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僕のものすごくいいかげんな宗教観を告白します

近頃宗教についての話題をよく見かけましたので僕が2013年11月現在で宗教のことをどう思っているのかメモっとこうと思いました。

しかし宗教は大変に込み入った話題であると聞いてますので下地として必要な教養が足りていない僕なんかが書いていいのかなと尻ごみする気持ちもあるのですが書きたいのでやっぱり書きます。

せめて「こいつ馬鹿なんで勘弁してやってください」という意味を込めて冒頭にケツの穴の写真でもあげておこうかなと思ったのですがiPhoneの電池が切れていました。

命拾いしたな貴様ら。

 

「僕は無宗教です。」

と言います。僕は。人に。

実際のところ実家は仏教の家系のようで僕の京都での結婚式に足を運んでくれた親族たちは東本願寺だか西本願寺だかを「やっと参れた」と大層喜んでいましたのであいつらたぶんそれなりに浄土真宗だか真宗だか何かだと思われます。

あと子どもの頃にボーイスカウトに所属していたのですがボーイスカウトは何かしらの宗教に属する必要がある組織だったようで、そこでは僕は神道でした。ふんどしで滝に打たれた実績があります。「寒かった」が記憶の大部分を占めており何かしら開眼したとかそういうのはまったく身に覚えがありません。

などなど、細かく言うと色々話せることは無いことは無いのですがいちいち説明するのめんどくせえし何よりそれが自分のアピールポイントだとも思えないのでめんどくせえので「無宗教です。」と言っています。

宗教は大なり小なり人にとって必要なのだろうとは思ってます。

数年前におじいちゃんが亡くなった時、何万だか払って戒名を袈裟を着たおじさんからもらってました。最初は正直俺死んだ時は要らんなと思っていたのですが、いざ戒名が綴られた位牌が届いたのを見た時に遺されたおばあちゃんやっぱどっかホッとしたように見えたので「あ、こりゃ戒名要るわ」と僕は忽ちに方針を変更しました。

ところでおばあちゃんがどの程度信心深いのか僕はあまり知りません。そんな仏教の考え方に詳しいようには傍から見てて思えません。でも本当はものすごく詳しいのかもしれません。おばあちゃんが日ごろから六道を意識して生きてるような素振りは全く見せませんが実はすげえ六道意識してる可能性は微レ存です。

確かめようと思えば確かめられないこともないのですが年に二度ほどしか会えないおばあちゃんとは世間話とか近況報告とか他に話したいことがあって忙しいので、おばあちゃんの信仰度数についての興味関心は僕の中で優先順位が鬼低いので、恐らくばあちゃんの信心深さを僕が知ることは一生ないでしょう。

宗教は生きている人のためにあるんだろうなということは何となく想像がつきます。生きている人というのは死に向かっている人であり、また誰かに先に死なれるかもしれない人であり、それはつまり全ての生きている人なのでしょう。

おじいちゃんの葬儀はそれはもうとことんしめやかに執り行われました。当時今以上に思慮が足りない僕は小癪な唯物論寄りの考え方をもってそんなことして何になるんだと思う部分もあったしどうも親族連中見回してもそんな信心深い奴らには見えないのでどうなんだこの野郎とも思っていたのですが、何だかんだ葬儀が終わってみれば弔ったった感がすごい出てたしみんな一握のポジティブオーラを纏いはじめていたので俺は結果オーライと見做しました。

僕だってそりゃあ人の死が視界に入ると生きにくくなりました。じいちゃんはもう食えないんだなと思うと飯だってなんだか美味くないのです。じいちゃんはもう笑えないんだと思うと面白いものを見てもなんだか笑えなくなってきます。美味がったり面白がったりする時に消費するエネルギーがすごいんです。当時の生きにくさを振り返るにたぶん本当に当人の自力だけを以て人の死を乗り越えるというのは思った以上にキツいことなのだろうなと考えます。なので坊主とかいう業者さんに金払って弔ったった感を得るのでしょう。何よりばあちゃんが弔ったった顔をしていると僕まで弔ったような気になって笑いやすくなりましたので僕はそれだけで宗教はかけがえないなと思いました。

もしかしたらそれは単に時間の問題で人の死を知った瞬間から離れれば離れるほど普通に生きにくさは解消されるのかもしれません。それは次誰かが死んだ時に何も弔わずにテキトーにそこらへんに埋めてしばらく過ごしてやれば比較対象実験はいとも簡単に行えるのですが俺は今のところそれをやる気は起きないです。

生きにくさは個人差があるんだろうなと思われます。

僕は今のところ、幸か不幸か近くで誰かにでも死なれない限りそんなに生きにくくない気分をもって毎日を過ごしています。なので普段宗教のことはじっくり考えていません。体系的に理解しようとびた一文努めていません。なのでいざ必要な時が来たら俺の代わりに日ごろ努めてくれていた業者を頼み一緒に弔ってくれればいいやと思ってます。少なくとも俺にはそれで事足ります。

そうじゃない人もいるんだろうなと思います。それが良い悪いではなく、僕より生きにくい人というのはきっとそこらじゅうにいるのでしょう。いざという時に業者に頼むだけでは全然足りなくて日ごろから自分でどんどん宗教の説く生きにくさを解消するライフハックを吸収していきたい人もいるのでしょう。そういう人はそうすればいいと思います。SONYの一体型パソコン使いたくない人が勉強して自作PC組むのは勝手にやればよろしい。ただ僕は今のところ幸か不幸かVAIOで十分です。

「僕は無宗教です。」

と言うと「いいや、お前は無宗教じゃない」と言ってくる人がいるそうです。今のところ生で見たことはないんですけど。「無宗教なら御守りが切り刻めるはずだ」と脅してくる人がいるそうです。ほんとかよ。なんかそういうのは僕が「日ごろ気温の変化で体調崩れるとかはないです。」って言ってるところに「じゃあお前サウナ室で一日過ごしてみろよ」って言ってるみたいなもんなので鬱陶しいなと思います。じゃあ俺もう無宗教じゃなくていいから一刻も早く俺の視界から消えてくれ。消えて欲しい理由は「おまえおもんない」です。

もちろん僕だって、何も死の話題を持ち出さなくたって、先人の知恵の集大成という宗教の上澄みだけ掬って舐めてずいぶんな生きやすさを日々享受している自覚はないことはないのです。ただ僕はVAIOで十分な人間なので、「趣味はパソコンです」というのは少し憚れるので「無宗教です。」と言っているだけなのです。

宗教はきっと人を生きやすくしてくれるすごくよくできた道具なのだと思います。

ただ、その生きにくさを解消するための道具の使い方を人にとやかく言われるというのも、なんだかずいぶん生きにくい話だなと思います。また、より宗教にウェイトをおきなさいと言われるのも、まるでずいぶん今の僕が生きにくそうだと言われているようで余計なお世話だと感じます。

宗教の世話になってるんだからちゃんとしろ、と言われると確かにそうだなぁとも思うのですがそんな恩着せがましいこと言ってくるやつはたぶん僕が信じてる神様とは別のやつです。「無宗教です。」と言っている僕が信じている神様がもしいるとするのならば、御守りを切り刻むと怒るけど「神様信じてません」つっても許してくれる、たぶんそういう僕にとって都合のいい神様なのでしょう。何より僕はこの調子でいいかげんなうえに現金な性格です。そういう都合のいい神様じゃあ足りないくらいに僕が生きにくい気分になって、宗教を大事にしている人がよっぽど僕より生きやすそうで羨ましく思えたら、何せ現金な性格なので勝手に真似て信仰を深めはじめると思います。そういう気分になるまでは今のいいかげんな感じで僕個人的にはまったく問題ないです。

余談になりますが、今年の春先に実家で長年飼っていた犬が亡くなり盆休みに初めて手をあわせてやることができました。僕は骨壺の前に座りうやうやしい調子で「最期見てやれなくてごめんな。頑張ったんだってな。ありがとな。」などといかにも神妙そうに遺影に声をかけてやっていたのですが、そこで出先から戻った親父が家に戻ってくるなり開口一番アズスーンアズで「やったなポチ!兄ちゃん来たな!線香だ線香!」つって完全に生前の「ポチ散歩行くぞ散歩!」のハイテンションでけっこう遺影から距離あるドアの前から叫んでたので、俺は「ああ死への接し方なんて人それぞれなんだな。でもまぁそれぞれに乗り越えれてりゃそれでいいのか」と思いました。親父と並んで手を合わせました。終わり。

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