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「寿司に寿司をぶつける冒険」あるいは「およそ3の世界からの脱出」

ブロググループを、作ってみた。

http://inujin.hatenablog.com/entry/2013/08/19/025248

感想をブログで書いてもらえると喜ぶグループ

http://hatenablog.com/g/11696248318756863545

さて、先日取り上げたばかりの感想をブログで書いてもらえると喜ぶグループですが部活動スポーツ漫画で言うところの三話あたりに相当するくらいにはゆるやかに人が集まってみんなぽつりぽつりと何かしらの蠢動をしているようで何よりです。たぶんこの後停学明けの誰かに従うなんてまっぴらごめんだぜキャラの二年生が登場して一回喧嘩漫画になると思います。結局喧嘩すんのかい。仲良くやれよ。まぁそれはいいとして、僕としては別に文通グループではないのであまり気張りすぎないようにも気をつけたい。僕の認識なので相違もあるかもしれないけれどもこれはあくまで「感想書かれることに吝かではない人」の集まりであって感想を書き合うことを目的とした集まりではない。書くことがないけど何か書きたい人にとっては打ってつけの呼び水になるかもしれないが無理に社交辞令的なやりとりを心掛けてしまうと犬も猫も人間も疲れてしまう。池田さん(id:bulldra)が言うところの「感じて想うこと」が無ければそんなもの書かなくて良いのだ。書くのは時間がかかることなのでそっちを無理して書いてるうちに本来書きたいことを書くのがしんどくなってしまっては本末が転倒なのでみんな好きなことを好きに書けば良い。ゆるく長く続けばいいなと思っています。ちなみにこの段落はすべて自分のために書いている保険の一手であり、脳の気分が乗らなくてやりたくないことはどう頑張ったって絶対にやりたくないと思う神経を司る部位が普通の人間より肥大化している俺こと僕に自ら与えんとする免罪符であるので気にしないでください。

ところで今日はいぬじんさん(id:inujin)が触れていた「ブログの感想の書き方」について、僕も勝手にそこらへんについて思っていることを書こうかと思ったのですが、大体のところはいぬじんさんの言ってることと同じような見解どころか自分の名前が引き合いに出されてるくらいなので「俺はそこは違うと思うね」なんてところが出てくるはずもなく改めて申し上げることとかよく考えたらあんまなかったです。しかしそれでもそこから何か勝手に書き始めるのがセンサーに反応するたび駄文を掃き出すタイプのダンシングフラワーこと俺こと僕であり、五感のどこかが何かに触れれば「そういえば思い出した今全然関係ない話」を延々喋れるという一点において圧倒的な女子力を誇る、一部の女子力のみ異常に肥大化している俺は、さしずめシオマネキ系女子と言っても過言ではないでしょう。なので全然関係ない話をします。

僕が口をミッフィーちゃんみたいにして繰り返し使う言い回しに「寿司に寿司をぶつける」というものがあるのですが、それって一体何なんだよ感を使っている自分ですら感じているのでじゃあそれって何なのかをテキトーに書いてみたいと思います。で、今書き終わって戻ってきたんですけどその結果すごくよくわからないうえに長いやつになりました。流石にこれはあんまりだなと思ったので、最後に珍しく好きな名文なんかを引用しました。脱落しそうになった人はせめてそこだけでも読んで帰って行ってください。それでは始まります。

僕が常日頃思っていることは言葉のキャッチボールとか糞だなということです。

例えば貴方がそこに残した言葉、「この世界は美しい」。僕はその言葉を見て「ああ、貴方の言う世界が美しいという意味が僕にはわかるよ」だなんて断固として言いたくはない。それがどんな意味なのか、その背景にいったい何があるのか、そんなの他人にまるごとまるっと分かるわけがないし実際のところ当人だってあんまり分かってなどいません。だってもし分かってるんだったらそもそも全部言ってるだろ。頑張って具体的に言ってみようとすれば「従業員が冷蔵庫に入った事実がネット上で確認されて企業が謝罪を行うような現象が社会問題となっている最中に勤務中火事に見舞われた従業員が冷蔵庫に潜り込み事なきを得たという面白ミラクルが発生したこの世界は美しい」と言って言えないことはないかもしれませんが、そうして言葉にしてしまった瞬間本当に貴方が感じていた「何か」はすっかりどこかに消え失せてしまっていることでしょう。本当のところの「何か」なんて言葉にすることなんて出来やしない。であればやっぱり「わかるよ」なんてことは、実はそんなこと絶対に人が人に言っていいような言葉じゃねぇだろなどと僕はカイゼル髭を撫でながら思ってしまうわけです。では、言葉を介すことでは貴方に手渡すことが決して出来ない「何か」は存在しないのだろうか。いや、んなこたぁない。確実にある。だって俺は知っている。俺は見た。なので貴方にもあるはずだ。それを僕が貴方から受け取ることも当然できないわけだけれども、俺が見たのと同様俺には決して見えないけれども貴方にだけ見える「何か」もきっとあるはずだ。むしろ無いと困る。俺だけ歯がゆいとか割に合わない。ずるい。こうして「無いとかそんなのずるい。俺やだ。」という理由で「何か」はあるはずだと決めつけた僕は、その「何か」を取り急ぎ「寿司」と呼ぶことにしました(なんでかは僕に聞かれても困ります)。

そんなこんなありまして僕は言葉というものへの信頼が全然なくてむしろあれ言葉っていうかただの文字列だろとか思っている節があるわけですが、まるっきり言葉が役に立たないかというとまぁ流石にそんなことはないわけですね。お互いの大事な「何か」を共有することはどうにもこうにもできない僕たちではありますが、言葉というポンコツを仕方なく使うことで表面的などうでもいいこと、例えば「ハマカーンのツッコミ担当である神田伸一郎は神田うのの実弟であることを積極的にアピールすることはなく自分の力で売れたいと考えていた立派な芸人だ」とか「そういう意味でナイツの塙もまぁまぁ偉い」とかそれくらいの何でもないどうでもいい事実くらいは共有したり伝達したりすることが可能になります。しかしここで奢っちゃいけないのは言葉で伝えられるのはどうでもいいことだけだということです。あるいは、言葉になっているものはむちゃくちゃ不正確だということです。円周率の正確な値は分からないし分かってるぶんだけでも分かってることにして計算しようとしてもドえらいめんどくさいことになるので小学生が取り急ぎ円周率を「およそ3」と教わるように、赤子同様に自分の抱える「何か」がよく分からない僕たちはあまりにざっくばらんに何もかもを割り切ってしまう言葉をもって仕方なくすごく精度の低い情報伝達を行っているにすぎないのでしょう。なので、いくら言葉をキャッチボールしたところで、僕が本当に共有したいことはきっと誰とも共有できません。僕や貴方の大事な「何か」は言葉ごときにうまくパッケージングできるような割り切れるものではないはずです。いつも言葉の脆さに屈して貴方の元を離れることなく誰にも届かない「何か」はさぞや割り切れないものであるはずです。俺も社会の中での生存戦略を営みとするホモ・サピエンスである以上、生きるために仕方なく共有しなくてはならないどうでもいい連絡事項を言葉を用いて日々やりくりしてはおりますが、俺は届かないこの「何か」を絶対に忘れないぞと思いながら飯食って風呂入って寝て起きてます。たぶん明日もそうします。

上記が差し当たっての僕がブログを書く理由です(ブログを書く理由の話だったんですね)。いぬじんさんもエントリで述べている通り、ブログは自分語りの場所という考え方についても僕は全く同意で、ここは別に人に伝わるように書く責務を負っているような場所ではありません。ならば割り切れなくても構わない。自分の中での割り切れない話を割り切れないままにそのまま開陳しても構わない。そうした自分語りの向こう側に「何か」あるいは「寿司」があるはずだと僕は信じています。たとえばそれは円周率の最後の一桁を求めて地平線の彼方を目指して大地を蹴り続けるような行為かもしれません。本来そんな無謀でしちめんどくさい行為は試みてはいけないのです。しかし一人ならば構わない。誰にも迷惑をかけることなくただ一人で書き散らす文字列にのみそれは許される行為なのかもしれません。ならば僕は鼻歌混じりに文字列を掃き出しましょう。何なら誰かがどこかに何となく書いた割り切れない話を見かけたうえで、割り切れない話をいくらでも書きましょう。貴方は僕の寿司には決して触れることはできないし、僕は貴方の寿司に決して触れることはできない、しかしながら僕も貴方もお互いの寿司に触れないままに、僕の寿司を貴方の寿司にぶつけることならもしかするとできるかもしれない。そうして見事僕の寿司が貴方の寿司に命中し、抜けるような青空にパラパラと散乱するシャリのその美しさに、僕と貴方がそれぞれにそして同時に目を奪われたその時、きっと時間は止まり僕と貴方は初めて出会うのでしょう。僕はその瞬間を目指してよくわからない割り切れない話をこれからも書いていこうかなと思っています。これからもどうぞよろしくお願いします。

では最後に、なんかここまでで3800字くらい書いててなんじゃこれあとめっちゃ眠いと目を瞬いている僕は捨ておいて、たぶん僕的には大体一緒の内容をほぼ原稿用紙1枚で言いおおせてしまっている僕のスーパー大好き文章を引いて幕引きとしたいと思います。

昔ある日 男がひとりやってきて

その岬のどよめく陽のささぬ浜辺に立ってこういった

「この海原ごしに呼びかけて船に警告してやる声がいる。その声を作ってやろう。

これまでにあったどんな時間 、どんな霧にも似合った声を作ってやろう。

たとえば夜ふけてある きみのそばのからっぽのベッド、訪うて人の誰もいない家、また葉の散ってしまった晩秋の木ぎに似合った、そんな音を作ってやろう。

鳴きながら南方へ去る鳥の声、十一月の風や…さみしい浜辺によする波に似た音、そんな音を作ってやろう。

それはあまりにも孤独な音なので、誰もそれを聞きもらすはずはなく、それを耳にしては誰もがひそかに忍び泣きをし、遠くの町で聞けばいっそう我が家が暖かく、なつかしく思われる…そんな音を作ってやろう。

おれは我と我が身を一つの音、一つの機械としてやろう。

そうすれば人はそれを霧笛と呼び、それを聞く人はみな永遠というものの悲しみと生きることのはかなさを知るだろう。

レイ・ブラッドベリ 「霧笛」 / 萩尾望都版より

 そういうわけで僕は寿司に寿司をぶつけることで霧笛になりたいなと思っています。以上です。