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僕の、貴方の、そして誰かの、自殺についての今んとこの俺の立ち位置メモ20131212

おせっかい。

http://lair-onett.hatenablog.com/entry/2013/12/11/071952

読んだー。で、あくまでここでは例として自殺の話題が出てるんですけど、アヌス感想グループ*1とかでもたまに自殺の話題って見かけるよね。みんな自殺の話好きね。そんな死にたかったら俺良い農作業用のマシーン教えるよ?いや誰もそんなグチャグチャになりたいとは言ってない。

俺の頭の中にいる架空の馬鹿女「ちょっと~あたしグチャグチャになりたいとは言ってないじゃ~ん!」

ちなみにこの馬鹿女は一杯目ピーチフィズからのピーチウーロン、カルーアミルクを経てのチャイナブルー飲んでるところね。なんでカルーアからチャイナブルー行ったんだよ。で、自殺の話を見かけるたびにあー俺もなんか書こっかなー思うんですけど、まぁやめとくかと思って捨て置いてたんですけどなんでやめとくかと言うと僕自身単純に消化しきれてないんでね。ただそれを言い出すと死ぬまで消化なんて出来ねぇだろって話で。今ひりだしたら絶対コーン残ってるからうんちしたくないよ~つったって、もう直腸まで来ちゃってるから、直腸にコーンを分解して消化する機能は備わってねぇから、我慢したところで一回出すしかねぇんだなと思ったので何かテキトーに書きますね。

まず、まぁ自他問わず自殺という現象が僕の身辺に接近した機会はいくらかありますがその具体的なエピソードに僕は一切触れないで書きますね。ブログに書いていいこと悪いことの線引きは一応あって「それを隠したがってる人が俺以外にいるかもしれない話題はアウト」です。なので僕の周りにあった自殺にまつわるエピソードは全面アウトです。なのでとりあえず僕の自殺の話は俺が問題なけりゃそれでいいのでそこからしますね。僕は自殺という選択肢が眼前に迫ったことはないです。理由は「ダサいから」です。ロックンロール聴いててよかった。ダサいので端から除外してたってだけであー死にてーとかはありますよね。今はもうないけど20代前半でよく思ってたのはなんか飲酒運転の軽トラとか俺跳ねてくれねーかなーくらいはあるよね。未来の可能性に満ち溢れてた若者が不幸な事故で死にましたとかだったらダサくねぇからそれだったらいいなー。それが軽トラじゃなくてバキュームカーとかだったらウケるしだいぶ悼まれるし一石二鳥だなーみたいなこと考えながらなんか山間部、いかにも下水管通ってなさそうな山間部をブラックニッカ飲みながらブラブラしてたみたいな経験は誰でもあると思うんですけど。まぁ何かしら人生やめちゃいたいなって瞬間は別に普通だろうなと僕は思ってます。

しかしこの話、何が恐ろしいかというと、僕は「気分」というものを信奉しているんですけど俺のこの「ダサいのはあかん」という気分が明日も明後日もずっとずっと続くもんだとは全く信用してないわけです。明日「もうダサいとかいいから死のう」となる可能性は一つもなくなってないわけです。なので僕は既に対策を打ってあります。それは何かというと嫁です。これは生前じいさんが結婚する以前から吹聴していた話なんだけれどもと口を開くのはまだ見ぬ僕の孫なんですけど、今や僕と死ぬまで一緒に人生をやることになった彼女というやつは俺にとって俺が自殺になった時の保険なんです。別にぶっちゃけそれは異性でも同性でも構わないんですけどその人が保険として成立しうる条件は二つあって、一つは「俺が自殺しようとした時に全力で止めてくれること」、もう一つは「俺が自殺しようと思った時、俺がその人にだけはそのことを隠さず絶対に事前共有する関係性であること」です。僕にとってそれはたまたま嫁でした。この保険があることによって将来どうなるかはてんで分かりませんが少なくとも俺が自殺するということはありえません。あるとしたら心中かな。まぁでもそれもないか。ちなみにここで僕がそのような保険をかける動機なんですけれども、それは今自殺ダサい気分だからに過ぎないということは言っておきましょう。僕は自殺がアリかナシかの結論を出せてないし出す気もありません。ただし今現在はダサいなと思う気分なので、その気分が変わったときに俺がダサい自殺をしないように今出来る策を打ってるに過ぎません。メメントの主人公がまさに今・大事だ・と思うことを身体に刻んだのに似ています。僕は自殺を回避することに全力ですが自殺を否定する立場に回ることはできません。

よって、僕の自殺に対する一般論的回答は「死にたいやつは死ねばいい」です。なので僕は死にたいからってそのまま死ぬ気分になった時に備えて「死ぬな」という人を用意してるわけです。ただ僕がその一般論を肩壊す勢いでぶん投げて「何となく止めたい気分の場合は止める」ということについては、それは僕のフリーダムです。ぶっちゃけ彼や彼女や貴方の死が僕の心のこの樹なんの樹に影を落とす場合には俺はまぁやめとけよくらいは言うでしょう。俺が見たこともない樹を育てるにあたり貴方の死がそれを妨げるのであれば俺は全力でそれを取り除きにかかります。大事なのは俺の気分の順風満帆な意気揚々でありそこんところの重要さは少なくとも俺にとっては貴方の死にたい気分に先立ちます。つまるところ、人の自殺を止めたい気分っていうのはそれくらいエゴイスティックで不調和を覚悟して望むべきものなんだろうな、と思うわけです。

結局僕の自殺について語りという名のうんち君において何がコーンなのかというと、ある程度の攻撃性は孕んじゃうよねというところなんですけれども、自殺の話題で違和感を感じるのは「自殺は止めるべきか」というえらいザックリした切り口になるのが腹立つんですよね。個人の生き死にに介するとかそりゃあもう一般論が通用しない究極なケースバイケースの話なんですよ。それを「自殺」と一言に括ってしまってあーだこーだというのは端的に変な話だなと思うんですけど。その自殺したい人が好きなら止める、嫌いなら放っておく、嫌いでも助けるべきだ自殺はすべて止めるべきだって人がもしもいるならばそれは「嫌いだし死んでもいいや」という卑しい自分を否定したいだけちゃうんかいとかも思ってしまうわけです。個人的に死にたい人がたぶん今もたくさんいるんでしょう残念ながら、そういう人がいるの知ってて一般論として自殺はダメだなんて言うのは世界一最悪な太宰メソッドなんじゃねぇのかなと思います。世間が、親が、貴方の周りの人が、悲しむからダメですよ、とかそんなの言えないですよ。何か言えるのは俺がごく個人的に、死なれると悲しい人だけですよ。

もちろん貧困とか社会保障?とかよくわかんないけど、そういうところで不遇を受けて死ぬ人もいるから、そういうとこを起点にするなら自殺はダメですよーとかいいんですけど、止める止めないの話については僕はそういう風に考えています。

まぁそうは言っても、ここまで書いてて頭の中ちらっちらしてたのは、お笑いコンビオセロの中島が今も面白おかしく生きてるわけですけど、彼女とずっと仲のよかった伊集院光がラジオで言ってたことには、(もちろんソース引いてないので厳密ではないですけど)「ああなる前に俺に相談にきてくれなかったってことは、そういうことなんだろうなぁ」みたいなことを言ってたわけで、そういうもんなんだろうなぁとか思うわけです。いくら俺が死なれたくなかろうと、本当に死にたい人は勝手に死んでいくのでしょう。それヤダなぁ、と思うので、たまにはこういう話もいいかなぁと思って書きました。以上です。

*1:感想をブログで書いてもらえると肛門から苦い液が分泌されて何かしらの出し入れがスムーズになるグループを略しました。