ」っていう言葉のつなぎ方が言わんとしていること【だけが】分かってとてもグッとくる。

▼僕が本を読んでいて悲しくなるのは、本を捲る右手で感じてる本の厚みがどんどんどんどん減っていってしまうことだ。今まさに読み進める僕の気持ちや、物語のキャラクターたちの心情とは全く関係ないところで、僕は物語の終りを問答無用の狂いのない精度で否が応でも予感してしまう。

▼指揮者さん(id:nyokkicond)の、作品を紐解くときに作者の公式見解や意図をどう処理すべきかみたいなブログ記事が面白かった。「あれはこういう意図なんです」と作者が言ったところで、それがうまくハマってなかったら「こういう意図でやろうと思ってミスった人の作品が結果として人にどう思われるのか」と思って読んだ方が、少なくとも俺は楽しい。週刊少年ジャンプが俺が大好きなのも同じで、作者が「読まれ方」と「書きたい」の両天秤の間であそこまで大々的に踊ってる舞台というものはなかなかないと思う。なので俺はジャンプが大好きだ。

▼『ゼロ・グラビティ』観たんだけどすげぇ面白かった。で、大抵の人が「すごかった」「映画館で観た方がいい」以外あんまり詳しく突っ込んで言わない感じもよくわかった。SF映画の新たな到達点みたいな言われ方をしてるようだけどそれもよくわかった。宇宙はこんな感じなのか、と思って、これまでの映画ではこんな風に宇宙を描けるような技術が追いついてないからちょっと嘘の宇宙を描いてたんかなとも思った。だからって過去の宇宙を描いた映画が宇宙をナメてるとかそういう話ではない。

▼先日、歌い納めだーとか言って嫁と二人でカラオケ行った。二人とも前世は海賊なので歌うのはめっぽう好きなのだ。ただ、選曲に気を遣うのはごっつめんどくさいかんじ(巨人の優勝決定戦で急きょ中止になったことがキッカケで終了になった)なところがあるので、あまり人と行くのは好きではない。趣味が合うとまではいかずともお互いの趣味はさんざ知っててそれを許容できる人と行くくらいが丁度よくて楽しい。

▼今朝起きたらいぬじんさん(id:inujin)の記事が上がってたので読んだ。乱暴にまとめると「自分の楽しかった話を持たざる者の側として受け取ってしまう人がいるかもしれないので、繊細チンピラを気にすると喋れることがなくなってしまう」という話だった。「そんなの気にするな」というコメントをいくつか見かけたけど、彼らだって「まったく人を気にしてない」なんてことはないわけで、「気を遣って喋れば大丈夫」と言う人だってきっと誰かを傷つけている。この手の話のゴールなんて実際に楽しい時間を過ごして「あ、今があの時思い悩んでいたあの感じの答えだ」と気づく瞬間にしかないと思ってる。そしてそれはさよならをして寝て起きたら八割がた忘れる。

▼自分の中のつまらん整合性だとか誠意だとかを貫いた結果、誰かが不要にモヤモヤを残してしまい、自分と自分の周りにいる人をトータルで見渡した時なんだかもっと楽しい気持ちの総量を増やすことができたんじゃないのかなぁと思える瞬間がある。無論これは誰かのつまらん意地を許容してやれと一概に言っているわけではない。

▼そんな大げさに手放しに大賞賛するつもりもないんだけど、『ゼロ・グラビティ』は今だからこそ作れた映画なので今より前に死んじゃった人はこの映画を見ないで死んでいったんだな、と思った。「人生半分損してる」とかそういう話じゃなくて、2013年に誕生した映画は、2012年に亡くなった人には見られない、という当たり前の話。死んだおじいちゃんに見せたかったなと思うけど晩年のおじいちゃんがあんなん見たらびっくりして死んじゃうかもな。

▼例えば嫌悪、軽蔑、嫉妬、憎悪、羨慕、などなど人が人に何かしらの感情を抱く時にそれはいったい何なのかをちゃんと自分で把握していたい、みたいな考え方の人を今年は多く見かけたような気がする。というか、そういう志向性をもって今年の俺はネットを徘徊していたのだろうと思われる。現実でそんな話するやつはなかなかいない。自分は何でもいい人なので把握したい人には把握することを是とする前提みたいなものにある程度乗っかりながら話をしていたが、俺はむしろそこを言い切ってしまうのはもったいないようで自分ではあまりしない。もちろん例のようなネガティブな感情の場合はそうして分類してしまったほうがよっぽどラクなんだけども。

▼『ゼロ・グラビティ』のすごいところは、最初から最後まで「やばい死ぬかも」と思いながら観ていられるところだ。どうしても「こいつは死なないでしょ」みたいな冷めた意識を裏ポケットに忍ばせながら物語に触れざるをえないのが大人になって悲しいことの一つだけど、そこをぶっ飛ばしただけでめちゃめちゃすごいなと思った。

▼カラオケにて嫁がこの前テレビで久々に聴いたらめっちゃ良い歌だったからと言って『らいおんはーと』を歌っていた。それを僕は聴いていたのだが全然良い歌に思えなかった。子どもの頃聴いた時はいいこと言ってるように思えたのだが「いつかもし子供が生まれたら世界に二番目に好きだと話そう」の下りがどうも今現在の俺にはめちゃめちゃ気に食わないようだ。理由は大体わかるけどまぁいいや。

関ジャニ∞の仕分けうんたらみたいな番組をたまにテレビで観たりしてたのでたまには面白いかもねなんて言って10年ぶりに採点カラオケをやってみたりした。僕は歌は苦手で中の下か下の上くらい、嫁はそこそこうまくて上の下くらいかな。嫁は「自分が歌ってる時に音程の揺れを逐一判断されるのは気が悪いけど人のを見てるのは楽しい」と言っていた。僕もそうだなと思った。僕はリズム感がないので、好きで長いこと聴きこんでいる歌はまだマシなのだがこの前少し聴いて歌ってみたかった程度の曲だとタイミングの項目の評価が壊滅的だった。

▼諦観でも何でもなく、伝えたいことはいくら伝えようと思っても本当に伝わるその時までは決して伝わらない。文章にしても僕の一挙手一投足にしても、それらは僕の意思なんて全然関係ないところで受け取る側の勝手に思うがままにちぎって繋げて好きなとこだけ持って帰ってもらうというただそれだけのことなのだと思う。それで向こうが勝手に僕を憎からず受け取った時に、こっちも素直に照れくさく思えるような、それくらいの準備だけはしておこうと思う。

 

参考リンク

楽しいことが、話せない。

http://inujin.hatenablog.com/entry/2013/12/30/004547

「作者の気持ち」は作品の評価に必要か

http://shikisha.hatenablog.com/entry/2013/12/28/114913