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実写化映画「るろうに剣心」が一言で言えばすげー面白かった。一言以上喋っていいならすげー色々あるので書く。

今回のエントリは掲題の通りです。「どうせいつもの残念な実写化なんだろ」とスルーしてたんですが、なんかたまに見かけるネットの声は概ね好評そのうえ続編が決定、しかも志々雄真実が藤原竜也でそりゃ観るっきゃねーなと思ってとりあえず第一作目をレンタルして観ました。で、いやー、久々に脳がね、すごく動きました。別にそんなまったく「いい映画」ではないんですけども、この映画を俺の脳にどう配置するかを決定するための処理に俺はすげぇ脳のメモリを使いました。「いい映画」ではないんですが、俺にとってすごく「難しい映画」でした。その話を書きます。これを読んで面白がれる対象はまず第一に原作も読んでて映画も観た人、次に映画は観ていないけど原作は読んだ人、次に映画も原作もまったく知らない人、一番楽しめないのは原作読んでないけど普通に映画観てしかもそこそこ楽しめた人と思われます。後ろ二つに属する人は今すぐブラウザ閉じてブックオフにコミックス買いに行ってください。和月さんに印税は入りませんがそんなこと知ったこっちゃないです。それでは始まります。

まず、前提としてこれを読む人と共有しなくてはならないことがいくつかあります。まず一つは、ズイショさんすげー「るろうに剣心」好きだったんだな、もっと言えば和月さんという漫画家がすげー好きなんだなってことです。これの一つ前のジャンプ言及エントリの中でも触れていますが、例えばドラゴンボールとか僕通ってないんですよね。あと幽遊白書もそんな熱心ではない。スラムダンクですらそうです。全部一応読んでますけど大人になってからコミックスで読んでるとかで直撃世代ではない、教養として読んでる感じ。小3でジャンプ読み始めた頃はいずれも連載後期であんまり前後関係わからんままとりあえず読んでた感じ。ガキだから馬鹿だしあんまわかってない。そこらへんのいわゆる「黄金期」の看板漫画が終わった頃にやっと俺という少年は自我が芽生え始めて色々自分の哲学を探しながら漫画を読むようになっていくわけです。確か小5か小6だかの頃にワンピースの読み切り版「ロマンスドーン」を見かけて面白過ぎてこいつはえらいことになるでと思って中1か中2の頃にワンピースが始まった記憶があったんで自称としては「ワンピース・ジェネレーション」だったんですけれども、よくよく考えたら違いましたわ。黄金期直後の低迷期の看板漫画「るろうに剣心」あるいは「地獄先生ぬ~べ~」こそが僕の週刊少年ジャンプの原風景だったのではないのだろうかということにこの度思い至りました。まずこれが分かって欲しいこと一つ目。で、あともう一つなんですけれども「るろうに剣心」の作者である和月先生がすげー「漫画が下手」ってことなんですよね(笑)*1

漫画とは、創作活動とは、表現とは何なのか、を論じるにおいては複数のアプローチ方法が人それぞれの性格やシュチュエーションや文脈やその時々において様々にあると思うのですが、そのうちの一つの 言い方として僕は、「真理を追い求める」というのがあると僕は強く強く思います。例えば、日常・現実世界においては真理というやつは実はそれほど重要ではありません。玉虫色の風景を歩きテキトーに今・目の前にぶらさがるファクターを踏まえてテキトーに帳尻をあわせて折り合いをつけてベターを選択する、人生というやつは往々にして概ねそういうところがあります。真理が視界に入らないことを踏まえて僕たちは生きていきます。しかしそれにどうしても納得できない人間というやつらが一定割合で母親の股ぐらから生まれ表現者になることがあります。少なくとも「るろうに剣心」の作者・和月さんがここに属する人間であるというところは間違いありません。彼は真理を追い求める男です。「るろうに剣心」に盛り込まれたテーマというやつを一つ一つ分解してみるとそのことがよく分かります。「信念とはかくあるべきか」「人の命を奪うとは」「護るとは」「力とは」などなど、その全てが熱い。熱すぎます。しかし残念ながらその答えを漫画を通して探すには和月先生はあまりに漫画を描くのが下手すぎた。どのように下手なのかは、実際に漫画を読んでみてくださいとしか言いようがないほどに和月先生は漫画を描くのが下手です。かの山崎まさよしはギュッと目をつむり「そんな挿入できるはずもないのに」と歌っていますが、そんなぬいぐるみに覆いかぶさって全力で腰を振る馬鹿な雄犬のごとく自家中毒的な哲学ばかりが先走り全然筆が追いついてないのが和月先生の最大の不幸でもあり最大の魅力でもあります。たぶん対比として分かりやすいのは「海猿」や「ブラックジャックによろしく」で有名な佐藤秀峰先生とかなんですよね。佐藤先生も和月先生も、人間が生まれながらに抱える難問にどうしても目を背けられない熱すぎる漫画家なのではないかなと僕は同じカテゴリに配置してしまいたくなります。佐藤先生は「生命とは」「正義とは」「幸せとは」などなどをハンパない熱量で圧倒的なリアリティをもって描き求めます。超面白い漫画家です。しかし人生においてそこらへんに重きを置くという生き方は圧倒的に中二病です。その中二病っぷりはツイッターやブログなどでのテキストを読んでみれば見ての通りです。あるいはこのザマです。それでも漫画は文句なしに圧倒的に面白い。漫画家なんてやつはそれでいいのです。何一つ問題はないのです。佐藤秀峰先生をこのように言い表した時に、佐藤秀峰先生と同じようなパッションを持ちながら漫画ですら下手なのが他でもない和月先生なんだなと僕は思うわけです。佐藤先生がネットで喋るの下手なように和月さんは漫画も下手なのです。どうしようもねぇな。

映画にまだ全く触れてないまま原稿用紙6枚分くらい文字列が埋まってるんですけどまだまだ続きます。やっとまそろそろ映画本編の話も出てきます。

さて、漫画に限らず原作ありきの実写化はいつだって地雷原で行われるものなわけですが、それは何故なのかということにまず僕は思いを馳せたい。それは偏に「現実は人の想像力に追いつかないから」であると僕は思います。自由奔放に作者の脳の中で創造される世界は紙の上に表現され、その紙を媒介として読者の脳にもう一つの世界として立ち現れます。そんな運動力学のもとにある表現の界隈において、その紙などという媒介をすっ飛ばしてこの現実世界の私たちの眼前にそのまま世界を出現させてやろうという試みが映像であり映画です。しかしそのハードルがどれだけ高いものであるかというのは別にデビルマンを持ち出さなくたってみんなが知るところなのではないかなと思います。

そこで「るろうに剣心」です。実写化の難しさは前述の通りですがこの作品の実写化の難しさというのは他の作品の実写化の難しさとはちょっと一線を画します。もう一度確認したいのは和月先生は漫画が下手だってことなんですよね。例えば漫画がうまい人、佐藤秀峰先生はまず頭の中に世界があります。そしてその世界を表現するべく漫画に起こします。しかもそれは圧倒的なリアリティをもって漫画として表現されます。佐藤先生の熱意はそのままに現実としても許容されるほどに佐藤先生の漫画はリアリティがあります。対して和月先生の漫画というやつは、死ぬほどリアリティがありません。なぜかというと和月先生は漫画を描くのが下手なので、そもそも頭の中に世界がないのです。頭の中にあるのも漫画なのです。普通のイケてる漫画家は「頭の中にある世界を漫画にします」が、和月先生は「頭の中にある漫画を漫画にします」。和月先生は自身が自分のパッションを捌ききれていないまま漫画を描いているわけです。つまりそもそも実写化できるわけがありません。ドラゴンボールやロード・オブ・ザ・リングの実写化の困難さは作者の自由奔放な想像力を形にするのが難しい、というところに起因しますがるろうに剣心の実写化の困難さはそうではありません。だって和月先生の世界なんてそもそも和月先生の頭の中にすらぼんやりとしかないわけですから。なんか漫画ならイケるだろ、みたいな雑なパッションが素材なわけですから、どうすんだよこれって話です。このような悪条件の中で誕生したのが本題であります実写映画「るろうに剣心」なわけです。

なんかこの映画の楽しみ方として、まず僕が選択して最後まで貫いた見方が「縛りプレイを見てる感じ」でした。例えば、バイオハザードのナイフプレイとか、ロックマンのタメ撃ち禁止プレイとか、そういうののニコニコ動画を見てる感じでこの映画を観ていました。まず繰り返してる通り、原作が糞です。どうしようもないリアリティのなさを勢いで何とかうやむやにしてる原作ですので、そのまま馬鹿丁寧にストーリーをなぞったら絶対死にます。なんとかうまいこと原作のエピソードをもとに脚本をこねくり回しどうにかなるような構成に組み替えています。まずこれに感動です。そしてそれを優秀な役者陣でなんとか回します。「ござる」と「おろ」という糞ハンディを抱えながらも普通に見れる演技を魅せる佐藤健にマジで感動します。普通に考えてハンディとして重すぎます。ストZERO3の鉄球ぶらさげたコーディーなんてメじゃないくらいの糞ハンデです。そんな逆境を跳ね除けて成立させてしまう佐藤健の圧倒的な演技力に正直震えました。もっと舞台ガンガン出てくれねーかなー。生で観たいわ。あと、相楽左之助役の人もめっちゃうまかった。香川照之もいつものようにめっちゃうまかった。下印の人も良かった。須藤元気もうまかった。須藤元気なんで今こうなってるのかよく分からないけどめっちゃ頑張ってめっちゃすごい人になってるよな尊敬するわ。あと、道場を荒らしに来た浪人集団も原作のノリを踏まえつついい感じの雑魚ですげぇよかった。そんな感じでうまいやつなんかめっちゃおった。いや予算はあるんだけど、全然予算がない学園祭をどうにかして成功させてやろうみたいな学園青春群像劇的な、そういうのを感じさせられる熱演だった。

演出もいちいち良かった。殺陣は文句つけようない。原作の糞さの一因である必殺技を叫びながらの静止画必殺技を出来る限り排除してアクションにこだわったのは良かった。これが正解に決まってんだろが糞がと思うけどよくよく考えたら英断だったと思う。全体的な明暗も良かった。たぶんいいタイミングの時代で作られたとかもある。一応は時代劇の中であれだけの明るい真昼間を撮れるのって時代もあると思うし、まぁ何百年前だろうと昼すげぇ明るいのって当たり前なんだけど、それがアリなのって本当最近だと思うので、そういうところでセコセコとリアリティを積み上げたのが作品全体のリアリティを担保したところはでけーんじゃねーかなーと思う。

もちろん敵は原作だけじゃなくて、糞なところも多々あった。典型的なところで武井咲ね。薫役の。あいつが出てくるとピリッとしたよね。映画ってたぶん制度的には太鼓の達人じゃなくてダンスダンスレボリューションですよね。ミスを連続して叩いて叩いてライフゲージがあるラインを切った瞬間ダーン!てゲームオーバーなりますよね。「あーだめだ糞映画だ」ってなってその後もう楽しめなくなりますよね。あるラインを超えてしまったらもうその後一切楽しめなくなるみたいな。で、主に武井咲が喋るためにゲージをガンガン下げるんですよ。「やばいぞ!このままいくとゲームオーバーなるぞ!俺はもう糞映画認定するぞ!」ていうスレスレのところで佐藤健の超自然体のめちゃかっこいい台詞回しで挽回したりするわけです。「よっしゃー、さすが佐藤健持ち直したぞ!場面切り替わった!もうしばらく武井咲出ないぞイケるイケる!」みたいな。こんなハラハラ感味わえる映画なかなかないですよ。いやほんとヤバいんですよ武井咲。普通に生きてて吉川晃司の演技でリカバーされることを願うシーンが俺の人生に訪れるだなんて想像したこともなかったですもん。意外と演技うまかったっすわ吉川晃司。

これが正当な楽しみ方なのかはもう全く分かりませんけども。あと江口洋介ね。なんかあの人の演技って笑っちゃうんですよ明文化できないんですけど。なんですかね、とりあえず「るろうに剣心」の斉藤一役を演じてたのについて言及するとすれば「お前めちゃめちゃ脚本読み込んでめちゃめちゃ台本解釈してこの映画における斉藤一というキャラクターについて考えたんだろうけど、お前めっちゃ脚本読んだかもしれないけど、お前原作全然読んでないだろ」って感じね。いや実際は読んでるのかもしれないけど、あの感じ。圧倒的な閾値を攻めるあの感じ。そこ攻めても人類誰も得しねーよって感じ。最高でした。

そうして出来上がった映画「るろうに剣心」ですが、トータル一言でいうと本当に最高でした。散々書き散らした数多の障害を乗り越えよくもまぁこんな映画を作ったなっていう拍手で僕の掌はそれはもう真っ赤です。かの糞実写化映画デビルマンは「(反面教師という意味で)映画を志すものは絶対に観るべきだ」などとのコメントをされたりしてましたが、反面教師じゃなくて純粋な意味で「糞みたいな実写化困難映画をいかに実写化して観れるようにするか」を学ぶために全ての映画を志すものは絶対に観るべきすばらしい映画だと思いました。なんとかなるんだ!ていう敗戦処理の美学を感じました。で、次これ京都編もやるんでしょ。京都編はもっとかっとんでますから局地戦の連続でなんとか形になってる糞漫画ですから。さすがに無理でしょ~と思いますけど今から超楽しみです。いや、普通にやったら絶対悲惨な仕上がりになるに決まってますけど、一作目の感想がこんな感じなんで見守るしかないですよ僕は。むしろ糞映画でも全然構わないんですよ。どうしようもない実写化できない原作をどこまで見れる映画にできるかっていう、人間と何かしらの戦いなんですよこれは。プロの将棋指しがコンピューターに負けたところで将棋の面白さは一向に色褪せないのと同じですよ。漫画だから何とか成り立ってる超雑な原作と、現代日本映画界との戦争なんですよこれは。稀代の才能を抱えてこの世に生れ落ちた和月先生こと馬鹿犬がテンション先走りして全然挿入してないのに発射した情熱スペルマを人間の叡智を結集して試験管で育てたら一体何が生まれるのかっていうそういうSFなんですよ実写版るろうに剣心は。兎に角楽しみすぎます。これを見るまでは死ねません。めちゃめちゃ情熱的に進めますが実際にこの映画を貴方が見て貴方の魂にどう罹患するかはめちゃめちゃ個人差があるので別にオススメはしないんですけど。僕はすげー面白かった。続編楽しみにしてます。以上です。

*1:この(笑)っていう表現、たぶんもう今年は使わないだろうくらいの勢いで僕は全く好んで使わない書き方ではないかと思います。それをここで持ち出す感じをお察し頂ければ幸いです。