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地獄変とビッグ・ダディの境界線がわからなくなった

衝撃の告白(三日後には消します)(魚拓)

http://megalodon.jp/2013-1127-1538-51/ameblo.jp/deguchihiroshi/entry-11711713602.html

読みました。

なんかまぁ、賛否両論で燃えあがってるんですけど。内容は今回は置いておきます。

気になったのは、twitterで見かけたこんなコメント。

芥川龍之介の『地獄変』でリメイクもされててすっかりお馴染みの気狂い絵仏師の良秀さんですね。これを見て直感的に僕が思いついた返しの一言は「それ言い出したらビッグ・ダディも良秀になるぞ」だったんですけど。直感的すぎるぞ本当かそれと思って飲み込んで、日をおいてブログに書くことにした俺こと僕です。

そういえばちょっと前にちょうど似たような話題も巡回先で見かけました。

芸術家は露出狂

http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2013/11/17/123811

「露出狂」として生きていくのは難しい

http://fujipon.hatenablog.com/entry/2013/11/18/145308

読み返したんですが余計わからなくなってしまい途方に暮れます。直感で喋ってしまうと僕は『地獄変』という物語すごい好きですし、それを地でいってるような芸術家の話を聞くのも嫉妬やら羨望やら憧れやら何やら入り混じって兎にも角にも大好きなのでこんな日本語先生のやけに思い込みの激しい与太話を一緒にするんじゃねぇよ、と思ってしまったんですが、じゃあ何が一緒じゃないのかと言われるとよくわからない。ちょっと油断して喋ると「俺にとって価値のある素晴らしい場合には地獄変だし、俺にとって価値のないものはビッグ・ダディとどっこいどっこいだ」と声高に宣言するのと同じことになってしまい、人それぞれ衛星軌道に乗らないヤリ過ぎ加速度で打ち上げられた僕は寂しい寂しい俺様宇宙に旅立ってしまうことでしょう。

とくにid:fujiponさんが取り上げている家族を題材にした作品群の話題なんかは非常に悩ましいところで、地獄変を小さくしたような話題といえばそう言えるしビッグ・ダディを上品にしたような話題といえばそうも言えてしまう。そもそも地獄変の話自体、作中の一般人が良秀の振る舞いに向けるまなざしって俺がビッグ・ダディに向けてるまなざしとあまり大差ないかもしれんし。

じゃあ記事タイトル「地獄変とビッグ・ダディって要は同じ」にするかつったらどうもそういう気分にはならんわけで。ビッグ・ダディは芸術じゃねぇだろって言ってしまえば終わりなんですけど芸術か芸術じゃないかを基準にしてしまうとそれって超主観でしょ。そういう着地は納得いかねぇんだけど、なんとか基準を設けて地獄変的なものとビッグ・ダディ的なものをある程度気持ちよく区別してやりたいんだけど。「批評性の有無」とかアカデミックであんまり実感が得られない全然使いたくない言葉くらいしか候補が見当たらないんすよねぇ。

うまい方法が浮かばないので誰か何か思いついてまるっと解決してくれねぇかなぁと期待してまとまってないのに書きました。

地獄変とビッグ・ダディは同じだ!って言い切ってくれるなら別にそれでもいいし、まぁ価値があろうがなかろうが子供からしたら良い迷惑なので全部同じ扱いでいいような気もするんだけど。同じ穴のムジナにはされたくないプライベートの切り売りの仕方って巷で流行っててよく見かけるので、そういうのとは違うよっていう自分にとって都合の良い言い訳が欲しいだけなのかもしれないなぁ。そう考えると本質的には一緒、って結論が待ち構えてる気もする。迂闊に考え始めたら想定以上に大変なやましい。特に答えもなく、以上です。

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