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認知症の話題見かけたので佃典彦の『ぬけがら』を紹介します

認知症になってしまったあなたは、「なにもの」になる?

http://kyouki.hatenablog.com/entry/2013/12/26/075712

ボケたくないから書いてます

http://macchauno.hateblo.jp/entry/2013/12/28/165338

なんか認知症の話題を見かけたの何か書こうかなと思ったんですけど、さすがに他の話題と同じノリでいつものように「僕認知症っていうやつはこうだと思うんですー」って話もできないんで、思い出した物語の話とか。

 

ぬけがら

ぬけがら

 

内容紹介

 むかしの同級生との浮気が原因で妻に愛想をつかされ、家を追い出された中年男がみずからの父親のθに遭遇する。
 なにをやってもうまくいかない男は、妻に先立たれた82歳の父親の面倒をみることになる。しかしその父親がトイレに入ったきりでなかなか出てこない。そこでおそるおそるトイレのドアを開けてみると、そこには、まるで蝉のぬけがらのような、中身のないフニャフニャの父の皮膚だけが残されていた。
 その後もさまざまな場所でθを繰り返し、そのつど10歳ずつ若返っていく父親は、しまいには自分の息子よりも若くなってしまう。このさき、どうなってしまうのか。
 だらしのない息子を立ち直らせるべく、各「世代」の父親がみずからの生き方や体験を語りはじめる。行きつけの喫茶店の話、昭和の想い出、息子の母親との出会い、そして戦争の記憶・・・・・・。
「秀逸なアイデア」と選考委員が絶賛した、第50回岸田國士戯曲賞受賞作品。

 θってのは要は脱皮ですね。

興味深いのは、作者はこの物語の着想を認知症になった父親の介護体験から得たっていう背景なんですよね。

自分は介護の必要な老人と生活を共にするという経験は今のところないのですが、認知症の老人の精神が子供に戻るなんて話はよく見聞きするところです。

また、記憶の混乱というべきかはわかりませんが自分の祖父の見舞いに出向いたら若い頃の父だと認識されたとか母だと認識されたなんて話もポピュラーです。

今と昔とその間その間の当人が生きた時間の記憶が一緒くたになって綯い交ぜになってるのかな、というイメージが自分にもあります。

この作者も実際の介護生活の中で様々な時代のことを今・ここでの出来事であるかのように縦横無尽に語る父を見て、一度すべてがドロドロに解けてサナギになって再構成する脱皮のモチーフを得たんだろうと思います。

今手元になくてだいぶ昔に触れた物語だったのでだいぶ曖昧なところもあるんですけど、感想。

明石家さんまさんのお婆さんの名言で「生きてるだけで丸儲け」なんて言葉もあるけど、それって裏を返せば「生き続けるのって大変だ」ってことですよね。

老害なんて言葉も今ではすっかりお馴染みなんですけど、この糞めんどくさい人生を自分より何十年と長くやってるのってやっぱそれだけですごいし大変なことだと思うんです。

考えが凝り固まってるとか、人の話が通じないとか、ボケちゃうとか、そりゃそんだけ生きてりゃ仕方ないよね、みたいなのもわからんでもない。

今はこんなんかもしれないけど、格好いい時もあったし、誰かを守るために踏ん張った時もあったし、俺の人生なんなんだっていうことを自分よりよっぽど長い間考え続けたし、自分よりよっぽど長い間誰かを愛した。

それってやっぱり素直にすごいことだし人生の先輩として尊敬して学ぶべきところを探す対象なんだろうなと思います。

まぁもちろんこういう言い方はあくまで「信仰」であって実際に老害そのものみたいなジジイババア見つけたらお互いいち人間として対等に蛇蝎の如く嫌ってやりますけどね。

御守り代わりにそういう「信仰」を持っておくのは自分自身のためにもすごく大事なことなんだろうなとか。

そんなことをすごく照れもなく思わせてくれる良い物語だったなーと記憶しております。

冒頭のAmazonリンクから本を買うこともできますが、生憎これは小説ではなく戯曲です。

つまりお芝居として上演することを目的に書かれた台詞とト書きのみで構成される物語です。

あまり馴染みがないのでなかなか取っ付きにくいものではあるんですが、この物語は母に先立たれ父親と息子だけが残された住居だけを舞台にシーンが綴られているので初心者にもかなり読みやすい部類かと思われます。

もしも興味があれば、荒唐無稽な設定を携えた物語が読み手の想像力で補完されることによっていともあっさり腑に落ちてしまう出鱈目に懐の深い戯曲の魅力に触れてもらえれば幸いです。

 

余談になりますが、まぁ僕だけのおばあちゃんってわけでもないので詳細は省きますが、一度認知症がそこそこに進んでるお婆さんとお話する機会がありまして。実際聞いてみると本当に話が飛び飛びで子供の頃の話をしていたかと思えば自分の息子が小さい頃の話を語り、僕を誰だと思って喋っているのかすら目まぐるしく変化しながら様々な時代の話をするんですけど、最後は必ず家族や周りの人への感謝の言葉に落ち着くんですよね。みんなありがとうって言うんです。「最後は必ず」っていうのは一区切りついたら喋りだして、また色んな時代を巡る大冒険が何周も何周も続くからなんですけど。例えば認知症が進んで猜疑心が強くなってしまった人の話なんかもたまに聞いたりしますし、引用元のイチロー父さん(id:yumejitsugen1)の記事の中にも

年を取って認知症になってしまった時、人はみな、そのコアにあるものが、最後の自我、すっぱだかの自分になるのかな。 

 なんて下りが見受けられます。もしそうだとするならば、あのおばあちゃんは何て人に優しい良い人生を送ってきたんだろうかと思えて、やっぱり学ぶところがあるなと思います。僕はまだまだ若く、そんな老人になった時のことを考えられるほどの余裕はないわけですけれども、何はともあれ最後に「ありがとう」が残る生き方というのはひとつの理想だよなぁ、と今でも印象深く覚えています(なんかもう死んだみたいな書き方なったけどそのばあちゃんまだ生きてます)。以上です。

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