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【再掲】「デビルマン」という糞映画がこの世にある。私はその糞さを記す。

映画「デビルマン」を見ました。かのウィトゲンシュタインは「語りえぬものについては沈黙しなくてはならない」と言いましたが、そんな言葉を思い出すくらいつまらなかったです。

この映画の厄介なところは、丁寧にいちいちつまらないということです。破綻箇所をあげつらうことができると言うことです。「役者が下手だ」と言うことが出来ます。「どしゃぶりの雨の中変身するシーンで変身した後になるとなぜか雨があがっているし他の役者の髪がほとんど乾いている」と言うことが出来ます。「ちょい役で出てきた永井豪、何をカメラ向けられて嬉しそうにしてるんだそんなことしてる場合じゃないだろ糞が」ということができます。しかし、このような瑣末な指摘を口にした時点でその後ろには(だから面白くないのだ)というニュアンスを含んでしまいます。そうではないのです。確かにそういうダメな点はありました。しかしそれは(だから面白くないのだ)という理由にはなりえないのです。もっと恐ろしく邪悪で巨大な何か面白くない根源的な理由があるのですが、それはもう誰にも分からないし物語ることもできないのです。例えば御伽噺で鬼を見た村人の言葉を思い出してください。「でかい角が生えててな」「グワーっと牙が生えていてな」「肌が炎のように真っ赤でな」。確かにそれはそうだったのかもしれません。しかしそれは「鬼が恐ろしい」ということの本質を全く捉えることができていないのです。原爆の悲惨さは原爆記念館や幾多の物語を通じて脈々と語り継がれていますが、「デビルマン」の糞さは鬼の恐ろしさと同様に見て体感することでしか味わうことが出来ません。未だ人類がありのままに語ることのできない剥きだしの糞さが「デビルマン」にはあると思うのです。古来より人間はこのような多くの未知と相対してきましたが、未知の一部は文明の発達により既知となり言語によって整理され現代を形作る常識の一つとなりました。しかし未だ決して明らかにされていない未知がこの世界のほとんどです。そんな時人類はどうしてきたでしょうか。理解できないからと言って放置するわけにもいかない人間の幸福をおびやかす何かを、人類はどうしたでしょうか。人類はその何かを「畏怖」と呼びました。そしてその「畏怖」を「神話」という形でアーカイヴしてきました。虚構をもってしか保存しえない現実というものがこの世界にはあるのです。

僕は「デビルマン」の糞さを後世に残したい。これは「神話」の創造を試みる、哀れな、一人の人間の、書置きだ。

あの映画の初めの不幸は、原作があったということだ。恐らくあの監督は原作を読んでいない人間の目に触れることをそもそも想定していなかったと思われる。その結果、原作を読んでいない人間にはまったく意味がわからず、原作を読んでいる人間には言葉の限りを尽くして罵らずにはいられない糞映画になったものだと思われる。

この映画を見ていると不安な気持ちになります。一切の脈絡がないために5分前に何があったのかを覚えていられなくなるのです。5分前のことが思い出せない自分の正気を疑い恐ろしい気持ちになります。おっかさんの乳房が恋しくなります。しかしそれは貴方が悪いのではないのです。全部この糞映画が悪いのです。あなたは母親から授かった二本の足で、確かにこの大地にしっかりと立っています。どうかそのことを忘れないでください。

この映画はたぶん文字に起こされた台本がありません。すべてカメラを回す直前に監督が口頭で「じゃあまず最初に君がなんとかかんとかというセリフを言って、その後に君がこういうセリフを言ってください」と伝えており、役者はそれのみを頼りに演技しているとしか思えません。そうじゃないと意味がわからないです。また、すべての役者は一律時給850円で統一されていると思われます。そうじゃなきゃありえない演技です。エキストラは監督の友達にモンテローザのエリアマネージャーがいたので、その人に無料で集めてもらったんじゃないかと思います。

そのうえで、映画「メメント」や、漫画「ジョジョの奇妙な冒険」第六部のスタンド/ジェイル・ハウス・ロック(ミューミュー)のような状態に監督はいたのだろうと思えます。5分前のことを思い出せないのは私たちではなく彼です。

もしこの映画を楽しんで見る方法があるとすれば、満三歳になる前に見ることかもしれない。

CGや大掛かりなセットなどがあります。たぶん金はあったんだと思います。ただ二週間で撮り終えないと殺すぞのような条件が監督に突きつけられていたのではないかと思います。

パラレルワールドというものがあるのかもしれません。どこか少し位相のズレた世界では、この映画は超絶面白い名作として評価されているのではないかと思います。そうでなくてはならないと思えるほど、悉く面白くありません。

私たちは「可能な限り速く走ること」を目指すことができます。また、「走らずに留まり、進まないこと」ができます。しかし、「可能な限り遅く走ること」はうまくできません。この映画を見て私が感じる畏怖はそれに似ています。

監督は故人です。公開の翌年に亡くなったとのことです。「ざまあみろ」と思いました。彼が水死なら私は彼に水をかけるでしょうし、彼が焼死なら私は彼に松明を投げつけるでしょう。彼はたった二時間足らずの映画で私の心を真っ黒にしました。

私に言えるのは「決して見るな」ということだけだ。それでも人は見るのかもしれない。多くの人間が、同じ過ちを繰り返し、人はその連鎖を断ち切ろうと願い、「神話」を創造する。「神話」が生まれた後も、「神話」は「神話」としてそこに在り続け、悲劇はまた繰り返されるのかもしれない。「神話」はあらがいにすぎないのかもしれない。それでも私は、これが「神話」の一助になることを願う。私には願うことしかできない。