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殺人事件を見かけて何に思いを馳せればいいのだろう

広島少女遺体遺棄殺人事件の話をするのでまずは被害者及びご遺族の方々へお悔やみ申し上げます。

まぁ、そういう事件が先日ありましてすごいガヤガヤしてますけど選挙があったり山口でもなんかまたもの珍しいのがあったりとかでなんか今後報道下火になってきそうな雰囲気も舌で触ってみた感じ見受けられてそれはそれで苦々しい気持ちになりますが。年をとる毎に、というか結婚して今後自分も家族とか持つのかなぁとかぼんやり考えるようになったのがでかいと思うんですけど、こういう人死にの話を見かけると結構ほんとに居た堪れない気持ちになって落ち込みますが、確実に言えるのは昔はもっと居た堪れなくなかったなとか思うわけでそれは確実に僕が想像力が足りなくて未熟で馬鹿だったことに起因するなーとか思いつつ、たぶん今になって思えば僕の父親は母親はそんな馬鹿な息子の分まで居た堪れない気持ちを胸に抱えつつ事件の性質やら何やらを我が事の側に引きつけこの悲しい出来事はなんなのかをオリジナリティあふれる言説で僕に説いていてくれたのではなかったなぁなどとも最近思うようになりました。そして、僕も彼らと同じことをやっていかなくちゃならんのだなぁと思っているので、書いてます。

で、割と終わってそうな話なのは承知でまず書きますけれども、あれはLINEが悪いわけでもなんでもなくああいうDQN文化が文明の発達によってすごい観察しやすくなったよねってだけのよくある話なんだろうなとは思います。いや、なんか凄惨なリンチの内容が明らかになったり組織売春みたいな話が今後飛び出てくるかもしれなかったりとそりゃあまぁ異常な事件であることには違いないんですけど、それでも悲しいかな人間がそういう頭おかしいことをやらかす奴らだということは何となく知っていた僕と貴方とみんなで構成されるこの世界なんだと僕は思っています。そして万が一にでも起こりうることを知ってる時点でそれは想定されうるよくある話にしておくべきです。また僕は「想像を絶する」とか「理解に苦しむ」っていう言葉が苦手なんですけれども、環境や状況や条件が揃ってしまえば僕らが死ぬまで抱きしめたい大事な優しい感覚が麻痺してしまう危険性とかそもそもその感覚が欠如している人間の存在可能性って割と日ごろから普通に想定しておくべきことなんじゃねぇのと思ってるんですけれども、これは全くもって加害者擁護ではありません。そんな僕がリアルでネットで見かけてなんだかもやっとするコメント群というのが「理解できない」「同じ人間じゃない」「ありえない」みたいなそこらへんのやつです。もちろん凄惨な人死にに対して拒否反応起こしてしまうのはある意味では普通でとても人間らしい振る舞いだとは思うんですけれども毎度毎度そんなこと言ってるばかりじゃ都度こっち陣営が殺されるたびに発狂してるだけで全然建設的じゃないよなーとか思ってしまいます。「死刑でいいよ」みたいな斬って捨てるコメントも結局同じ話で「殺した奴は死刑でいいよ」を結論にしてしまうとそれはもう「相討ちでいいよ」ってことになっちゃうんじゃねぇのかみたいな、俺は相討ちヤダよ、向こうが死ななくても別にいいからこっち陣営も死なないのが何よりだよ、とか思うのです。

人の命を奪いにかかる奴らは間違いなく敵ですが、敵を回避するためには敵を知るのがやっぱ何より大事だよなーって話で拒否反応示さずに個人レベル家庭レベルであいつらを理解しようと話してみたりするということは僕と貴方と貴方の大切な誰かが同性質の事件に巻き込まれないようにするために重要なことなんじゃねぇのかなぁってだけの話なんですけど、大体こういう話をしようとすると加害者に異常に寛大な人権主義者のような誤解を受けたりで難しいよなーとか毎度毎度思います。「理解する」と「赦す」って全く別の話だろと思うんですけどね。以上です。

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