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とにかくなんか途轍もなく枚挙に暇がない人数で象を撫でる

谷川俊太郎っていうおじいちゃんの作品に「朝のリレー」っていうポエムがあるんだけど意味はわかるけどだから何なんだ感がこれまで強かった。最初はW浅野全盛期のことを言ってるのかと思ったんだけど別にそういうわけではないらしい。

もう一方でごめん出典忘れたんだけど何とも僕の頭にこびりついている誰かが言っていたこんな言葉「物語を作るということは、たった一つの人生しか生きられないということへの反逆である」みたいなフレーズ。これたぶん言い回しも微妙に間違って覚えててググっても出てこない、たぶんこいつの言葉だよみたいなんあったら誰か教えて。とりあえずそんなような言葉が、僕の脊髄にタトゥーで入ってる。

で、この二つの言葉を文鎮にしてどっか行かないようにしながらぺらっぺらの脳を好きになびかせてインターネッツに漂う文章なんかをアホみたいな顔してザーッと読んでるとなるほど腑に落ちて当たり前体操が上手に踊れるようになりました。

単純にこの世界の全容を掴むには24時間じゃ全然足りないし80年じゃ全然足りない。やってみなくちゃわからないけど俺には俺以外をやってる暇がない。なので俺の代わりに貴方は貴方の分を各々やっている。俺のために。いや、まぁそれはどう考えても言い過ぎだけど。俺が俺主観の俺の中でそう思っておく分にはそういう解釈で差し支えなかろう。俺は俺をやる。貴方は貴方をやる。そしてその合間に書く。そして読む。そうすると俺がふむふむとなる。で、なんか思う。

群盲象を撫でるという言葉は本来「そんなやり方じゃ全体像をつかむことなんて出来やしませんよ」という意味で使われるわけだけどマジで?という疑いも俺の中にある。何せやってみなくちゃわからないからだ。とにかくなんか途轍もなく枚挙に暇がない人数でクマンバチを熱で殺しにかかるミツバチくらいの勢いでみんなで象を撫でまわしてやったら結構意外と大体象がどんな感じなのか案外わかっちゃったりするんじゃねぇのとも思うんだ。

あともう一つ僕がたまに使うキザったらしい言い回しでね、「言葉を尽くすってのはノミを振るうようなもんだ」ってやつが好きで。ミケランジェロっていう今でも名前覚えられてるくらいなんだから相当に偉いおじさんが500年前とか前にいたらしいんだけどそのおっさんの言うことには「石を見てると石がこういう風に彫ってくれって語りかけてくる」らしくて。ダビデ像とかもこうどでかいただの岩が始めにあって、石の望むままに要らんところ削ってってあるべき形になったのがダビデ像だったとかなんかそういうことらしい。これシラフで言ってたらしいんでこいつだいぶキテるなと思うんですけど。でもなるほどそういうもんだよなって思って、なんか俺の中ではこの世の何もかもはそういうイメージになっている。やたら迂遠な言い方をするうえに全然関係ない話を好き放題挟んだ挙句結論を出さないっていう国語の先生が怒り狂いそうなことばかり書いてる自覚は流石にあるんだけど、それはたぶんまぁそういうイメージがあるからなのでしょう。俺にとって言葉っていうのは並べたり紡いだりして言葉そのものが何かを形作るようなもんじゃなくて、とにかく思いつくまま言葉を尽くせばそれはノミを振るうようなもんで、俺の中にあるどでかい岩が少しずつ少しずつ削られていってそのうちいつかあるべき形に勝手になるのでしょう。人の書いた文章を読むというのも俺による俺のためのそういう作業の一助です。

まぁ、はてなという装置をどう使いましょうかみたいな話は今後もあーでもないこーでもないと続いていくのかもしれませんけどそれは枝葉というかそのうち解決したりしなかったりすればいいことでそれはつまりは些細なことですね。結論はありません。

そういうわけでいい加減ブログの話も飽きてきたし縦書きブログで色々試したいしでそろそろ切り上げようかなと思うんですがどうせなら最後におもっくそ馴れ合いっぽいことやろうかなと思って、俺の代わりにみんながこんなことをしてくれてるよみたいな構成で朝のリレーの雰囲気とアメブロポエムみたいな文体を足して2で割ったようなやり口で一斉に30人くらいにidコール飛ばしてやろうかなとか思ったんですけど、流石に出オチ感ありありで手間と対価が割に合わねぇなと思ったんでやめますけど。皆様引き続きどうぞよろしくお願い致します。以上です。