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走るために走り、踊るために踊る貴方こそが美しい

掲題の通り、今日書くのは何でもない周知の真実です。

そんなあたりめーのこと書くなよと言われたところで、だって今書いておきたいことがそうなのだから仕方がないんだとあぐらをかき腕を組み口を一文字に結ぶ岩塩のような無表情の僕ですが、たとえば新幹線やF1カー、コンコルド、それらかっちょいいスピードマシ~ンが何ゆえかっちょいいのかというと、ただ速さを目指した結果あのかっちょいい形になったのだという事実がおっぱい触りたい男の子こと俺こと僕と二人三脚です。かっちょいいマシ~ンを作りたいおっさんの手によって作られたマシ~ンはきっとそんなに速くなくかっちょよくもなく、ただスピードを求めたおっさんの手によって作られたからこそ新幹線やF1カー、コンコルドはあんなに速くてそのうえかっちょいいのであって、ついでに言えばスピードを追い求めたおっちゃんの横顔までちょっとかっちょいいのです。

これは人間についても同じように言えることで、例えば古代アテネで開催された人類最初のオリンピック。当時はそんなにスポーツの数も多くはなくて今で言うところの陸上競技なんかが主だった種目だったわけですが、別に彼らは槍をなるだけ遠くにぶん投げたることに命をかけていたわけでもなるだけ速く100m向こうに立つために命を賭けていたわけではありません。彼らが目指したのはそんな数字の果てではなかったのです。彼らが目指したのは神々のもつ完璧な肉体でした。当時の画家や彫刻家がそれぞれの方法で表現しようとしていたのと同様に当時のアスリートたちも彼らなりの方法で、神話に登場する美しい肉体を表現・体現しようとしていたのです。そしてそこへ向かうために必要なものが「槍を遠くに投げるために投げる身体」「より速くより遠くへと走るために走る身体」であるということを彼らは知っていたのです。そもそもそんな数字を競うことそのものに意味があるわけないからね。当時はストップウォッチも判定用カメラもないし槍の長さを測る巻尺も男たちが狩りに出ている間の時間に暇をしていた女が自分の指の長さを基準に目分量で作っていたんだよ。そういえばちなみにこの段落に書かれていることは嘘かあるいはうろ覚えのどちらかです。オリンピックがどうのとか、知らん。室伏広治オリンピック村で種付けされたこと以外、僕はオリンピックについて何も知らないよ。

そして話は現代に移り僕です。或いは貴方です。生きにくい世の中の片隅で地面からぴょこんと膝を出すくらいの感じで側溝にハマり佇む僕たちです。遠くの空から汚い雲がゴロゴロとは言わずともやるよやっちゃうよの顔でこちらへ伸びてくるのを僕は側溝に立ち尽くし、お察しします。やがて雨が降り始め僕の靴下はこの街にある数多の中でイの一番にぐしょぐしょになって、やがて僕の頭の中はさっさと靴下を脱いで洗濯してやりたいという思いでいっぱいになるでしょう。

例えばなんでもいいんですけど、書くことでもいいし喋ることでもいいし見ることでもいいし変わろうとすることでもなんでもいいんですけど、それらを手段にしてはいかんのだろうなぁと僕は僕の頭の中の架空のオリンピックアスリートたちから学んで最近思うのです。確かに、僕らのあらゆる衝動は、側溝から抜け出るための、靴下をグズグズにしないための、立派になるための手段であるとは思うのですが、それを手段としているうちはたぶん一生側溝に足突っ込んで繰り広げる人形劇に過ぎないのでしょう。こうして走る彼方に見える立派なおいらに思いを馳せているうちは、本当は俺の足は1ミリも上がってないんだろうと思えて仕方がない。それをやめるためにはそうだな、コンマ1秒先の自分になるためにこのコンマ1秒を過ごすような。

こうして掲題に戻り掲題に思いを馳せて掲題に近づこうとまた側溝に足を突っ込む僕こと俺です。

そういえば全然話変わるんですけど、超面白い本を読みました。実はこの作者の人が僕にとってのいわゆる実はちょっとした知り合い人間で、新生児室でよく一緒にオイチョカブをやっていた仲なんですけど、普通にとても尊敬している人なんですけれども、このたび出た本が何冊目の著作か忘れましたけど初めて糞手放しに褒められる超面白小説で僕もこりゃ大手を振って他人に薦められるぞというわけです。

くじらの潮をたたえる日

くじらの潮をたたえる日

面白くなかった時の愚痴は僕がなんぼでも聞いて手を叩くのでもし気が向いて手にとっていただければ何よりです。以上です。

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