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結論も正解も真実もそんっな別に要らない

持論というかポリシーというか、俺にとってはそれが普通のことなのだけれども、結論は出る時は出るし出ない時は出ない。正解が正解であると判断するためにはそう判断するに妥当な根拠が必要であるがそういうものって出揃う時は簡単に出揃うが出揃わない時はなかなか出揃わないものだったりする。そういうわけで俺は何事においても「どちらでも良い」というスタンスを過剰に取りたがる性質がある。「AとB、どちらが真実か」という問いに今この場で答える必要などほとんどの場合全くどこにもないのであって、取り急ぎ選ばなければならないのはせいぜい「Aが真実と仮定したうえでの行動をとるか、Bが真実であると仮定したうえでの行動をとるか」くらいに過ぎない。そしてどちらを選ぶかの根拠は「どちらがより真実に思えるか」である必要もなく、「AとBのどちらが結局のところ真実だったのかがなるだけ手前で発覚しそうな方」だったり「AとBのどちらが真実か発覚した際に軌道修正しやすいそうな方」だったりする。まぁ結果的にはみんなそうしてるだろうという話ではあるのだが、自分はこのことについてどうも強く自覚的でありたい節があり、それが何なのかというとたとえば「これだけ根拠があればこれが正解だと断定して差し支えないだろう」というハードルが他の人よりも高いという言い方もできるかもしれないし、人によっては「それはお前はAを選んでいるだろう」という状態であっても俺自身は「いや、俺はどちらも選んでいない。どちらでも良い。ただ便宜上Aを選んだ風に見えるだけだ」と言い張っている可能性もある。まぁ大体いつもそんな調子である。仕事なんかしてるとそうも言ってられない、俺からすると早計すぎる判断を下さなくてはならない局面なんかももちろん出てくるのであれが、それはまぁそういうもんだろうとして、基本的に俺が俺によって判断して差し支えない範囲においてはそういう風に考えている。「殺人犯を悪いと決めつけてよいのか」とかすぐ言い出すので「なんだこいつ」と思われる。

つまり俺が「Aだ」だ「Bだ」だ「絶対だ」と断定している時は結論を出すのが馬鹿馬鹿しいのでふざけている時か頭に血が上っている時である。それ普通のめんどくさい人やんけ。あ、あと「好き」「嫌い」「美しい」「醜い」は完全に一瞬で決めます。というか、決め終わって気づきます。そこらへんは判断とかじゃねぇから。感覚が下した決定を脊髄が受け取り脳へ向かうだけだから。判断とかはない。いやそれ、普通のめちゃくちゃめんどくさい人やんけ。

さて、これをいつものように長げー前置きにしてインターネット上でたびたび見かけられる「ガチなのか釣り(創作)なのか?」論争についてどう思ってるのかの話をしようとするのが本旨の予定だったんだけれどももう電車つきそうだしなんかもう満足してしまったのでそれはまた次の機会でいいか、って気分になってきました。書くにしても結論が「どっちでもいい」になるのは明白なので、そんなテンション上がらないっていう。まー何に限った話でもないけれども、決めちゃうと一先ずはラクにはなれるので、そこでラクすることが露骨に快につながってるようなところがある人ってのはいるもんで、そういうのは結構見てて美しくないよなぁとかは思ったりはする。なんかすげぇふんわりとむかつく仕上がりになっちゃったな。まぁいっか。以上です。